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アンドラーシュ・シフとベートヴェン




今週は三夜連続で、アンドラーシュ・シフのコンサート(ベートーヴェン・ピアノ・コンチェルト・マラソン)がある。
@ロンドン クイーン・エリザベス・ホール。


わたしはシフ卿の演奏は当然として、毎回彼が演奏前に繰り出す小話が大好きだ。
個人的にも多少存じ上げている彼は、話好きで、世話好きで、惜しまずなんでも教えてくれる。
明日、二夜目は終了後にトークの時間があるので非常に楽しみにしている。


第一夜目、特に面白いと思ったのはまず演奏に使われたフォルテ・ピアノ。

彼は作曲された時代のピアノに最も近いレプリカをよく使ってい(前回鑑賞した彼のコンサートは、ショパンとその時代のピアノだった)、今回は1822年ごろにベートヴェンが使っていたウィーン製のConrad Grafのレプリカ。
このオーケストラ Orchestra of The Age of Enlightenmentは、古典楽器のオーケストラなので当然といえば当然か。

この時代のピアノには、現代の爆音が出て高速に耐えられるピアノに比べて音にかなり制約があり、低音は静かで、鍵盤がかえってくる速度が遅く、ために演奏速度にも影響し、高音は残響のための制約があった。などなど。

と、いう姿も惚れ惚れするほど美しいマホガニー木目のピアノだった。


ピアノ・コンチェルトの一番のFシャープは、ベートーヴェンの時代のピアノ(5オクターブ)には存在していないため、現代よく知られているFシャープでの演奏ではなく、Fフラットで弾くから注意して聞け、という話。ベートーヴェンの作曲はベートーヴェンの作曲のままにしておきましょう、と。

「自分でさまざまな楽譜を研究しました。確信を得たので当時の師匠の前でFフラットで演奏したら、彼は怒って楽譜をビリビリにしたんです。彼は指揮者でもあり、ピアニスとでもありましたし、自分では優れたピアニストだと思っていたようですが、それほどではありませんでした(笑)。誰かは言いませんが(笑)」とか(笑)。

あるいは「ベートーヴェンは、(師匠の)ハイドンから学ぶことは何もないと思っていましたが、彼はハイドンからコンポジション、ヴァリエーション、モチーフを学び、後年、それを認めています。
ハイドンは現在、ドイツで演奏してもさっぱりウケませんが、ロンドンの方々、あなたがたはハイドンを温かく迎え、いまも迎えてくれる。それはあなたがたにユーモアのセンスがあるからですよ(笑)」

「コンチェルト1番はユーモア、諧謔ですわな。シェイクスピア。」とか。

「みなさん、私のカデンツァの美しさを褒めてくれるのですが、カデンツァとは言え私が即興したのではないですからね(笑)」とか。


特に1番がすばらしく、なぜプログラムが2番、1番の順に演奏されたのか、シロウトのわたしにもよくわかった。(2番がモーツアルト的なのに比して、1番はこれぞパラダイムを塗り替えたベートヴェン!だから?)。どれほどすばらしかっとかと言うと、1番の第一楽章の終わりでは、禁断の拍手が起きたほど!
大三楽章の最後ではティンパにの音とピアノ独奏に胸をつかまれたようになり、泣きそうになった。

明日はどんな小話をしてくれるのだろうか、楽しみ!!


ロンドン、このところ冬のように冷える



Performers
Orchestra of the Age of Enlightenment
András Schiff director, piano

Repertoire
Beethoven: Piano Concerto No.2
Haydn: Symphony No.93
Beethoven: Piano Concerto No.1

Beethoven: Piano Concerto No.3
Haydn: Symphony No.99
Beethoven: Piano Concerto No.4

Beethoven: Overture, Coriolan
Haydn: Symphony No.103 (Drum Roll)
Beethoven: Piano Concerto No.5 (Emperor)
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ユニオンジャックの波・ロンドン


クラリッジ


エリザベス女王即位70周年記念、プラチナム・ジュビリーのお祭りは天候のすぐれない中、昨日つつがなく終了したようである。

週末の3日間がいちばんの山場で、こういう時には人混みに近寄らないようにしているのだが、土曜日はロイヤル・バレエを見るためにコヴェント・ガーデン方面と、その後個人宅でのパーティにうかがうため、どうしてもロンドンへ出かけなくてはならなかった。

この日はバッキンガム宮殿前で大コンサートが行われる日で、人混みや封鎖に巻き込まれないよう、早め、早めに行動したものの拍子抜け。
混雑していたのはトラファルガー広場とバッキンガム宮殿を結ぶザ・マルに限られていたようで、普段と変わりのないロンドンの風景だった。

ただ、やはりプラチナム・ジュビリーに便乗しての商売はあちこちで見かけたし、何よりこのユニオンジャックの波、波。

モネの『サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日』を思い出した。あちらは三回目のパリ万博の記念祝祭だった。


