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Brugge Style
フリット・ポット
わたしは日本では見たことがないのだが、何でもある日本のことだ、きっとどこかでは使われているのだろう。
フリットポット。
ベルギーの家庭にはほぼ100パーセントあるに違いない炊飯器型の揚げ物用調理器具だ。
ベルジャン・フライ(フライドポテトのこと)を食べるためにはなくてはならないのである。
イモを揚げる用途以外には容量が小さすぎ、揚げ物をする器でありながら釜以外は丸洗いができない、という半端な仕組みの器具で、みるみるカーボン14のようなしつこい油汚れが蓄積していく。
おお、これがわたしの体内の様子でもあるのか...と中年に反省させるパワーだけは十分すぎるほど備えている。
できれば思う存分使って1年おきくらいに丸ごと買い替えたいのだが、わたしの心の隅に、ベッドの下に打ち捨てられた人形のように残っている良心が傷むゆえ、そんなことはできない。
結局わが家では1年に一度くらいしか使わないので、そうだな、無用の長物の代名詞、戦艦大和が油まみれで倉庫で場所を取っているような感じである。
わたしが唐揚げやコロッケや天ぷらを我慢できたとしても、夫に揚げイモ食うなというのはわたしに白飯を食うなと言うくらいの極刑であり、だから彼がどうしても食べたいときは義理母に「作って...」と甘えるか、屋台で買うことで解決している。
ところでベルギーではカップルがフリット・ポットを買うと、それがカップルであることをオフィシャルにする印、と言われているそうだ。
このパートナーと覚悟を決めてつき合って行こう、このフリット・ポットと共に土に帰るまで、ということだろうか。
いろいろな意味で重たいです。
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菜の花ポテト
娘が
菜の花ポテト!
菜の花ポテト!
と、連呼するので、日本の新しいお菓子だろうか、春らしいな
でも、どこで食べたん?!
と思って聞いてみたら、
いろはにほへと
だった。
いろはにほへと
なのはなぽてと
諸行無常。
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cicely mary barker
Cicely Mary Barkerと言っても、多くの方が「誰?」と思われるだろう。
しかし彼女の描いた妖精の絵をご覧になれば、「ああ、このひと」と膝を打つ方も多いに違いない。
先日ハンドバッグとビッグバンという駄文を書いたときから、わたしが幼女の頃愛用していたバッグには、外国製の紙ナプキンや、銀のロケットや、母のブローチから落ちたラインストーンなどの他に何が入っていたか思い出そうと努めていたのだ。
やっと今日になって思い出したのが、お菓子のおまけに入っていたシシリー・メアリー・バーカーのカードだ。
それにしても「チョコレート、妖精、カード」とタイプするだけで、30年以上も忘れていた画家の名前が踊るように出て来て、しかも祖母がMoetに似てると言っていたラベンダーの精(わたくしにもあどけなき幼女時代があったということでご容赦願いたい)がウィキの頁に掲載されているとは、これが妖精の魔法じゃなくて何なんでしょうね。
チョコレートなど滅多に食べさせてもらえなかったから、人にお願いして何十枚もコレクションし、掌の中の玉のように大切にしていたあのカードは、いったいいつ、どこにいってしまったのだろう。
今ならアマゾンなどでいとも簡単に画集などをオーダーできるようだ。
あの有名な猫型ロボットはポケットからいろいろモノ(それもたいがいかさ張るモノ。あれを見ていると、重工業が産業の花形だった時代をそのまま反映しているのだなと感慨深い)を取り出すが、わたしたちはネットから、モノじゃない「もの」を取り出す。それは急場を取り繕う便利グッズなどではなく、思い出とか、パズルの最後の1ピースだ。
わたしの中にまだひっそり住んでいる幼女に画集を買い与えるべきだろうか。
それともそっとしておくべきなのだろうか。
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le merveilleux

le merveilleuxは、わが家からごく近所、ムント広場に去年末現われたティールーム。
マルクト広場から延びた商店街の脇道にある木造屋。
何世紀の出来事だったか失念したが、ブルージュである時大火災が起り、その後木造建築は禁止されたというからかなり古い建物であろう。
インテリアのセンスも素敵で、クスミティを出し、店内で焼かれているケーキもおいしい。
おすすめです。
Le Merveilleux
Muntpoort 8-9
8000 Brugge
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美
矢鱈と「美」に関する記事が多いのは、わたしがそれとは遠いところにいるからだ。
「美」人は「美」について語ったりしないものだ。
幸せな人が幸せについて語ったり、金持ちが金について語ったりしないのと同様。
何かを満足に持っているということは、つまりそれについていつも考えていなくてもいいということだから。
いつものことながら、なぜこんなくどい前置きをしているかと言うと、「美ス○ーリー」というくどい女性誌を講読しているのだが、今日届いた2月号(新年に出たもの)の巻頭がショッキングだったのだ。
40歳前後の大変に美しいモデルさんが5人、着物姿で登場し、今年目指す「美」についての熱い意気込みを書き初めスタイルで公表...
これがまたすごいんです...
編集部はモデルさんたちを貶めようとしているのだろうか?このモデルさんたちのこと、嫌いなん?という書の出来映えなのである。
わたしがもし編集者で、平生、モデルさんのことがジェラシーゆえに気に食わないとしたら、この書き初めを喜々として目出たい新年号に載せるだろうな(笑)。
まあ、悪筆であっても仕事は仕事、要求されたことはなんでもします、という見上げたプロ意識の吐露は素晴らしいと言わざるをえないのだが、40の大人になって、この程度の筆跡(本当に小学一年生、初めての書道!といった感じです)では、美女のご愛嬌とも言えないのではないか...
実際、子どもに持たせる学校への一筆とか、ビジネス関係への挨拶とか、この字で書いてるんですよね...それに成人前に家庭ではなにも言われなかったのだろうか...食事の仕方などと同じレベルで...ええ、大きなお世話ですね...
....てんてんてんって困惑を表すのに便利ですね(笑)。
わたしの感覚がどうしようもなくズレているのかもしれない。
この時代、外見的な美と欲望のあらわな追求のためにだけ的を絞った雑誌が出版される時代になって、教養を積み、精神を豊かにし、美を表現する人間修養の方法として、字の巧さ拙さだけを取り上げるのはどうか、と反感を買うのは覚悟の上である。
現にわたしだって、この雑誌を講読してるわけやんか。
ああ、でも、でも、でも、外見をここまで磨く時間と資金と環境があり、機会ごとに内面の「美」の重要さを一般的女性に向けてとくとくと説くならば、なぜ字を習わない?と思わずにはいられないのだ。
10人並みの容姿の女性であっても、芳名帳やはがきの墨跡鮮やかな女性のほうが、20歳の女の子に並んで負けない美貌を維持した40女よりずっとずっとずーっと美しいと思うのだが、どうなんだろう。
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