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i love belgium




元駐在の友人から、

「ベルギー切れ」と、メールが来た。



赤スパの用意はできた?

では美しきブルージュの写真でもご覧になって、しばし脳内旅行を楽しんで下さい。

















ベルギーが好きなすべての方へ。



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不思議の国のアリス




娘が「不思議の国のアリス」に夢中になっている。
1999年制作の実写映画を繰り返し見ては馬鹿笑いし、原作のオランダ語訳を読書中。

2010年にはティム・バートン版(ジョニー・デップやヘレナ・ボナム・カーターなど、常連名優がそろっている)が公開される予定だから非常に楽しみだ。


わたし自身もこの話が好きだった。

K介兄さん(母のいとこ)もキャロルと同じように大学で数学を教えているのに、なぜこんな話ができないのだろう、しかもなぜ彼はあんなに愛想がないのだろう?と、気にしていた。
浮世離れしたピクニックの描写がうらやましく、自分がビクトリア朝のイギリス人でないのを呪った。
アリスのようなエプロンに憧れ、フリルとギャザーと腰のリボンがたっぷりした乳白色のエプロンを布から選んで作ってもらったのだった。いつ着用したのかは覚えていないが。


「赤毛のアン」や「若草物語」など、少女の活躍と成長を扱ったピューリタン的美談は全く好まなかったが、ルイス・キャロルの話は説教臭くないのが良かった。

今、思うとわたしは人生に「意味」を見いだそうとするお話が嫌いなのだ。

「少女」が日常の邪悪なものから世界を救うというテーマ、つらい時も苦しい時も、清く正しく明るい生き方をするアンやジョーに共感する人は多いのかもしれないけれど、世界に起こっては消えるいろいろな出来事に意味など見いだそうとせず(意味を見いだすということは、それはつまり世界を限定してしまうということだ)、欲望のままウサギを追いかけるアリスにわたしは深く共感する。


そういえば名曲「飛んでったバナナ」も好きだったな...
「もぐもぐもぐもぐ食べちゃった。たーべちゃったたべちゃった。」あれですよ。

鳥に食べられそうな絶体絶命の危機に直面しても、ボンボコツルリンとワニと踊って至福の時を過ごそうとも、意味もなく突然に始まったバナナの冒険は、また意味もなく唐突に終わるのだった。



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ブルージュ住まい




ブルージュに住んで10年。
根岸の里の侘び住まい...


いや、こんなに長く住むつもりはなかった。

わたしが10年前、唯々諾々とべルギーにやって来たのは、わが家の経済活動事情(収入事情ではない)では、世界中どこにでも居住が可能であるため、2、3年のうちに一番住み心地のいい街を見つけてそこに移住したらええわ、と思っていたからである。

「どこにでも住める」という自由に影を落とすある種の、(自分が勝手に設ける限界という意味での)不自由さ、には思いが及ばなかった...

例えば、ベルギー国内に、とか、アメリカ西海岸へ、仕事の関係で、とか、今年中に引っ越ししなければならない、などという多少の縛りがあった方が、選択肢が無限にある場合よりも腹を決めやすい、と思うのである。少なくともわたしのような性格にとっては。


ブルージュの安全安心安定した生活と、未知数がいっぱいの他都市の生活をひき比べると、どうしたってブルージュの獲得ポイントの方が高くなってしまう。
家族に子どもがいるため、学費が無料で教育レベルも高く、福祉が充実した、安全な街、祖父母が徒歩圏にいる生活はなかなか捨てられない(もうこれが唯一つブルージュを引き払えない理由と言ってよい)。

夫と大人二人だったら、とっくの昔に絢爛たる腐臭ただよう大都市へ引っ越していただろうと思う。そしてブルージュスタイルではなく、シンガポールスタイルとか、パリスタイルとか、同工異曲の駄文を連ねていただろう。



あと8年して娘が大学へ入ったら、夏を欧州、冬を日本(含む他のアジア)で暮らす、という落としどころをつけるつもりである。いやもう絶対に。
わたしが冬のタイにいるときや夏のリビエラにいるとき(冬のリビエラじゃないよ・笑)に、娘が休暇で宿題を抱えて遠くからやって来る...

なんて考えただけでもニヤニヤ笑いが止まらない。


彼女の自立を促すため、どこででも寝られて、何でも食べられて、誰とでも平和に共存できて、今の自分の行動が先にどういう結果を生むかという判断を的確に下せる能力を早急に身につけてもらおう。
わたしは初めの3つをすでに身につけているから(笑)、最後の「今の自分の行動が...」を早急に身につけて、10年後に「ブルージュに住んで20年」などとブログに書くことがないよう、精進しよう。




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フランス語!









6月は学年最後の月だ。
9月から娘は5年生になる。

そしてフランス語の授業が始まる。

中学校から始まるラテン語(と、ギリシャ語)の基礎になるため、フランス語は確実に身につけておくべきだそうだ。
娘が誕生して以来、彼女と一緒にラテン語を学習することがわたしの夢のひとつなので、大変喜ばしい。一旦始まったら嬉しいどころか悪夢だったということに気づくのだろうが。


先月パリのボンマルシェで見つけた幼児向けのフランス語辞典。イラストがあまりにかわいいことが決め手であった。
レジで後ろに並んでいたマダムもわたしの手の中にあるのを見て一瞬で惹かれたようだ。「マダム、その辞典、どこにありました?」「その(平積みの)コーナーですけど...たぶん最後の一冊ですよ。」「(店員さんに向かって)ちょっと!これと同じものがまだあるの?」(なかったみたい...)









おそらく辞典としては使えない。
絵を眺めるだけ。
わたしは子どものころ、当時の庶民の応接間用神器として人気だった、何十巻もの百科事典を眺めるのが大好きだった。

こういうタイプのラテン語版はあるかな?
植物図鑑や動物図鑑も楽しそう~。

今はまだのんきに。



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何が言いたいのか分かりません病




今となっては何十年も前のことだ。


ありとあらゆる不仕合わせが立て続けに起こって、藁にもすがりたい思いで日々を過ごしていたことがあった。
今考えたら、全然大したことないことばかり...と、あっさり言えるのだが、「不仕合わせ」も「仕合せ」もすべて文脈次第である。当時のわたしの文脈では、わたしは袋の中に入れられた鼠だった。


在学していた大学にちょうど学生生活相談室のようなものが設置されたので、さっそく心理学の先生を訪ねてみた。
心療内科を訪ねたこともあった。

英語で友人に長い手紙を書いたりもした。これはわたしが気取っているからではなく、不思議なことに英語で書いた方が「何が問題なのか分からない問題」の核心に肉薄できると感じたからだ。
同じ理由で、例えばタイムの記事を見知らぬ講師とサシで講読したら何か解決の糸口が見つかりそうな気がしたので、英会話教室に見学に行ったこともあった(講師のレベルが粗末だったので実現しなかったが)。

これらのことは、米国で英語をツールにして「グループ療法」や「精神科に通うこと」が有効であることと無関係ではないと思う。断っておくがわたしの英語能力が優れているとか、アメリカに憧れているとか、そういうことでは全くない。人間が自分について語ることができるのは、相手がいる場合(含自分自身)だけである。たぶん英語は構造的に、聞き手を非常に意識しながら泥縄に「自分について語る」にふさわしい言語なのだろう、と思う。


...閑話休題


母に相談した時、彼女は一言、「もう死んでしまいたいだなんて、そんなこと、できる訳がないじゃないですか」とソファに座ったまま言ったし(そうだろうと思ったよ)、親友と飲んでも気が晴れるのはその時だけだし(その後かえって寂しくなるのさ)、まあ、単に若かっただけかもしれない(<当時のわたしに一番嫌われそうな態度)。



わたしはずっと

「自分が何者であるか(つまり何が言いたいのか)が、この人に話しているうちに分かりそうな相手」

を探して歩いていた。

と、気がついたのは、昨日車を運転していた時のことだった。

こんなことはもう常識で、誰でも知っているのかもしれないが、わたしは知らなかった。昨日まで(笑)。



そういうことをしなくなったのはいつからだったのか、なぜだったのかは分からないが(うすうす知っているけれど)、ある日適当に着地してからずっと涼しい顔をして生きている。
たぶんこのブログで駄文を連ねるのも「書いているうちにいったい自分は何が言いたいのか分かりそう」な気分になってくるからだ。
わたしの「何が言いたいのか分かりません病」は完治していないが、病とつきあって行くやり方は覚えた。


生きていてよかった。
みなさんありがとう。



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