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Brugge Style
新型コロナ版『くるみ割り人形』
今年3月下旬に実施された、英国の一回目のナショナル・ロックダウン以来、その扉を固く閉じていたロイヤル・バレエが、9ヶ月ぶりに観客を招いた公演を始めた。
ウイルス拡散を防ぐための工夫をしながらのバレエ公演、12月、クリスマス前、『くるみ割り人形』。
新型コロナウイルス対策を入れての公演なので、まずチケット販売数は普段の半分。
座席は座席番号で選べず、エリアの指定のみしかできない。2席ごとに間隔を空ける設定になっているので、自然2枚ずつの販売が主で、3人など奇数を買うのは難しい模様。
かなりの争奪戦だったようだ(現在1月3日までのチケットは完売)。
前後両隣の座席間隔を空けつつ(下写真)、階層によって人が混ざらないように工夫がされていた。バアやショップも閉まったまま。
とはいえ、化粧室で混ざり合ってはいたし、劇場に出入りする時間もスロットになってはいたが、守られてはいない模様だった。
演者側、ダンサーやオーケストラのミュージシャンの数も、フルバージョンを100とするなら半分ほど。
例えば、クリスマスイヴの夜に、主人公の少女クララの家に集まるゲストも、新型コロナウイルス禍のパーティーよろしく、半分から3分の1ほどに再編成されている。
このお話の狂言回しドロッセルマイヤーさんの手品を見、プレゼントをもらい、悪ふざけをして賑やかさを醸し出すゲストの子供役は、たったの4人(フルバージョンは12人だったと思う)。
チャイコフスキーの有名な音楽も、繰り返し部分がカットされていたり、クララが旅するお菓子の国では「アラビアの踊り」が完全に省略(残念)されていた。
他にも、クララとくるみ割り人形(に姿を変えられていた青年)が、ねずみの王を倒した功績を讃えられ、お菓子の国の女王シュガー・プラムの精から勲章を授けられるシーンでは、ダンサー同士が接触する他のダンサーの数を最小にするためだろう、ドロッセルマイヤーさんが授けたり(<話の筋としてはおかしい)...
もちろんこのような状況下で、フルバージョンに比較するのはナンセンスだが、「そんなに急がないで」という感じは否めなかった。
9ヶ月ぶりだからこそもっとゆっくりと鑑賞したいのに。
しかしそんな微妙な満たされなさも、Marianela NunezとVadim Muntagirovのグラン・パ・ド・ドゥで吹き飛ばされた。
天女の衣には縫い目がなく、なめらかだと言う。彼らのダンスはまさに天衣無縫。丁寧で、緻密で、音楽性があり、動きひとつひとつに迷いも無駄もない。これぞクリスマスの魔法。
魔法といえば、雪の精を演じるコールドバレエも、ドロッセルマイヤーさん役のGary Avisもすばらしかった。
新型コロナウイルス禍で英国が一回目のナショナル・ロックダウンに入ったのはもう9ヶ月も前、3月の下旬だった。
だからわたしが最後にロイヤル・バレエの公演をロイヤル・オペラ・ハウスで見たのも3月。
日本へ一時帰国する前日で、『白鳥の湖』をMarianela NunezとVadim Muntagirovの主演で見たのだ。これがまた「すごいものを見てしまった」のですよ...オープニングナイトもすごかった。
日本から英国に戻ったのはロックダウンが始まる前日で、それ以来、昨日まで9ヶ月も生の公演を見ていなかったことになる。
普段のシーズン中は一週間に2回は見に行く、わたしの日常生活のペースメーカーとなっているのに、これなしでよくぞ生き延びられたなあ。
来年の今頃、ロイヤル・バレエでは何が上演され(去年は『コッペリア』だった)、何が日常になっているのだろうか。
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ポピュリズムとEU離脱
関税で値段上がるでしょうなあ、を言い訳にクリスマスプレゼント。
昨日のブログ記事を書くために、川北稔先生の『洒落者たちのイギリス史』を読み直していたら、後半219ページにこのような記述があった。
「17世紀も後半になると、この国の貿易関係にも革命的な変化が起こる。新世界やアジア、アフリカとの貿易が爆発的に拡大し、これまでヨーロッパに閉じ込めれれていたこの国を、世界商業の桧舞台の主役に押あげたのである。『イギリス商業革命』とでもよぶべきこの現象は...」
17世紀後半についてだが、ここを21世紀初頭に入れ替え、『イギリス産業革命』を、『ブレグジット』に入れ替えればあら、現在の離脱派の理想の話?
