世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

ハッピーシニアとビンボーシニア

2014年02月04日 | 人生
人生は歳をとってからが本当の勝負なのだ。


50歳代まではほんの助走に過ぎない。


若いうちいくら羽振りが良くても

60歳過ぎて貧乏になるのは最悪だ。


体が丈夫なうちはまだいい。

仕事ができるうちはまだいい。


生活保護に頼らなければならない状態になると

精神的に萎えてくる。


生産性のある暮らしをしたい。

社会の一員でありたい。


社会的に意義のあることをしていたい。



。これらの要素を満たした時、

人は幸せを感じるのではないだろうか。



もうひとつの要素は、

人だ。


パートナーがいるかどうか。

だが、これは諸刃の刃となりやすい。


なぜなら、パートナーは柵(しがらみ)にもなるからだ。


夫婦も、同じ方向に向かっているときは良い。

子育て時代は、ほぼ目指す方向は同じだ。


子供という共通事項が存在するから。


だが、子供がいなかったり、

子供が成長して親の素を離れた時、

その共通の方向性を失うことになる。


ひところ熟年離婚という言葉が持て囃された時期があった。

これは、主に自我に目覚めた妻が分からの三行半だった。


だが、今、離婚という手段を取らなくても、

別居、それも家庭内別居、

あるいは、お互い好き勝手やりましょうと、干渉しない夫婦が増えている。


それはそれでいい関係なのかもしれない。


愛がないわけでもない。

愛の形が変わっただけなのかもしれない。


いずれにせよ、残り少ない人生を楽しむ術を知ったのだ。


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ボクのオヤジは晩年、自分の妻を忌み嫌っていた。

鬱陶しく思っていたきらいがある。


言葉な端々にそれは伺うことができた。

だからと言って離婚に踏み切る勇気はない。


むしろ女房に頼り切った生活を営んでいた。

ある意味、女房の奴隷と化していたのかもしれない。


幸いオヤジは自由業(税理士)であったからして死ぬまで現役を貫き通した。

だが、反面酒に溺れる時もあった。

ある日突然脳梗塞に倒れ急逝した。

享年76歳であった。


元気だっただけにもう少し長生きしてもらいたかったが、

そこそこ人生を全うできる歳でもあっただろう。


ボクもあわよくばそれくらいで死にたいものだ。


ただ、オヤジを想うに、オヤジは幸せだったのだろうか、と。

オヤジも旅が好きだった。

とりわけ山が好きだった。


もっともっと行きたいところもあっただろう、

登りたい山もあっただろう。


だが、女房という柵からは抜け出せなかったのかもしれない。

とはいえ、概ね幸せな人生だったと思う。


自分の女房と、息子二人に看取られて苦しむことなく死んでいったのだから。

死に方としては理想的だったと思う。


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一方自分はどうだろうか。


女房とともに共に歩む方向性を見失っていった。

そして、ひょんなことをきっかけにボクは自由を得た。

女房殿が反旗を翻したのだ。


傷が萎えた頃、自分が失ったものより得たものへの感謝の念がフツフツと湧き上がっていた。


それこそが自由だった。

孤独という副産物もついてきたが。


だが幸か不幸か、ボクは依存型ではなく自立型人間だった。


かといって引きももることなく思いっきり世界に飛び出していった。

もしも夫婦円満であったなら、

今のボクの行動はありえない。


夫婦解消と引換に、ボクはかけがえのない自由を得たのだ。

多くの人が欲してもなかなか手に入れることのできない、「自由」。


世界の歴史は自由を手に入れるためにどれだけ多くの血を流してきただろうか。

今もそれは至るところで続いている。



人が望む究極のモノが二つある。


そのひとつが「自由」である。


そしてもうひとつは、「愛」だ。


ところが良くしたもので、この二つを同時に捕まえることはなかなかできない。


なぜなら、この二つは相反する、矛盾するものだからだ。


自由は愛を開放しようとするが、

愛は自由を縛る。


そこに人間の葛藤が生まれる。

愛は留め、自由は放つ。


だからボクは、愛を求めつつ、自由を享受する。

自己矛盾を感じながら。


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さて表題に帰って結論に至ろう。


ハッピーシニアの生き方は、

自由と愛を同時に手に入れることだ。


不可能と思えることを可能にしたとき、至福の時がやって来る。

だから性懲りもなく不可能を追い求める。

多分それは青い鳥なのかもしれない。


分かっていても追い求めることが自由の証なのだ。


お金はその手段でしかない。


お金そのものを追い求めることこそ不幸への道をたどることを意味する。

お金は得るものではない。

与えるために授かるものなのだ。


そうして生きることこそ

ハッピーエンディングへの道だと信じている。





【補足】


ハッピーシニアーになるための三要素。


① お金(経済性)。

  お金持ちになる必要はない。(勘ちがい組が多い)

  わずかでも、むしろ使い方が問題。


② 身体(心身の健康)。

  言うまでもなく心の安定が重要。


③ 居場所(生産的社会的立場)

  居るべきところ、成すべきことがあって初めて心の充実感が得られる。



【付録】


If you want a happy ending, that depends, of course, on where you stop your story.

(ハッピーエンドかどうかは、物語をどこで終わらせるかによって決まる)

by Orson Wells(オーソン・ウェルズ)


「悲劇」は必ずあるし、

また、自分も「悲劇」だけを見てしまうこともある。


それは仕方ない。


でも自分の物語を「悲劇」では終わらせない。


・・・そう思えれば、自分に残るのはいつも「ハッピーエンド」、


というのも夢ではなくなるような気がする。