ブログの書き方 blog.goo.ne.jp/dreamincountry… @asaykajiさんから
昔ははほとんどインプットばかりの学びだった。
そして、その成果を表現するのには、
机上でのテスト(ペーパー)しかなかった。
そこで良い点数を取ったものだけが優秀とみなされた。
現代は、発信(アウトプット)の時代。
(もちろんインプットしたうえで)
世界中に発信する手段がある時代だ。
SNSやblogを駆使しよう。
しかも無料で。
それは文章であり、写真であり、動画であったりする。
何かを発信するためには、
まずは自分の意見を持たなければならない。
人の受け売り、コピペばかりじゃ、真の発信とは言えない。
(それが多いことも事実)
コピペでも、必ず自分の意見を添えることが最低条件だ。
自分の意見、考えを述べる時ボクが気を付けていること。
それは、要素として
①教えと②愛(慈悲)と、③ユーモアを盛り込むこと。
そして、全体の流れとしては④ポジティブ(肯定的)であること。
否定から入っても、最後は肯定で閉める。
自分の知識や知恵、考えを人に教えることは、
偉ぶることを意味しない。
教えることが自分自身の最大の学びになるのだ。
発信することで学ぶ力を増幅することができる。
その場合、出し惜しみしてはいけない。
言うまでもなく、
発信するためには素材が必要である。
そのためには、素材について知る必要がある。
何もどれもこれも専門家になる必要はない。
素人は素人なりの素朴な考えのほうがいい。
バカにされることを恐れては何も言えない、書けない。
アイデアも、バカにされてナンボのものだ。
まず、ぶつけること。
球を投げなければ、帰ってくることは決してない。
あるいは帰ってこないかもしれない。
緩い球が来るか、剛速球が来るか、身体を狙った死球が来るかそれは分からない。
いずれも、バットを構えて待つことだ。
やり過ごせるような無難な球だけを期待しても意味をなさない。
時には、叩かれ、非難され、バカにされることもある。
発信するということは自分の価値観を伝えていくことだから、
違う意見(見解)には五万と遭遇する。
バットで打ち返すのもいいが、構えたミットに収めるのいいだろう。
むしろ、なるほど、いいですね、勉強になりました、と
素直に吸収すれば次の球種が増える。
反発するにも、素直さと謙虚さの姿勢は崩してはいけない。
発信力をつけるためにはどうしたらいいか。
それには、見聞を広めることだ。
見聞を広めるためには、現場に行くことだ。
つまり行動し(動か)なければならない。
ネットで調べて、知ったつもりになっていても
現場に行けば未知の世界に触れるだろう。
素直に知らなかったと認めることだ。
そこに好奇心が生まれる。
好奇心は、さらなる未知の世界へ誘(いざ)なってくれる。
この繰り返し。
好奇心 → 見聞
↑ ↓
未知 ← 現場
いきなり自分の意見を述べよといっても、訓練しなければ身につかない。
日本の教育はその点が極端に欠けている。
最初はコピペでも構わない。
それに少しずつ自分の意見、感想を付け加えて行こう。
そして、意図的に叩かれることだ。
時には挑発的に書くことだって必要だ。
それを繰り返すことで、打たれ強くなっていく。
つまり、生きる力、サバイバル力がつくことになる。
そして、その成果を表現するのには、
机上でのテスト(ペーパー)しかなかった。
そこで良い点数を取ったものだけが優秀とみなされた。
現代は、発信(アウトプット)の時代。
(もちろんインプットしたうえで)
世界中に発信する手段がある時代だ。
SNSやblogを駆使しよう。
しかも無料で。
それは文章であり、写真であり、動画であったりする。
何かを発信するためには、
まずは自分の意見を持たなければならない。
人の受け売り、コピペばかりじゃ、真の発信とは言えない。
(それが多いことも事実)
コピペでも、必ず自分の意見を添えることが最低条件だ。
自分の意見、考えを述べる時ボクが気を付けていること。
それは、要素として
①教えと②愛(慈悲)と、③ユーモアを盛り込むこと。
そして、全体の流れとしては④ポジティブ(肯定的)であること。
否定から入っても、最後は肯定で閉める。
自分の知識や知恵、考えを人に教えることは、
偉ぶることを意味しない。
教えることが自分自身の最大の学びになるのだ。
発信することで学ぶ力を増幅することができる。
その場合、出し惜しみしてはいけない。
言うまでもなく、
発信するためには素材が必要である。
そのためには、素材について知る必要がある。
何もどれもこれも専門家になる必要はない。
素人は素人なりの素朴な考えのほうがいい。
バカにされることを恐れては何も言えない、書けない。
アイデアも、バカにされてナンボのものだ。
まず、ぶつけること。
球を投げなければ、帰ってくることは決してない。
あるいは帰ってこないかもしれない。
緩い球が来るか、剛速球が来るか、身体を狙った死球が来るかそれは分からない。
いずれも、バットを構えて待つことだ。
やり過ごせるような無難な球だけを期待しても意味をなさない。
時には、叩かれ、非難され、バカにされることもある。
発信するということは自分の価値観を伝えていくことだから、
違う意見(見解)には五万と遭遇する。
バットで打ち返すのもいいが、構えたミットに収めるのいいだろう。
むしろ、なるほど、いいですね、勉強になりました、と
素直に吸収すれば次の球種が増える。
反発するにも、素直さと謙虚さの姿勢は崩してはいけない。
発信力をつけるためにはどうしたらいいか。
それには、見聞を広めることだ。
見聞を広めるためには、現場に行くことだ。
つまり行動し(動か)なければならない。
ネットで調べて、知ったつもりになっていても
現場に行けば未知の世界に触れるだろう。
素直に知らなかったと認めることだ。
そこに好奇心が生まれる。
好奇心は、さらなる未知の世界へ誘(いざ)なってくれる。
この繰り返し。
好奇心 → 見聞
↑ ↓
未知 ← 現場
いきなり自分の意見を述べよといっても、訓練しなければ身につかない。
日本の教育はその点が極端に欠けている。
最初はコピペでも構わない。
それに少しずつ自分の意見、感想を付け加えて行こう。
そして、意図的に叩かれることだ。
時には挑発的に書くことだって必要だ。
それを繰り返すことで、打たれ強くなっていく。
つまり、生きる力、サバイバル力がつくことになる。
理想の生き方を追求してきた。
誰しも同じだと思う。
そしてその形も人それぞれ違うだろう。
さらに、
年齢、時代、家族構成などによっても違ってきて当然である。
少し前までは、
老後は田舎でのんびりと、が一般的考えだった時代もあった。
定年、隠居、孫に囲まれて、などなど。
それこそ今ではほとんど叶わぬ夢の生き方となっている。
定年まで働けるか、
定年後は年金と退職金で賄えるか。
家族に囲まれて、死ぬまで面倒を見てもらえるか・・・。
ほとんどが、NOである。
時間があるときには、お金がない。
お金があるときは、時間がない。
という定説(?)さえ覆されている。
今は、時間もお金もない人が増えている。
便利さを求めると、自然がなくなる。
自然のあるところには、便利さがない。
一人は寂しいが、二人でいるとうっとうしい。
とかくこの世はままならない。
今日、熊本市内の自宅だったところから自分の荷物を出し、引き払った。
これからは、名目上、阿蘇の家が自宅となるわけだ。
今日、熊本も桜の開花宣言があった。
ボクの阿蘇の自宅は、今、真紅の桃の花が満開だ。
周囲の桜の花もすでにちらほら3~4分咲きといったところか。
そういえば最近は、1ッか月の間に2~3回くらいしか来ていなかったナ~。
今年はここで花見でもしようか。
誰しも同じだと思う。
そしてその形も人それぞれ違うだろう。
さらに、
年齢、時代、家族構成などによっても違ってきて当然である。
少し前までは、
老後は田舎でのんびりと、が一般的考えだった時代もあった。
定年、隠居、孫に囲まれて、などなど。
それこそ今ではほとんど叶わぬ夢の生き方となっている。
定年まで働けるか、
定年後は年金と退職金で賄えるか。
家族に囲まれて、死ぬまで面倒を見てもらえるか・・・。
ほとんどが、NOである。
時間があるときには、お金がない。
お金があるときは、時間がない。
という定説(?)さえ覆されている。
今は、時間もお金もない人が増えている。
便利さを求めると、自然がなくなる。
自然のあるところには、便利さがない。
一人は寂しいが、二人でいるとうっとうしい。
とかくこの世はままならない。
今日、熊本市内の自宅だったところから自分の荷物を出し、引き払った。
これからは、名目上、阿蘇の家が自宅となるわけだ。
今日、熊本も桜の開花宣言があった。
ボクの阿蘇の自宅は、今、真紅の桃の花が満開だ。
周囲の桜の花もすでにちらほら3~4分咲きといったところか。
そういえば最近は、1ッか月の間に2~3回くらいしか来ていなかったナ~。
今年はここで花見でもしようか。
じっくり腰を落ち着けて。