ボンドストリート


バッキンガム宮殿前の会場には2万2千人もの観客が。

一方、この日のロイヤル・バレエ公演前には国家が演奏され全員起立。
観客は平均年齢50歳以上という感じだったものの、周りの人からはヤレヤレという苦笑混じりのため息がもれたのを聞き逃さなかった。

王室支持率は2012年には80パーセントだったのが、今年は60パーセントに落ちている。
年齢層では高齢者は70パーセントが支持するが、若年層では30パーセントと低い。

英国王室の支持率が高いのは、ひとえに25歳で即位して70年のエリザベス女王の功績である。

次世代の(不人気な)チャールズ皇太子の時代にはどうなるのだろうか。
まるでこの不安を覆い隠し、「バラバラの国民をひとつにまとめられるのは王室だけ」というイメージを思い出させるかのような、まさに『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)教科書通りのページェントだった。

バッキンガム宮殿界隈では盛況だった、全体で2000億円かけられたショー、新聞記事によると、英連邦から独立の気運が常に高いスコットランドの会場では誰も集まっていないところも...

スコットランドの知り合いは「時々顔を見せに来て『主人は誰か忘れないように』確認してくる王室が...以下略」と言っていた。
とにかく、誰もが歓迎しているというわけではない。ましてやブリグジット、新型コロナ禍、ウクライナ侵攻、インフレ...のこのご時世に。

英国はこの際、一部の英国人(ブリグジット派)が懐かしさと誇りを込めて「大英帝国」と呼ぶ自国の繁栄を支えたのが、海賊的な方法による植民地の人的・資源的搾取だったことを顧みてはいかがかと思ったり...

現在も、先進国の経済を支えているのはグローバル・サウスであり、英国の中にさえグローバル・サウスが歴然と存在することを忘れないでおこう、と住人のわたしも思う。

国の歴史には、陰と陽があってあたりまえなのだから。


コヴェント・ガーデン


エリザベス女王とパディントンのショート・フィルムは魅力的だった!!
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like water for chocolate 赤い薔薇ソースの伝説




Christopher Wheeldon最新作(6月2日にワールド・プレミア)、ロイヤル・バレエLike Water for Chocolateを鑑賞した。

今までに見たことがないようなファンタスティックな演出。

例えば悪霊。母親は死んで悪霊となり、その演出効果も、母親を演じた美しき金子扶生さんも、すばらしかった。
料理女ナチャが死んで霊魂になるシーン。

あるいは情熱に取り憑かれた主人公の姉のひとりが、薔薇の香りを放ちながら(放っていた!!!)踊り狂うシーン、Meaghan Grace Hinkisがバーレスク・ダンサーかピンナップ・ガールのようで、会場がピンク色に染まったかと思うほど。

婚姻関係を身体に巻きつくリボンで表すところ。

キッチュさスレスレのエンディングも。


場面は、舞台というよりも映画のようにくるくると変わり、飽きさせない。
登場人物が多く、話は複雑で、しかも主人公の情熱が「料理」と、ダンスで表現しにくそうなのにもかかわらず。
(主人公2人へのフォーカスが足りないとか、きっちりビジュアル化して説明しすぎで「観客の想像に任せるところが少ない」と批評もできるだろう)

こんな作品を見たことがない。

ただ一つの例外を除いては。


ウィールドン作2011年のAlice's Adventures in Wonderland『不思議な国のアリス』である(Joby Talbot作曲の音楽まで似ている)。

家母長的で権力をふるい、家族の運命を握り、死後も大きな影響を及ぼす強い母親から逃れることができない子、というテーマ。

両作品とも(そしてウィールドンのもう一つのフルレングスバレエ作品『冬物語』も)、母親の影響力の大きさにドライブされる。



Like Water for Chocolate(チョコレート飲料をつくる水のように、転じて完璧、情熱、という意味になるそう)というおいしそうなタイトルからはピンと来なかったのだが、こちら1992年製作(日本公開は93年)、『赤い薔薇ソースの伝説』と同原作なのだ。

92年ごろ、わたしは日常の憂さを晴らすために、小規模な名画座で放映されるフランス映画やスペイン映画を鑑賞するのに凝っていて、『赤い薔薇ソースの伝説』も大阪の今はなき小劇場で見た。

ラウラ・エスキヴェル原作のこの話は、南米のいわゆるマジック・リアリズム系で、ガルシア=マルケスの、『百年の孤独』とか...わたしなら『エレンデュラ』を例に挙げるだろう。

その世界の中では、日常の中に死人や霊が現れ、魔術や迷信や奇妙な伝統が引き継がれ、「比喩」にしかすぎないようなものがありありと現実化(情熱に燃えるあまり、身体が物理的に燃えだすとか)するのである。

