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「科学が証明した幸せになる方法」




今日はブログ更新の時間がないと思っていたのですが、タンブラーでこんなのが回ってきたのでご紹介(タンブラーを見る時間はあるんかい)。

そうです、昨日の記事『今日の「よかったこと」』をちょっと思い出していただけたらうれしいです。

なお、引用元はどこか不明ですし、ほんとうに科学的なのかどうかは置くとしても、大人なら誰もが説得力があるなと感じるのは確実です。

(一番最後の項目の表記が変なのは原文ママ)


「科学が証明したすぐ幸せになれる16の方法」

すぐ幸せになれる、ちょっとしたこと5つ
ほほえむ
背筋を伸ばして大股で歩く
声をあげて笑う
お茶の時間など、小さな瞬間を楽しむ
ほかの人に親切にする

毎日の習慣になると幸福になる6つのこと
祈る
動物と遊ぶ
感謝の日記をつける
楽しい音楽を聴きながら協力しあう
睡眠を十分にとる
公園に散歩に出かける

少しがんばると幸せにつながる5つのこと
運動する
瞑想する
ボランティア活動に参加する
旅行に行く
乜ッ久する
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今日の「よかったこと」




知り合いに桁違いの金持ちがいる。

その家族は、庶民にはうかがい知れないような習慣をいくつも持っているが、わたしが特に賞賛しているのが

「夕食時に家族それぞれが今日一番よかったことを報告し合う」

という習慣である。


さぞかしスケールの大きい「よかったこと」が飛び交うと思いきや、「バレンシアガのコレクションでもう秋だなと感じた」とか「ダニエルのケーキがおいしかった」「お稽古で先生に褒められた」「もうないと思っていた明太子が残っていた」など、ごく普通のことで、普通がいいのだという。

当然彼らも人間ゆえ、「よかったことなんか思い出してられるかい」というような日もあるそうだ。それでもなにかひとつ「よかったこと」を絞り出して言う。「こんな習慣アホみたい」と思った一時期は、毎日同じことを棒読みで繰り返したと老マダムは笑う。


小さなよきことに注目し、自分の心の置きどころ次第でどれだけ幸せになれるかを意識し、その日をよい日だったと機嫌よく終わらせるのはかなり大切なことだ。

わたしはこの習慣がこの家族の成功の秘訣だと確信している。



この素敵な習慣の話は何十年も前から聞いていて、実家でも「うちでも真似しようよ」と掛け声をかけたこともあったし、家庭を築いてからも実践しようと思っていた。が、ずっと忘れていた(だからうちは成功しないのだ)。

ふと思い出したのは、ブログやインスタやフェイスブックなどで散見されるハッピーなあれこれが、「現実が充実して、現実がほんとうに幸せな人はSNSにいちいち写真をあげたり自慢したりしない」と批判されているのを読んだからだった。


そうなのだろうか。


今日の服装のコーディネート、頑張って作った料理、楽しいイベント、子供や友達やペット自慢、一目惚れしたスカート、誰かのやさしい言葉、ふと思いついたアイデア、何かをクリアしたとか認められたとか褒められたとか、そういうSNS上のよくある話が、心理学が教えるように「たいしたこともない日常を繕うための虚飾」とか「人に実像よりよく思われたい欲望」だとはわたしには思えないのである。

SNSで「今日よかったこと」を報告し合うのは、上記の家族がやっていることと同じではないのか。
繰り返しになるが、自分の心の置きどころ次第でどれだけ幸せと感じられるかを意識すると、自然に感謝の気持ちが湧いてくる。周りの人にやさしく楽しく接したくなる。


感じがよかった店員さん
美味しかったハンバーグ
きれいだったハワイの海
新調した財布
がんばったぞと今日の成果
Aちゃん大好きとハートマーク


「現実が充実してほんとうに幸せな人は自己顕示をする必要も自己承認欲求もない。だからSNSで自慢したりしない」などという賢いセリフは無視して、どんどん「よかったこと」を発信したらいいと思う。



(写真はイタリアのコーヒー。誰かが入れてくれたおいしいコーヒーは間違いなくわたしの毎日に欠かせない「よきこと」だ。
これ、わたしの腕じゃなくってよ・笑)
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断酒のボーモン









