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ブルージュの夕暮れ





週末からブルージュに帰省している。

2月の、春を感じる晴れの日の夕暮れ、午後6時。
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don quixote 2019




昨日は Don Quixote 公演が英国ロイヤル・バレエで始まり、昼間のリハーサルと夜のオープニング・ナイトの両方を見た。

今シーズンの『ドン・キホーテ』はこの後4回観覧する予定! 


ミンクスの優れた音楽と、基本のプティパの振り付け、特に筋があるわけでも、有意なわけでもないドタバタ劇だが、登場人物のポリフォニーがとにかく最高に楽しい。

舞台装置に描かれたスペインの真っ青な空のように、「人生はこうでなけりゃあ」という一種の達観がすがすがしく、公演が終了後は超ハッピーになれること請け合いの作品である。


まずはオープニング・ナイト...

頭がおかしくなったかと思うほどすばらしかった!

客席の周りの知らない人と手に手を取り合って歓喜の言葉を交わし合いたくなるほど。

優れた才能というのは、それを持つ人のためではなく、一種公共の、人類への贈り物なのであるとつくづく思った。


ヒロインのキトリ役Marianela Nunezは登場するなり舞台を支配し、最後まで輝く笑顔と完璧な舞踊でひっぱっていく。
彼女のダンスはひとつひとつの動作の息が考えられないくらい長く、ごまかしや、微修正や、有耶無耶さがない。ダンス技術も最高なら、音楽性も、運動神経も空間認知能力も完全無欠。

相手役のバジリオ役はVadim Muntagirovで、彼はこれからもまだまだ伸びるのかもしれないが、確かに昨夜は身体能力もアーティストとしても最高値にあると思った。毎回が最高値か。すごい褒め言葉。
マリアネラと同じように繊細にして大胆、いわば少女漫画の王子様のような雰囲気で(どちらかというと「床屋」のバジリオには見えない。王子様だ)あの細い鞭のような強靭さはすばらしい。

2人の第3幕目の結婚式のパ・ド・ドゥはこれ以上のものは見たことがない、と断言できるくらい神々しかった。
会場はどよめき、最後は会場総立ち、拍手鳴り止まず。
バレエ・ファンで昨夜を見逃したとしたらそれはもう大損! 
オープニング・ナイトは批評家や大ファンが集まるので、いまひとつなときは結構しらっとしているが、昨夜のような完成度だともう盛り上がる盛り上がる。


有名マタドール役の平野亮一さんも超ウケまくり(前回演じたときも、批評家が「Yakuza」な雰囲気がすばらしい、と書いていた)、彼の舞台上の存在感といったら、ほんとうに視線を流しただけで女性ファンを失神させる有名マタドールそのものだった。

ドン・キホーテの夢に出てくるドリアドの女王役、金子扶生さんもすばらしかったです。彼女はプリンシパルに昇進すると思う!



昼間のリハーサル中(第2幕が始まってすぐ)に、なんとまたエマージェンシーが発生。

ロイヤル・オペラ・ハウス内から全員が避難させられ、建物の外で30分ほど待たされ、結局続演までに小一時間ほどかかったか。
会場係に聞いたら、小さなボヤが発生し(ハウス内にはキッチンが無数にあるそう。一般向けのレストランも少なくないし)、報知器が鳴ったものの、火が小さくてなかなか見つけられなかったとか...

外で待機しているときにたまたま数台の救急車がオペラハウス付近で停車したため、それが原因だと思わされた。もしかしたら警報が鳴ったために大事をとって来たのかもしれない。

結局、夜に今シーズンの初演を控えているため、リハーサルは時間切れで一番盛り上げる第3幕がキャンセルになり、まあ何事もなくてよかったが、カーテンコールもなく、消化不良で帰途についた人も多かろう。

そういうアンチ・クライマックスのせいもあり、盛り上がりも何も...

キトリ役のYasmine Naghdiの柔軟性が目を見張るほどすばらしく(あの足首の柔らかさ!)、美しく、手足が長く、バレエ的に眼福。
もっと舞台上の存在感が大きくなり、彼女の登場で舞台の色が一瞬にして変わる(特に優れたダンサーは全員そういう「華」を持っている)ようになるのを期待している。


(写真は全シーズンのマリアネラでthe guardianから拝借。Tristram Kenton)
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ヴァレンタイン・コンサート



柄にもなく、「ヴァレンタイン・コンサート」なるものに行ってきた。
(右写真、このプログラム表紙デザイン素敵)

於ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホール。

Philharmonia Orchestra
Christian Schumann (conductor)
Anna Fedorova (piano)

Verdi
Prelude to Act 1 from La traviata
Rachmaninov
Piano Concerto No.2
Tchaikovsky
Fantasy Overture, Romeo & Juliet
Debussy
Clair de lune from Suite bergamasque
Bizet
Excerpts from Carmen
Mascagni
Intermezzo from Cavalleria rusticana


ヴァラエティ・ショウ形式で、ヴァレンタインを馴染みの曲で楽しもうよ! という雰囲気だ。
客席の平均年齢が60歳以上というのもとてもロンドンらしい。

フェドロヴァの演奏は美しかったが、恐縮しつつ偉そうなことを言わせてもらえば、フィルハーモニア・オーケストラと「共演」するような感じではなく、この曲に限ってはそういったパーソナリティーや不可欠な強さに欠けるのではないかと感じた。学生さんの演奏、と言いますか。


