1990年代の池袋

2018年01月13日 | 徒然
1990年代に入ると、鉄道貨物の斜陽化と、首都圏外縁部の人口増加によって
東北線高崎線の一部が池袋に乗り入れるようになりました。

この頃から、池袋が「埼玉の植民地」と言われるようになったようです。
また、副都心という言葉が、池袋にも使われるようになりました。

有楽町線が和光市から東上線に、練馬(正確には小竹向原)から西武線に乗り入れ
東武西武ともに混雑は若干緩和され、通過する通勤客が増えましたが
バブル崩壊もあって、余所行きの街よりも池袋のような庶民向けの街に人が集まり
それまで以上に急速に発展していきました。

しかしマンモススケート場がなくなり、100円バーガーの39セントが閉店したり
「安っぽい」イメージの街から脱却しはじめ、パルコの別館「P’パルコ」ができたり
南口にメトロポリタンプラザ(現ルミネ)ができたりと、大きく変化しました。

東京芸術劇場が出来たことで、西口はそれまでと大きく雰囲気を変えました。


池袋が「いい街だな」と思えたのは、個人的にはこの頃2000年までだなと思っています。




(まだ清掃工場の煙突がない池袋)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする