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sokolov@concertgebouw




アムステルダムのコンツエルトヘボウは、開演前や幕間にフォワイエで楽しむ飲み物が、チケット代金に含まれているのがすばらしい。
(シャンパン以外はワインもビールも無料。シャンパンは11ユーロだった。昔はいくらだったか覚えていない...そんなに値上がりしていないような気がする)

わたしは利用したことはないが、コンツエルトヘボウ最寄までの公共交通機関代も含まれている。さすが(色々な意味で)オランダ。




グリゴリー・ソコロフのリサイタル@コンツエルトヘボウがアムステルダム旅行を企画した目的だったにもかかわらず、フォワイエの無料の飲み物の話(笑)から始めたのには訳がある。

またわたしの下手くそで空っぽな音楽鑑賞の記録から書き始めたら、もうどなたも最後まで読んでくださらないのでは!! と(笑)。




大好きソコロフ御大...
新型コロナ禍ゆえに、数年前にドイツのエッセンで聞いて以来だった。

さまざまな音の世界や、さまざまな作曲家の世界を自由に行き来する「超」能力、健在。ソコロフ、ここにあり。




最初のベートーヴェンのエロイカ変奏曲はテンポが遅いような気がした(72歳というご高齢ゆえ...?)ものの、この世を立体たらしめているあらゆる層の音色、豊かなタッチ、すぐにその遅さは意図的なものであると理解できた(ような気がする。なんせシロウトなので)。
宇宙の摂理そのもの。

ブラームスは、人間の可憐さや、胸に抱くノスタルジー。自然の中にあるようなひどく懐かしいテンポ! 無限に優しくささやく。装飾的なうねりや人工的なものは一切ない。ああ、これがわたしが彼の演奏を好きな理由なのかもしれない。

休憩の後、シューマンのクライスレリアーナが続く。
左手の上昇、右手のモチーフのクリアさ、濁りのなさ、ハーモニーの美しさよ。

ピアノの機能を使い果たすとはこういうことなのだな...

コンツエルトヘボウの有名な舞台音響が体感できる、絶妙な席も大満足。


いろいろ書いてみたが、何も言っていない(笑)。


まるで記念碑のような大リサイタルだった、とだけ。


Grigory Sokolov Piano

Beethoven Variations and Fugue in E flat major, op. 35
Brahms Drei Intermezzi, op. 117
R. Schumann Kreisleriana, op. 16

アンコールは6回

ブラームス間奏曲
ラフマニノフ2つの前奏曲
スクリャービン前奏曲
ショパン前奏曲(大大大音量!)
バッハ前奏曲




コンツエルトヘボウはファサード改装中。
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牛乳を注ぐ女




オランダ、アムステルダム国立美術館で一番有名な絵画はといえば、レンブラントの『夜警』とフェルメールの『牛乳を注ぐ女』ではなかろうか。




『夜警』は、この大きな美術館の目玉としての展示位置も、サイズも、分かりやすい題材市民隊(火縄銃手組合による市民自警団が出動する瞬間)も、軍隊の動きの革新的な描き方も、レンブラントの知名度も、すべてとても華やかである。相応に常に大勢の人が集まっている。


『牛乳を注ぐ女』は、サイズも小さく、フェルメールの他の2点(『小路』『青衣の女』)と並んで、脇に展示されている。
フェルメールの人生にレンブラント並みの辛酸がなかったとは言わないが、どちらかというと堅実で、レンブラントのような破滅型ではなかったようである。彼については分かっていないことも少なくない。そして寡作(失われたものを含めて50から60作。レンブラントは300とも500とも)。



フェルメールの中でももっとも温度の低い絵『青衣の女』。
フェルメール・ブルー。ひどく懐かしい気がする。



また、フェルメールの絵画は、意図や意味、テーマがよく分かっていない、と言及されることも多い。特に『牛乳を注ぐ女』に関しては。
現にオーディオガイドも困惑したようにそう言ったし、たまたまチェックした英語版のアート記事にもそう書いてあった。