敢えて昼行燈を決め込んでいる。
昼行燈とは文字通り、
昼間に行灯(あんどん)を灯しても何の意味もないことから転じて、
ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉。
ストイックな暮らしが続く。
stoic
someone who does not show their emotions
and does not complain
when bad things happen to them
陽気に誘われて出かけたくなるのはやまやまだが、
ここはグッと堪えて、質素(simple;homely; plain; modest)に徹する。
むしろ、
すべてが好転(getting well)している今、
浮かれてはいけない(Never get over myself)。
調子に乗ると足元をすくわれるのが常だ。
ここは、パンツのひも、いや兜のひもを締め直そう。
ライザップに頼らなくても、
余計な贅肉を削ぎ落とすには絶好の機会だ。
いかにお金をかけずに豊かな生活をするか。
豊かさとは何か。What is abundance?
The ability to do what you need to do
when you need to do it.
(やる必要のある時に、やる必要のあることをやる能力)
幸か不幸か、クレジットカードも使えなくなった。
手元に現金がなくても衝動買いする癖がついていた。
あんがい、クレカがないほうが不要な物を買わなくて済む。
【5S life】
Simple life.
Saved life.
Single life.
Sustainable life.
Sufficiant life.
一日、一食半の生活。
一階から無料で弁当を頂いて助かっている。
感謝。
飲み会にも誘われなくなった。
習いごとも行かなくなった。
服はあり余るほどある。
Tシャツに至ってはゆうに200枚はあるだろうか。
いろんなもの、人の有難味が分かって嬉しい。
今まで、当たり前(と思っていた)だったものが、
有り難く思えてくる。
(ありがとうの反対語は当たり前)
これまでの奔放な(extravagant)人生、ライフスタイルを見直すにはちょうどいい機会。
doing or using something too much or more than is necessary.
世は、経済成長から成熟社会(mature society)に移行した。
「清貧の思想」こそ見直されるべきだ。
清貧(honest poverty)とは、清く貧しくではない。
「自由でゆたかな内面生活」をするためのライフスタイルのことである。
あくまでも「心の豊かさを大切にする生活」の知恵である。
重く湿気った古い服を脱ぎ捨てて、
時には原点、初心に帰ろう。
そこからまた再出発(Re-start, Start over)。
「毎日が生まれたて Everyday I'm just reborn.」 by Asay
Now the days of materialism are over,
and the concept of honorable poverty is being reevaluated.
物質(至上)主義の時代が終わり,
今は清貧の思想が見直されている.
敢えて昼行燈を決め込んでいる。
昼行燈とは文字通り、
昼間に行灯(あんどん)を灯しても何の意味もないことから転じて、
ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉。
ストイックな暮らしが続く。
stoic
someone who does not show their emotions
and does not complain
when bad things happen to them
陽気に誘われて出かけたくなるのはやまやまだが、
ここはグッと堪えて、質素(simple;homely; plain; modest)に徹する。
むしろ、
すべてが好転(getting well)している今、
浮かれてはいけない(Never get over myself)。
調子に乗ると足元をすくわれるのが常だ。
ここは、パンツのひも、いや兜のひもを締め直そう。
ライザップに頼らなくても、
余計な贅肉を削ぎ落とすには絶好の機会だ。
いかにお金をかけずに豊かな生活をするか。
豊かさとは何か。What is abundance?