ご存知のように英国は今年1月にEUを離脱した。
今年いっぱいは離脱の「移行期間」にあたり、加盟時と同じルールで動きつつ、移行期間終了後の各分野の取り決めを11の分科会で協議し、交渉してきたのである。
今日(12月13日)は伸びに伸びた妥結の日であり、しかし数日前から合意に至りそうなニュースも妥結延期の様子も全くなく、ついには合意なき離脱に備えよ、そんなに悪くない、とボリス・ジョンソン英首相があのノリで空疎に繰り返すようになった。不吉だ。
英国のEU離脱派は、2016年6月23日の国民投票で、51.9 %を獲得した。
「わが国がコントロールを取り戻すのだ。国境を再び設け、完全な独立を取り戻すのだ。ブリュッセルによって束縛されたエネルギーを解放し、英国内外での主権の行使は英下院が握るのだ」と。
ポピュリズムとはつまるところ「自分さえよかったら、今さえよかったら、他はどうでもいい」という態度のことだ。
しかし主権は17世紀と同じように行使できる性質のものではなくなっている。
おそらく、彼らがイメージしているのは、上に引用した17世紀後半の、これから7つの海に乗り出し、覇権国家となる英国の姿である。
いつの話やねん...という話である。あの時代とは世界情勢も、「主権」も性質が全く異なっている。
主権を取り戻しさえすれば、再び覇権国家になれると思っているのなら、あまりにも世界情勢や、他の国に無関心でありすぎる。
「一人勝ち」などできないような、いや、してはならないような世界にわれわれは住んでいるのだ。例えば新型コロナ対応も、昨日12日に行われた「パリ協定」の採択から5年を記念した国連のオンライン会合での温室ガス削減宣言も、世界中が協力し合わねばどうしようもない。
去年の数字を見ると、英国は43パーセントをEUに輸出し、52パーセントをEUから輸入している。
英国は実に80%の食料を輸入に頼っており、EUからはそのうち50パーセント近くを輸入しているそうである。
浅はかなわたしでさえも、今後の混乱が身近に予想できすぎてゾクっとするほどである。
ただでさえ、英ポンドは15パーセントも落下してるんですぜ...
ただ、「合意なし」の離脱を全く「何の取り決めもなし」と思ってる人がいるが、何もないわけではない。上にも書いた11の分科会で合意がとれているものも多くあり、合意なしになった場合、その妥結が合意が取れているものにどういった影響を与えるのか...までは分からない、というのが現状のようだ。
わたしはジョンソン英首相を、馬鹿と呼ぶのを短絡だと思っていた。人物を評価するのに「馬鹿」などという簡単な言葉を使うのは思考停止だと思っていた。今は自分の不迷を恥じている。あの方には頭がいい悪いは別にたぶん「やる気」しかない。
今日はいったいどうなるのか、TVから目が離せない。
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st james'sの紳士
薔薇のうがい薬(マウスウォッシュではない)を愛用している。
セント・ジェイムズ辺りに軒を並べているような商店の、紳士物の、シックな道具類を見て歩くのが好き。
凝りに凝った細部への異常な執着。「これぞ美学」が見られる。
ある時期からは「英国紳士」が男性の服装の基準になり、19世紀のダンディの時代には、フランス人に対してでさえ「英国紳士」のように見えるというのが最高の賛辞だった。
......