映画版では、主人公ティタの平凡で地味で目立たない感じや飾り気のなさと、彼女の恋愛感情の激烈さの対比がすばらしかったのを今でも覚えている。




主人公ティタの家族は強権的な母親エレナが支配している。
ティタには2つの情熱がある。料理と相思相愛の男性ペドロ。
しかし彼女の家の伝統では、末娘は母親を死ぬまで(召使のように)未婚で世話すると決まっているため、ペドロはティタのそばにいたい一心で、エレナの命じた通り、ティタの姉のうちのひとりロザウラと結婚する。

ティタの悲しみや鬱憤、欲望は、すべて彼女の作る料理の中に伝わってしまう。
それを食べたある人は嘔吐し、ある人は...彼女の別の姉ガートルディスのように欲望を突然開花させ、行きずりの革命兵士と駆け落ち...ティタの情熱が伝染し、薔薇の香りに誘われてやってきた革命兵士にさらわれるのである。

母親はやがて死ぬが、悪霊となってティタに取り憑き、彼女の人生をコントロールしようとする...その母親もまた同じように家族の伝統の犠牲者なのであった。

ロザウラもまた亡くなり、ティタとペドロはようやく結ばれるが、彼らの抑圧されてきた情熱は寝室を燃やし、2人は「文字通り」燃え尽きて死んでしまう。


主役の2人 Yasmine NaghdiとCesar Corrales、すばらしかったです!

もう一回見たいなあ、行ける日がなくて残念。


...と、バレエもすばらしかったのだが、その日のハイライトは!

ロイヤル・オペラ・ハウスのフォワイエで娘とお茶を飲んでいたら、なんと、なんと。

わたしが(娘も)大大大ファンで、彼女の公演は絶対に欠かさず、いい席で必ず見る、あのプリンシパルが隣のお席に座ったのである!

お友達とご一緒で、お友達が話しても話しても足りないという感じだったため、声はかけなかったが、緊張して挙動不審になってしまった(笑)。
しかもインターバル二回ともお隣に...

ロイヤル・バレエのプリンシパルの中では背が高く、筋肉が美しく、舞台の上で圧倒的な華があるので大柄な方かと思っていたら、全然違った。
すごーく華奢で、ほっそりしていて、頭の先から爪先までまっすぐで、小鳥のような軽々とした身のこなし、そしてお顔が小さーい! (バレエの)女王だとばかり思っていたが、妖精なんじゃないか?

すっぴんでカジュアルな服装をされていたのには、ドレスを着てジュエリーをいっぱいつけたわたしは恥入った。
彼女は飾る必要など何もないのだ。わたしも素で美しい人になりたかった。
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朝摘みのイングリッシュ・ローズ




ボスコベルは惜しみなく花をつけ、シトラスのような香りも高く(香りを嗅いでいると、口が開いて食べてしまいそうになるほど!)、最初から最後まで姿が美しい。

イングランドのわが家の庭の薔薇の中では一番最初に花を咲かせ、冬先まで続く。もう好きで好きでたまらない花!




今朝は最初の芍薬が開き始めた!
ということは嵐が起こる...??
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iberia


Robert Motherwell Iberia


Isaac Albéniz iberia イサーク・アルベニス 『スペイン組曲』を聴きながら。


長々と書いたバスクの旅、今日で終わりにしようと思う。

まだ、ビルバオ美術館や、べラテサギのレストランや、いろいろネタはあるのだけれど...この拙いブログの最初の読者はわたし自身で、その人が「もうそろそろ他の話を」を言うのである(笑)。


上の写真の作品は、グッゲンハイム・ビルバオ美術館内の、ロスコーと同じ部屋で隣り合わせで展示されていた、ロバート・マザーウェル『イベリア』。    

スペイン内戦時の悲惨を黒塗りのキャンバス表面で表現し、左下の白っぽい色が「希望」を表現している。

パンドラの箱、のようなものか。

今回見た、文化帝国主義に抵抗するバスク地方の、過去と未来を、人間の残虐さと可憐さを、象徴するような絵だと、旅の間中この絵が頭から離れなかった。


今回の旅も良い旅だった。


そして何はともあれ、最後はこれで結びたい。

マーク・ロスコー『無題』。
生まれて死ぬさだめにある人間ならば、どこに住んでいようと、どんな文化圏に属していようと、懐かしさに胸をしめつけられるような風景、いつか見た、いやこれから見る、夕焼けに染まる大地のような。

和辻哲郎いわく無常観的な哀愁の中には、「永遠への根源的な思慕」あるいは「絶対者への依属の感情」が本質的に含まれている、と。それが「もののあはれ」である、と。

それだよ、それ。ロスコーの絵というものは。

今、たった今、届いた啓示のようだった。



Mark Rothko Untitled
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