The ability to do what you need to do
when you need to do it.
(やる必要のある時に、やる必要のあることをやる能力)
幸か不幸か、クレジットカードも使えなくなった。
手元に現金がなくても衝動買いする癖がついていた。
あんがい、クレカがないほうが不要な物を買わなくて済む。
【5S life】
Simple life.
Saved life.
Single life.
Sustainable life.
Sufficiant life.
一日、一食半の生活。
一階から無料で弁当を頂いて助かっている。
感謝。
飲み会にも誘われなくなった。
習いごとも行かなくなった。
服はあり余るほどある。
Tシャツに至ってはゆうに200枚はあるだろうか。
いろんなもの、人の有難味が分かって嬉しい。
今まで、当たり前(と思っていた)だったものが、
有り難く思えてくる。
(ありがとうの反対語は当たり前)
これまでの奔放な(extravagant)人生、ライフスタイルを見直すにはちょうどいい機会。
doing or using something too much or more than is necessary.
世は、経済成長から成熟社会(mature society)に移行した。
「清貧の思想」こそ見直されるべきだ。
清貧(honest poverty)とは、清く貧しくではない。
「自由でゆたかな内面生活」をするためのライフスタイルのことである。
あくまでも「心の豊かさを大切にする生活」の知恵である。
重く湿気った古い服を脱ぎ捨てて、
時には原点、初心に帰ろう。
そこからまた再出発(Re-start, Start over)。
「毎日が生まれたて Everyday I'm just reborn.」 by Asay
Now the days of materialism are over,
and the concept of honorable poverty is being reevaluated.
物質(至上)主義の時代が終わり,
今は清貧の思想が見直されている.
熊本地方裁判所における口頭弁論期日が決まった。
昨日届いた期日呼出状
事件番号 平成28年(ワ)第155号
「貸金等請求事件」という事件名がついたが、
裁判官から被告は不当利得にも当てはまる可能性があるともいわれた。
不当利得( unjust enrichment)とは、
正当な理由 (法律上の原因) なしに他人の財産または労務によって財産的利益 (利得) を受け,
これによって他人に損失を及ぼすこと (民法 703) 。
利得者は損失者に対してみずからの受けた利得の返還義務を負うというもの。
期日は、ちょうど一か月後の4月19日(火曜日)だ。
初回は、口頭弁論となる。
口頭弁論とは、
民事訴訟手続において、
双方の当事者 または訴訟代理人が公開法廷における裁判官の面前で、
争いのある訴訟物に対して
意見や主張を述べ合って攻撃防御の弁論活動をする訴訟行為をいう。
開廷は午後1時30分からだが、
お時間と関心のある方はぜひ傍聴に来ていただきたい。
場所は、熊本地方裁判所、第403号法廷である。
マ、被告が出廷するかどうかは分かりませんが。
被告が出廷しなければ、ボクの提出した訴状がそのまま判決となる。
請求内容(請求の趣旨)は、
① 被告は貸金等(慰謝料を含めた約400万円)と金利を支払え。
② 訴訟費用を支払え
③ 仮執行宣言を求める
の3点である。
被告が出廷すれば争うことになり、かなり長引くことになるだろう。
1~2年とか。
被告は、出廷日に福岡から熊本まで毎回出てこなければならない。
※ 通常相手(被告)の居住地(福岡)が管轄となるが、
今回、被告との契約の中で管轄裁判所(第一審)を原告の居住場所とすると取り決めていた。
ボクは裁判所までは歩いて行ける。
恐らく被告は弁護士を必要とするだろう。
(被告本人は離滅裂な言動が多すぎるので)
その場合弁護士費用もかかる。
ボクは自分でやる。
通常は、途中で和解案が裁判官から出されることがある。
また、被告は出廷してもまた途中で投げ出すこともありうる。