男性の、特に王族や貴族のファッションは、18世紀後半になるまでは、分かりやすく華やかでド派手であった。
16世紀後半、エリザベス一世の時代には「女は男のように派手になり、男はバケモノになっている」と酷評されたほどである。
それがなぜか18世紀後半のある時、上品で落ち着いた「英国紳士」ファッションが定番となった。
大仰で奇抜なおしゃれから、洗練された質実剛健、禁欲的で、素材や細部に凝る「分かりにくいおしゃれ」に。
なぜそのように変わったのだろうか。
上は貴族から下は貧民まで、流行と一体になった贅沢には、英国では14世紀から16世紀までにしばしば発布された「贅沢禁止令」からも知られるように、結局取り締まることはできないパワーがあった。
最先端を行くのは、いつの時代も財産と暇のあるものである。
彼らのおしゃれや贅沢は次々にすぐ下の階級から真似されるさだめであり、贅沢禁止令は自分よりも身分の下の者が「分を超えて贅沢する」ことを戒めようとするものだった。
おしゃれは独占したいのにもかかわらず、すぐに真似され、みな同じようなファッションを身につけるようになる...
「追いつめられた「富者」たちは、ついに降伏する。服飾史家のややおおげさな言葉を借りれば、「史上初めて、ジェントルマンが労働者の・・・スタイルをまねはじめた」のである。稀代の洒落者として、19世紀以降のジェントルマンの「伝統」となる衣服のスタイルや着こなしのもとをつくったブランメルが、次のように主張したのも、象徴的である。すなわち、「ジェントルマンの衣服は目立たない素材で、形だけで優雅さをだしたものであるべきだ」、と。ファッションをめぐる社会的・階層的競争に疲れた上流階級は、地味であまり変化しない服装こそが上品だと主張することで居直ったのである。」
「マス・マーケットの成立した18世紀末は、(中略) この時代、社会的競争に疲れた上流階級は、「流行」という「贅沢」をステイタス・シンボルにすることを部分的にやめた。ここに、イギリス人、特にジェントルマンの衣服が比較的変わりにくい「伝統」的なものになっていく背景がある。」
(以上、『洒落者たちのイギリス史』川北稔著・平凡社より。わたしは川北稔先生の大ファンである)
18世紀後半から19世紀に生きたダンディの走りにして最高存在であったブランメルは、オックスフォード大卒で、摂政王太子(のちのジョージ4世)の取り巻きでもあったが、貴族の出ではない。
「非の打ち所のない身だしなみと冷ややかで物憂げな立ち居振る舞い」で、バイロン卿をして「羨ましい」「彼になりたい」「偉人」とまで呼ばせたほどの人物だ。
ブランメルのスタイルは、わたしは、一周まわったマッチョの一種だと思っている。
マッチョ、褒めてません(笑)。
「分かりにくいが、ものすごくおしゃれ」というのは、「派手で、分かりやすいおしゃれ」よりも真似がしにくい。
経験や訓練、知性も必要なら、それをおしゃれとわかってくれる観客も必要だ。せっかくお金と時間をかけておしゃれをしても誰も気がついてくれないというのでは割に合わないのである。なぜならおしゃれは衒示的な消費だからだ。庶民にとってはかなりハードルが高い。
ブランメルには身分も財産もなく、自分の強烈な個性だけでファッション、いやさ一時代を支配したという。
実はファッションに細心の気を遣い、金も時間もかけてはいるが、徹底的に外見(そしておそらく身分や財産にも)に無関心を装う男を演じた。
ルネサンスの文人カスティリオーネが、著作『宮廷人』で定義した「スプレッツァトゥーラ」のようなものだろうか。
「技巧を隠して、自分がしていることをあたかも労せずに無意識にできたかのように見せる、ある種の無造作さ」。実際の欲望・感情・思考などを表情などに出さないこと、つまり「防御的な皮肉」(ボードリヤールは、ダンディズムは「ニヒリズムの美学的形態」と言った)。
こういったクールな無関心、皮肉で虚無的なポーズは、王族や貴族にも超かっこいい! と羨望されたに違いない。
ここに、ブランメルの、上は王族や貴族、下は庶民に対する、軽蔑がある(一部ルサンチマンではあるのだが)。
そのうえで、カミュが『反抗的人間』の中でダンディについて述べているのを読むと興味深い。
”The dandy creates his own unity by aesthetic means. But it is an aesthetic of negation.”
「ダンディは美学的手段を使って自己統一性を作りだす。しかしその美学は否定の美学である。」
カミュは、ダンディは神を殺してしまった人間が、自分が何者であるかの保証を失った結果、自己統一性を再構築するために利用する「役柄」だと言う。
自己の統一性(つまりアイデンティティ)再構築のために、ダンディが存立するためには、ダンディさで劣るその他大勢を必要とするのである。ニーチェの言う「超人」が存立するために、劣った「畜群」が不可欠であるように。
自分自身の優位を意識するためには、絶えず参照対象としての「軽蔑の対象」が側にいなくてはならないのである。
ブランメルのダンディは美しい紳士の定番を作ったかもしれないが、その背景は結構どろどろしているのである。
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all i want for christmas is...
わたしは今は使っていないが、義理の母が喜びそうだ...
夫のバスルーム用に買おうかしらん。
紅茶、クリスマス・プディング、プラリネ、ジャム...
その巨大ハンパーは内部がダイニングルームになっており、食事ができる模様。
『くるみ割り人形』のシュガー・プラムの精はお菓子の国の女王である。
一目惚れして、夫にこれが欲しいとテキストメッセージを送る。便利な時代だ。
予算オーバーで即却下されたが、覚えておくとのこと。期待しています。
蝋燭だがそれとしては使えまい。でも欲しい。自分のバスルームにおきたい。
Spodeのシュガーボールを日本茶用にするのはどうかで迷いに迷い、小さな版画にも好みのものがあり、娘には動物の頭を象った瓶のPenhaligon'sの香水を買ってお仕舞い。
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12月のピカデリー
昨日はクリスマスの買い物がしたい娘にせがまれて再びロンドンへ。
大学はまだクリスマス休暇には入っていないが、1日スケジュールが空いたそうで...
ランチの後は、お正月用の仏手柑や、クリスマス用の保存食を買うためにフォートナム&メイソン、クリスマス・プレゼントを買うために数軒隣の大書店ウォーターストーン、アーケード内のお店や、クリスマス・ストアをひやかすためにリバティ、無印良品にも立ち寄って...
歩き疲れて一旦お茶をしていたら、もう嫌になり帰って来た。
夜22時まで営業しているセルフリッジスで服飾品を見て、ピエール・マルコリーニの箱入りチョコレートを買い、マリルボーンのリボン屋さんとコンラン・ショップ、帰りにラデュレのケーキを買うか中華街で肉まんを買うかとまだまだ予定はあったのだが、西方面は別の日に改めることにした。
フォートナム・メイソンの店内は、常よりもスペースに余裕を持った商品展示の工夫がしてあり、店内外もクリスマス時期らしく整えられていた(上の写真。毎年恒例のイルミネーションはビル自体がアドヴェントカレンダーに。8日は見えていないが、7日までに明かりが点いている)が、それにひきかえリバティの「ひょっとして今年はクリスマスのためにほとんど何も入荷しなかったのか? 飾りつけもなし?」という雰囲気は物悲しいほどだった。
もちろん消費はクリスマス精神ではない。
が、一世を風靡した商業形態「百貨店」はここ数年で衰退を始め、英国の百貨店デベナムズは先日、新型コロナ禍で営業がさらに悪化、営業を停止したのだった...
ロンドンは今日も静かだった。
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