「意味が分からない」と言われようとも、この傑作の魅力は一ミリたりとも減らない。
わたしが『牛乳を注ぐ女』を眺めていた1時間ほどの間だけでも、多くの人が入れ替わり立ち替わりやってきて、ほとんど必ず「これ、有名だよね」と写真を撮り、記念撮影し、去っていった。


世界を意味で埋め尽くそうとするのは西欧の習慣、クセである。

そういえば、フェルメールが特に日本で人気なのは、オランダの17世紀に当たり前だった宗教的・文化的なバックグラウンドや、絵画に込められた寓意に対する知識がなくても味わえるからだと聞いたことがある。それはそうなのかもしれない。

わたしは日本人は(日本語を解する人はと言うべきか)、俳句のような状況描写を、ただそれをそれとして楽しめる人たちだと思っている。
だから、例えば、静かに牛乳を器に注ぐだけの女の姿や、青い服を着て手紙を読むだけの女の姿を、古池に飛び込むだけのカエルを、しみじみ楽しめるのだと思う。「しほり」だ。




17世紀前後のオランダ市民社会では、「女中」や「ミルク」が性愛を連想させる存在のひとつであり、『牛乳を注ぐ女』もそういった作品のひとつであるという学説もある。
足温器やデルフト・タイルに描かれたキューピッド...このすっきりした画面の中にも数多くの性的な仄めかしや、象徴があるというのである。
うん、人間の欲望というのは完全に壊れているのだからして。


しかし、わたしは、この絵画にテーマがあるとすれば、それは「祈り」であると思う。

予定説的なエトス(「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という論理。すなわち信仰と労働に脇目もふらず励む、世俗内禁欲)的なものを見ているのかもしれない。労働は美徳なのである。
彼女の腕はキアロスクーロ表現だけではなく、日々の野外の労働で日に焼けているように見える(これに言及した批評は読んだことがない)。

17世紀当時の絵画は、現実の再現描写こそが当たり前であったが、フェルメールは寓意的な意味を持つ小道具や教訓を排除し、女性の感情を両義的にすることによって、独特の世界を再現する。
キリスト教では左から差す光線は聖なる光である(左側の窓ガラスが割れている)...との引き合いを出さないまでも、この絵のバランス(左側が俗で、右側が聖)、白壁の清らかな美しさ。

意味を希薄にした画面には、聖性の入れもののような効果がある。イコンのような。意味で満たすことを拒否する記号。

わたしが祭壇に一枚だけ絵をかけるなら、ベリーニ(大好きな聖母像がある)よりも、この絵を選ぶだろう。
現に、この絵を前にすると瞑想中のような脳波になり、身体が動かなくなるのである。



レンブラントでわたしが好きなのはこちら。時空を超えて絵の中に招かれるよう。



ミュージアム・ショップのネインチェ(ミッフィー)とプレイモビールのお人形が『牛乳を注ぐ女』に扮しているではないか。
これは作品の意図を見誤らせるのでは...と一瞬思ったのだが、もともと17世紀オランダでは、市民への「教訓」と「おかしみ」を含んだ絵画が大流行したので、見誤らせているどころか、きっちり意図を踏襲しているのだ! と。







夫がプレイモビールの方を買ってくれると言ったものの、熟考の上、辞退した(笑)。


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アムステルダム・シルエット




初夏の最高のお天気に恵まれたアムステルダムの夕暮れ前。

水の都の光は、水面や水滴に反射して特別に美しいと言われる。Holands Licht(オランダの光)である。
光が強ければ強いほど、明るければ明るいほど、影もまた濃い。

アムステルダムのシルエット。

あなたは何を考えているの...


「あなた、オランダは夢です。昼はよりくすぶり、夜はより金色となる、黄金と煙との夢なのです。そしてこの夢は、夜も昼も、この人たちのようなローエングリンで充たされています。このローエングリンたちは、ハンドルの高い黒い自転車を、不吉な黒鳥のように夢見がちに走らせて、運河に沿って、海の周辺を、国中を休みなく廻っているのです。同色の雲に顔を包まれて、彼らは夢想にふけり、ぐるぐるまわり、霧の金色の香りがただようなかで、夢遊病者のように祈りを捧げます。すると、もはや彼らはそこにいなくなります。」(カミュ『転落』)


そういえば...