(何事も見境なくプッツンするから)
判決がでても和解しても被告は従わない可能性が十分考えられる。
つまり、支払えという判決が出たにもかかわらず、
無視して支払わないことである。
その時は、強制執行という手段を取ることになる。
手続きも費用も掛かるが、そのやり方はいくつか方法がある。
それは裁判の進捗状況に応じて明らかにしていこう。
あるいは、違った展開になることも考えられる。
予想外の・・・・・・・・ 。
この辺が裁判と、
それを通じての人間ドラマ(醜さを含めて)の面白いところなのだ。
【追記】
ひとまず出廷日が決まったことでホッとしている。
人間関係は大なり小なり争い事は絶えない。
そんな中、裁判沙汰になることはあるだろう。
立場は、原告になったり、被告になったりするが。
グローバル時代の現代、
いろんな争いごとが好むと好まざるとにかかわらず起きる可能性が増すことは必至だ。
契約書は、その効力の大小にかかわらず、
必ず取り交わしておくべき最低限のものである。
あくまでも、最悪を想定してのことだ。
国の内外を問わず、事業展開を行う場合、
企画書や事業計画書は言うまでもなく、
これら契約書関係の一切が最低限必要となってくる。
ボクは、これまですべて自分で作成してきた。
今回も、被告との契約書、訴状のすべてに至るまで
いわゆる専門家(弁護士や行政書士など)を通さず自分ででやっている。
(なんと今回の訴状はすべて手書きで認(したた)めた)
手間はかかるが、その手数をかけることで
かなりの(人生)勉強になっていることも事実である。
ポイントは、
企画書から訴状に至るまで、
相手を納得させうるものでなければならない。
そのためにも、
理路整然とすることは当然として
ストーリー性を持たせることが大切である。
これはビジネスにおいてもすべて通じるものだと思う。
人生はドラマであり、
ドラマにはストーリーがある。
そういう観点から見れば、
人生とは小説より面白いと言えるのだ。
どんな問題も楽しみに変えることができれば、
人生とは楽しいことでいっぱいなのだ。
さあ、楽しもう!人生を!!
楽しもう!トラブルを!
昨日届いた期日呼出状
事件番号 平成28年(ワ)第155号
「貸金等請求事件」という事件名がついたが、
裁判官から被告は不当利得にも当てはまる可能性があるともいわれた。
不当利得( unjust enrichment)とは、
正当な理由 (法律上の原因) なしに他人の財産または労務によって財産的利益 (利得) を受け,
これによって他人に損失を及ぼすこと (民法 703) 。
利得者は損失者に対してみずからの受けた利得の返還義務を負うというもの。
期日は、ちょうど一か月後の4月19日(火曜日)だ。
初回は、口頭弁論となる。
口頭弁論とは、
民事訴訟手続において、
双方の当事者 または訴訟代理人が公開法廷における裁判官の面前で、
争いのある訴訟物に対して
意見や主張を述べ合って攻撃防御の弁論活動をする訴訟行為をいう。
開廷は午後1時30分からだが、
お時間と関心のある方はぜひ傍聴に来ていただきたい。
場所は、熊本地方裁判所、第403号法廷である。
マ、被告が出廷するかどうかは分かりませんが。
被告が出廷しなければ、ボクの提出した訴状がそのまま判決となる。
請求内容(請求の趣旨)は、
① 被告は貸金等(慰謝料を含めた約400万円)と金利を支払え。
② 訴訟費用を支払え
③ 仮執行宣言を求める
の3点である。
被告が出廷すれば争うことになり、かなり長引くことになるだろう。
1~2年とか。
被告は、出廷日に福岡から熊本まで毎回出てこなければならない。
※ 通常相手(被告)の居住地(福岡)が管轄となるが、
今回、被告との契約の中で管轄裁判所(第一審)を原告の居住場所とすると取り決めていた。
ボクは裁判所までは歩いて行ける。
恐らく被告は弁護士を必要とするだろう。
(被告本人は離滅裂な言動が多すぎるので)
その場合弁護士費用もかかる。
ボクは自分でやる。
通常は、途中で和解案が裁判官から出されることがある。
また、被告は出廷してもまた途中で投げ出すこともありうる。
(何事も見境なくプッツンするから)
判決がでても和解しても被告は従わない可能性が十分考えられる。