驚いたことに、先週のエフゲニー・キーシンのコンサートに引き続き、昨夜もメディカル・エマージェンシーが...
ラフマニノフのピアノ・コンチェルトの第三楽章の最中に、その列の人全員が移動させられ、心配になったほどだ。
どんなに健康な人でも具合が悪くなる可能性はゼロではないし、誰でもいつか老人になるのであるから仕方のないことだと思うが、2週続けて遭遇するというのはすごい確率ではないか。


トイレで居合わせた女性に「あなた、オーケストラのメンバー?」と聞かれた。確かにわたしには珍しく黒いドレスを着てはいた...バレエを観に行けばしょっちゅう「あなたダンサーでしょう」と言われるので、きっとわたしは「内部の人間」みたいなしたり顔で歩き回っているに違いない。
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je t'aime un peu








ラデュレ、ヴァレンタイン・バージョンのサントノーレ
(フランボワーズとレモンとジンジャー風味!)と紅茶で

めでたさも中くらいなり 結婚20年のヴァレンタイン


今夜はコンサートへ行く予定

みなさまもよき一日を
(今からでもいい日にできるよ!)

......


これだけでは何なのでもっとロマンティックな話を...

娘と今の彼が親しくなったきっかけが愛らしい

医学部のクリススマス・パーティーで
パーティーが終わる頃、会場のピアノでバッハを弾いた友達男子がいた(酔っ払って)
娘は、こういう時にバッハは上品すぎるのではと
バッハ君を押しのけてショパンのバラードを弾いた(酔っ払って)
会場は当然ざわざわしているのでほとんど誰も聞いていないだろうと

その演奏を聴いた彼が恋に落ちたとか(酔っ払っていたのかしら...)

いいなあ青春ど真ん中!

娘にボーイフレンドができたと聞いて機嫌の悪かった夫もこのきっかけ話には溶解

彼もピアノが弾けるそうで、娘が彼のベートーベンのソナタをみているんですってよ...

そうそう、彼、ある球技のチャンピオンで、おまけに料理もできるんですって!
そんなスーパー・ティーンエジャー、実際にいるんですね!
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二羽の鳩




英国ロイヤル・バレエが上演中の2本立てを。

Asphodel Meadows
by Liam Scarlett

The Two Pigeons
by Frederick Ashton


『二羽の鳩』
古い。古すぎる。
脚本をそっと閉じて再びお蔵入りさせてもいいと思う。
本物の白い鳩はとても愛らしいが。


『二羽の鳩』は、フレデリック・アシュトンが1961年に制作し、「アンコールの声高く」数年前に再上演された作品だ。

わたしも2016年に初めて鑑賞したときは、フレデリック・アシュトンらしい、上品でコミカルで、他愛のないいい作品だと思ったのだが、あれはひとえに主人公を踊ったローレン・カスバートソン(写真)の優れたコメディエンヌ性と品の良さだけに依拠した結果だったのだ。


バレエのストーリーは古い作品だからといって古くさくなるのではないと思う。
古いのと古くさいのとは違う。

現に三大バレエと呼ばれている作品はどれも古色蒼然としたストーリーのベースを持っている。
しかし、いや、それだからこそ、何度も語り直され、挑戦され続けている。


では『二羽の鳩』はどこがいまひとつなのだろうか。

この話の主人公のカップルの男性が、どうしようもないアーティスト(気取り)の男で、そのようなつまらない男を2人の女が取り合うのは馬鹿げているとか、浮気をして戻って来た男を女が許すのは自己評価が低すぎて見ていられない、そんな男は今すぐ捨てるべきだ、現代の男女の感覚に全くそぐわないなどというのは(実際ある評論はそう書いていた)的外れだと思う。

なぜならクラシックバレエの悲恋はだいたい常にそのような話だからだ。

クラシックバレエの話が古びて駄目になるとき、それは話に語り継がれるべき核心や普遍性がないときだ。

例えば『白鳥の湖』はとても古い作品で、舞台背景も『二羽の鳩』が設定している時代よりもずっと古い。
しかし、話の構造が入れ子状になっており、それ自体がおもしろい。

また、登場人物ひとりひとり、実在する人間のように曖昧で二面性があり、どうにでも解釈できるキャラクターの厚みがある。
それらは人間性の本質への深い洞察に基づいていて、自己同一性の不確かさ、孤独な魂、成熟するということ、罪と罰、愛と許し、死人や神、この世とあの世、そして生と死、人間と世界そのものが語られている。

『白鳥の湖』の王子も、2人の女性の間で失敗するどうしようもない男の一人であるが、こちらが滅びることは決してないだろうと思う。


一方で『二羽の鳩』はキャラクターが紋切り型すぎ、ストーリー自体が薄すぎるのだ。
若いアーティストは気難しく、若い彼女はかわいらしいだけで落ち着きがなく、ジプシー女は奔放でセクシー。彼はジプシー女に惹かれるが、目が覚めて彼女の元に帰ってくる...おもしろいところがひとつもない。

人間の集合知のように幾重にも重なる層で構成されていない薄い話は、おそらくどんなにすぐれた振付家(フレデリック・アシュトンその人)が振付ようと、一過性にしかならないのだと思う。

何度も上演される作品、時間と批評をくぐり抜けてきた作品というのは伊達ではない。

ダンスの技術だけでなく、人間性に対する深い洞察力とそれを表現する能力もある優れたダンサーを薄い話に使うのは才能の無駄遣い...だと素人は思った。
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