イアン・マーキュアンの『アムステルダム』、98年にここの街で読んだ(タイトルに惹かれて手にしたが、タイトルは内容にはほとんど関係がない)。

死者が死んでなお、いや死んだからこそ、生者に深い影響を与え続ける...

人や国など、「陽」(成功とか名声とか)が強ければ、その分だけ抱える闇も濃い。
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大陸ヨーロッパ 初夏




カラッと晴れた、さて、ここはスペイン? イタリア? 

テラスの右隣の席華やかなマダムらのスペイン語、左隣のカップルのイタリア語の抑揚が心地よい...
ピュリッツァー・ホテル中庭。




太陽が、自然も人工のものも余すところなく照らし、濃い影を作り、濁りのない青空が広がり、風がそよと吹く。




ここは初夏のアムステルダム。

先週末から、オランダ国立バレエの公演(ウクライナ侵攻に異議申し立てをしてボリショイから移籍したOlga Smirnovaオリガ・スミルノワの出演)、Grigory Sokolovグリゴリー・ソコロフのピアノ・リサイタル@コンツエルトヘボウ、個人のパーティー...などのために来ている。




17世紀に交易と市民社会の成立で黄金時代を迎えた都。

扇型の運河はスーラの点描のように輝き、歴史的な建物のファサードの色は鮮やかにくっきり浮かびあがる。

淡い色の薔薇が咲き、爽やかなアイスクリームの色と香り(白葡萄が好み!)、マリファナの残り香。

家の前にソファを出してくつろぐパイプをくわえた男性、銀色の髪をした子供。

パリッとした夏服で装うすでにオレンジ色に日焼けした女性、国立美術館のレンブラント前に集まる旅行者。

公園に寝転ぶ若い人たち、酒盛りをして騒ぐボートの乗客。




そしてセンチメンタルな夕暮れ前...自転車が持ち主を片寄あって待っているかのよう。

何もかもが美しく見えるヨーロッパの6月。


晴れ女は今週も絶好調だ。
しかも熱波が迫っているそうです...
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嵐を呼ぶ華




外は、灰色の雲の間から銀色の光が差す、イングランドの「100通りの灰色」だが、温室内の夏の居間は賑やか。

賑やかなのには理由がある。夜間に嵐が続いたから。




薔薇と芍薬...
一番好きな花の季節だ。

しかし、モエの帰納によると、芍薬はイングランドの初夏の嵐を呼ぶ。

まず、薔薇軍団ボスコベルやイスパハンが咲き乱れ、その頃、芍薬はまだつぼみだ。ぐんぐん丈を伸ばすので補助的な柵をつけてやる。
ポンポンのようなつぼみに蟻が魅惑されて集まって来、美のエレクシールを全部吸い取られてしまうのではと心配になるほど。

と、一輪、先駆けてつぼみの先の方がレースのようにほころんでくると...

バッシャー!! と嵐になるのである。雨は降り、風は吹き荒ぶ。
毎年。絶対。
まるで自分の身を犠牲にして夏を呼ぶかのよう。蘇る火の鳥のようだ(違う)。ヴィスコンティの夏の嵐(原題は『官能』)? ブルックナーのシンフォニー7番をかけよう。


その一輪を嵐の中救出。
水滴が美しく、ずっと見つめていたくなる。




数日後の今日、完全に開き切った。
香り高く、誇り高く、姿美しく、惚れ惚れする。

この花を飾った薄いピンク色のクリームのケーキ、作りたいなあ。軽いスポンジに、いちごとフランボワーズといちごで着色したピンクの生クリーム。




つぼみがつきすぎているボスコベルとイスパハンからも頭を重そうにしている枝だけを...雨の滴で余計に重たそう。
イスパハンはハラハラと花びらを散らす。

で、一番上の写真の状態に。


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