つまり、支払えという判決が出たにもかかわらず、
無視して支払わないことである。
その時は、強制執行という手段を取ることになる。
手続きも費用も掛かるが、そのやり方はいくつか方法がある。
それは裁判の進捗状況に応じて明らかにしていこう。
あるいは、違った展開になることも考えられる。
予想外の・・・・・・・・ 。
この辺が裁判と、
それを通じての人間ドラマ(醜さを含めて)の面白いところなのだ。
【追記】
ひとまず出廷日が決まったことでホッとしている。
人間関係は大なり小なり争い事は絶えない。
そんな中、裁判沙汰になることはあるだろう。
立場は、原告になったり、被告になったりするが。
グローバル時代の現代、
いろんな争いごとが好むと好まざるとにかかわらず起きる可能性が増すことは必至だ。
契約書は、その効力の大小にかかわらず、
必ず取り交わしておくべき最低限のものである。
あくまでも、最悪を想定してのことだ。
国の内外を問わず、事業展開を行う場合、
企画書や事業計画書は言うまでもなく、
これら契約書関係の一切が最低限必要となってくる。
ボクは、これまですべて自分で作成してきた。
今回も、被告との契約書、訴状のすべてに至るまで
いわゆる専門家(弁護士や行政書士など)を通さず自分ででやっている。
(なんと今回の訴状はすべて手書きで認(したた)めた)
手間はかかるが、その手数をかけることで
かなりの(人生)勉強になっていることも事実である。
ポイントは、
企画書から訴状に至るまで、
相手を納得させうるものでなければならない。
そのためにも、
理路整然とすることは当然として
ストーリー性を持たせることが大切である。
これはビジネスにおいてもすべて通じるものだと思う。
人生はドラマであり、
ドラマにはストーリーがある。
そういう観点から見れば、
人生とは小説より面白いと言えるのだ。
どんな問題も楽しみに変えることができれば、
人生とは楽しいことでいっぱいなのだ。
さあ、楽しもう!人生を!!
楽しもう!トラブルを!
離婚に伴う元妻への財産分与として、
熊本市内の自宅を譲渡した。
それは内心望むところだった。
なぜなら、
借金まみれの自分が
今後差し押さえられる物件を無くすことに成功したからだ。
元妻にものになれば、債務をかぶることはない。
これは、資産保全の一手段である。
もちろん、だからといって偽装離婚ではない。
ただ結果的に好ましい方向に流れただけのことだ。
おかげでボクも、
自宅に掛けていた住居総合保険(火災保険)や
元妻の生命保険等の支払いがなくなった分だけ楽になる。
今後は彼女自身で負担しなければならなくなる。
彼女も、再婚するなり、さらに幸せになってほしいと願う。
ここでも、一見不幸に見えることが
幸いに繋がったのだ。
人生はなかなか思い通りにはいかないが、
望んだとおりに流れていくから不思議だ。
私欲を捨てればすべては好転する。
反対に、欲望(特に物欲)は身を滅ぼす。
欲しければ与えなさい。
与えれば欲しいものが手に入る。
一見逆説的だが、真理だ。
人間の心とは複雑なもので、
こうしたい、こうなりたいと思うことと(顕在心理)
本音というか、本心(深層心理)というものが望むものとが
違うことがある。
表向き、
有名になりたいだとか、偉くなりたいだとか、
お金持ちになりたいだとか言うが、
本当は、
自由で、ひっそり、気ままに暮らしたかったりする。
好きな人と一緒に暮らしたいと思う反面、
本音のところは、一人で自由気ままに暮らしたいかもしれない。
自分でもどっちが本当に望むことなのか、
分からなくなることすらある。
自分の本心がどこにあるか、
それは自分自身にも分っていないことが多いのではなかろうか。
まるでもう一人別の自分が存在しているかのようだ。
望んでいたものが手に入るようになって初めて
それが本当に望んでいたものでないことに気付くことは稀にあることだ。
結婚のドタキャンなどはまさしくこれに当たるかもしれない。
ボクは、ビジネスを拡大し、
ベトナムに特化して事業展開をしてきた。
だが、それはそういう流れが自ずと出来上がり、
その流れに乗っていたまでであった。
そしてそのトレンドに無理に合わせて突き進んできたきらいがある。
今、好むと好まざるとにかかわらず、
その流れが断ち切られた時、
どこか安堵感を覚えたのは自然な気持ちだったのだろう。
有名になりたいと思って、
いざなってみると、それはとんでもない世界だったことはあり得る。
普通の生活に戻りたいといって、芸能界を引退する人もいる。
だが、
意識しようがしまいが、
必ず本心が望むようになっていく。
その流れに逆らわずに、
素直に謙虚に物事を見つめて従えば、
真に本当の自分が取り戻せる。
今、そのことがはっきり見えてきた。
自分は本当は何をしたかったのか。
どうなりたかったのか。
邪な考えや欲望を捨てれば、
高きところから低き所へ水が場がれるように
無理なく自然にそしてスムーズに
本来望んだように人生とは流れていくものなのだ。
【余談】
いよいよ悟りの境地に入ってきた。
最悪を考え、最高の状態をイメージして事に当たる。。
屏風は、広げすぎると倒れる。
だが、畳んだままだと、意味をなさない。
さて、程よい広げ具合とは。
【本来無一物】
事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ。
無一物中無尽蔵
空の教え。
無一物とは何も存在しないということだが、
何ものにも執着しない境地に達することができる。
本来無一物だからこそ却って
全宇宙の存在のすべてが全自己の命そのものであり、
自分でないものは何一つなく、すべてを投げ捨て
無一物に徹すれば、そこには真理の姿として一切が
無尽蔵に現成されるのだ。
本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、
一切空であり、絶対無であることを意味する。
自分を尽くしきり、無心の徹し
切れば宇宙の真源にし、
全宇宙は 自己となり、天地同根万物一体なりで
大いなる世界が開ける。
『即非の論理』
A は、A でないが故に、A である。
or A は、非A であるが故に、A である。
一即一切、一切一即
一切は、すべて一点に還ってくる。
一点は、すべてのものと繋がっている。
一即一切とは、原点をすべての基本とせよ、ということであり、
一切即一とは、部分は必ず原点と同じ要素で成り立っている、ということだろう。
原点を掴めば、全体が把握できる。
また、部分から全体を知ることができる。
全体と部分、部分と全体という重なりが、全体の姿を表すということを、
重ね合わせてすべてを見る。
アインシュタインの相対性理論という画期的なアイデアも、
華厳経が内蔵する宇宙観に通じているといえるだろう。
仏教の宇宙観を、物理学の言語で表現したものが相対性理論であると捉えるなら、
相対性理論でさえも、仏教の経典と呼べるのかもしれない。
ますますわからなくなる。
奥は深い。
熊本市内の自宅を譲渡した。
それは内心望むところだった。
なぜなら、
借金まみれの自分が
今後差し押さえられる物件を無くすことに成功したからだ。
元妻にものになれば、債務をかぶることはない。
これは、資産保全の一手段である。
もちろん、だからといって偽装離婚ではない。
ただ結果的に好ましい方向に流れただけのことだ。
おかげでボクも、
自宅に掛けていた住居総合保険(火災保険)や
元妻の生命保険等の支払いがなくなった分だけ楽になる。
今後は彼女自身で負担しなければならなくなる。
彼女も、再婚するなり、さらに幸せになってほしいと願う。
ここでも、一見不幸に見えることが
幸いに繋がったのだ。
人生はなかなか思い通りにはいかないが、
望んだとおりに流れていくから不思議だ。
私欲を捨てればすべては好転する。
反対に、欲望(特に物欲)は身を滅ぼす。
欲しければ与えなさい。
与えれば欲しいものが手に入る。
一見逆説的だが、真理だ。
人間の心とは複雑なもので、
こうしたい、こうなりたいと思うことと(顕在心理)
本音というか、本心(深層心理)というものが望むものとが
違うことがある。
表向き、
有名になりたいだとか、偉くなりたいだとか、
お金持ちになりたいだとか言うが、
本当は、
自由で、ひっそり、気ままに暮らしたかったりする。
好きな人と一緒に暮らしたいと思う反面、
本音のところは、一人で自由気ままに暮らしたいかもしれない。