妙に落ち着ける、大好きなボーモンのアメリカン・バアに行っても
テーブルの上はこんな感じ
スパークリング・ウォーターとダイエット・コーク


夫が断酒して7ヶ月、

ひとりで飲んでもちっともおもしろくないので
わたしもほとんど飲まなくなったのだ

自然と、チーズや生ハムを食べる頻度も減った

バアは雰囲気が好きなので未だよく行くが
あれほど通っていた「ワイン・バア」系にはとんと行かなくなった

早寝早起きになり

イタリア人に「人生の楽しみ半分でしょう」と言われ

今まで酒代にいくら使っていたんでしょう...と思ったりもする



一方、ディナーに行ってワインを頼まないのは
ちょっと肩身がせまい、申し訳ないと感じることがある

カリフォルニアのレストランで、「飲まないの? 実は私もよ!」と
ウェイトレスさんに言われたのは、なんかうれしかったな


家の在庫のワインの処分はどうしようかと思うこの頃
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神々の劇場



Taormina



Segesta

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シチリア・マジック





シチリア旅行の写真を整理中。


今回の旅では、ガイドブックには載っていないサイズの村々をぶらぶら訪れるのも目的だった。

内陸部の山頂に鳥の巣のように乗っている村の極細道を走るのには、レンタカーがちと大きすぎたが、夫の運転のおかげで、人口1000人前後の村をたくさん周遊できた。


衝撃的だったのはドゥオモ(大聖堂)をはじめ教会の多さ。
(大聖堂の数は、暇を見つけてベルギーのその数と比較してみたい)

しかも打ち捨てられた教会がものすごく多かったことだ。

これは19世紀、イタリア統一政府による教会財産没収に端を発するのだろうか?
それとも反政府暴動事件セッテ・エ・メッソ(7日半)を鎮圧するためにシチリア入りした反聖職主義者による接収が原因か。
あるいは世界中で起こっている人々の「教会離れ」?


むろん、華麗に保存されている教会施設も天上の美しさな一方で、屋根が落ちていたり、猫屋敷になって朽ち始めていたりする教会建築の諸行無常の寂び感は、物質世界の儚さを現していた。

おごりや虚飾を捨てきった佇まいの美しさは、まるで魂だけを残しているかのようでえも言われぬ。



人口800人ほどの山頂の村の、石畳の急な坂道で転んだ時の話を。
暴力的に転んで流血したのは...太陽がまぶしかったからだよ、ママン。
正午過ぎで、周囲の家はひっそり静まり返り、道行く人もいなかった。それにもかかわらず、突然わらわらと人が出て来、心配してくれ、ある人などは後から車で水とタオルを持って追いかけて来てくれた。手首を5ミリほど擦りむいて、向う脛に青タンができただけなのに...
当日の村の一番の話題は「コミカルな大転倒」だったにちがいない。


別の人口1500人程度の山頂の村の夕暮れ時の話。
シチリアには夕涼みにあたるような習慣があり、村人たちが三々五々、おしゃべりを楽しみに出てくる。
崖上の展望台広場から夕焼けを見、広場を入ったところのバールに入った。突然、伝統的な黒い服を着た老女たちが続々と集まって来た。何か無作法を非難されるのかと思い、一瞬怯んだ。と、彼女らはわたしを拝む(!)ようなポーズをとったのである。
「ヴァチカンで見た絵の中の人のように美しい」(スンマセン)と、壁のブロマイドを取って見せてくれた。
クロエの白のシフォン地が重なった、ひらひらしたドレスを着ていたからだと思う。
言葉の限りを尽くして褒め殺しにされ、「日本語で美しいとは何と言うのか」と聞かれ(<自分では厚かましくてとても言えず、夫が「カワイイ」だと教えたが、かわいいと美しいは全然概念が違うぞ)、お店のものを全部買い上げようかと思ったほどデレデレと喜んだのである。
わかってますて、クロエのドレスが褒められたんですて。
旅人をからかう暇つぶし、あるいはドッキリだったのかもしれない。
ラッキーだったのは夫と娘だ。その後わたしは英国に帰宅するまでずっと鷹揚で機嫌がよかった。


ひなびた観光地、太陽にやられてひとりで休憩に行った。甘いものを欲したので自動販売機のコーヒーを買うことに。
わたしの前でコーヒーを買っている家族のグループが大騒ぎをしており、ちょっとーはやくしてよーと思っていたら、機械にお金を入れすぎたからという理由でラテ・マキアートをおごってくれた。
始め訳が分からず、そんなうまい話があるかと警戒したが、少し英語ができる坊ちゃんが説明してくれた。お母さんに10回くらい投げキッスされたため、このマキアートはイタリアン・マダムの甘い投げキッスの味がした。


その他、思い出し笑いはつきない。


太陽がギラギラと輝き、体力をどんどん消耗し、高速以外の道はメインテナンスが悪く、みなさんにちょっと嘘みたいによくしてもらい、食べ物はどれもこれも別格においしく、堆積した時間は美しく、寝具の質と整え方(いろいろな国を旅行したがイタリアが最高)の魔法! 太古の昔から人々が南下して来て競って教会を建てまくった気持ち、分かる。
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