自分でもどっちが本当に望むことなのか、
分からなくなることすらある。
自分の本心がどこにあるか、
それは自分自身にも分っていないことが多いのではなかろうか。
まるでもう一人別の自分が存在しているかのようだ。
望んでいたものが手に入るようになって初めて
それが本当に望んでいたものでないことに気付くことは稀にあることだ。
結婚のドタキャンなどはまさしくこれに当たるかもしれない。
ボクは、ビジネスを拡大し、
ベトナムに特化して事業展開をしてきた。
だが、それはそういう流れが自ずと出来上がり、
その流れに乗っていたまでであった。
そしてそのトレンドに無理に合わせて突き進んできたきらいがある。
今、好むと好まざるとにかかわらず、
その流れが断ち切られた時、
どこか安堵感を覚えたのは自然な気持ちだったのだろう。
有名になりたいと思って、
いざなってみると、それはとんでもない世界だったことはあり得る。
普通の生活に戻りたいといって、芸能界を引退する人もいる。
だが、
意識しようがしまいが、
必ず本心が望むようになっていく。
その流れに逆らわずに、
素直に謙虚に物事を見つめて従えば、
真に本当の自分が取り戻せる。
今、そのことがはっきり見えてきた。
自分は本当は何をしたかったのか。
どうなりたかったのか。
邪な考えや欲望を捨てれば、
高きところから低き所へ水が場がれるように
無理なく自然にそしてスムーズに
本来望んだように人生とは流れていくものなのだ。
【余談】
いよいよ悟りの境地に入ってきた。
最悪を考え、最高の状態をイメージして事に当たる。。
屏風は、広げすぎると倒れる。
だが、畳んだままだと、意味をなさない。
さて、程よい広げ具合とは。
【本来無一物】
事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ。
無一物中無尽蔵
空の教え。
無一物とは何も存在しないということだが、
何ものにも執着しない境地に達することができる。
本来無一物だからこそ却って
全宇宙の存在のすべてが全自己の命そのものであり、
自分でないものは何一つなく、すべてを投げ捨て
無一物に徹すれば、そこには真理の姿として一切が
無尽蔵に現成されるのだ。
本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、
一切空であり、絶対無であることを意味する。
自分を尽くしきり、無心の徹し
切れば宇宙の真源にし、
全宇宙は 自己となり、天地同根万物一体なりで
大いなる世界が開ける。
『即非の論理』
A は、A でないが故に、A である。
or A は、非A であるが故に、A である。
一即一切、一切一即
一切は、すべて一点に還ってくる。
一点は、すべてのものと繋がっている。
一即一切とは、原点をすべての基本とせよ、ということであり、
一切即一とは、部分は必ず原点と同じ要素で成り立っている、ということだろう。
原点を掴めば、全体が把握できる。
また、部分から全体を知ることができる。
全体と部分、部分と全体という重なりが、全体の姿を表すということを、
重ね合わせてすべてを見る。
アインシュタインの相対性理論という画期的なアイデアも、
華厳経が内蔵する宇宙観に通じているといえるだろう。
仏教の宇宙観を、物理学の言語で表現したものが相対性理論であると捉えるなら、
相対性理論でさえも、仏教の経典と呼べるのかもしれない。
ますますわからなくなる。
奥は深い。
「経営のプロはロジスティクスを語り、素人は戦略を語る」と言われる。
ここでいうロジスティクス(Ligistics)とは、
日本語では兵站と訳する。
兵站(英語ではMilitary Logistics)と言う言葉は、広義には軍隊の「総務・管理部門」を意味し、
狭義には武器弾薬・食料・燃料などの物資補給・輸送や兵器、馬などのメンテナンスを意味する。
平たく言えば、兵隊(部下)の食い扶持ということになろうか。
その兵站がなければどんな戦略を組み立ててもそれは無用の長物であるとも言われるくらい
重要な要素なのだ。
同時に、戦略的な思考法を身につけなければ経営者として一人前になることは難しい。
経営者は、
戦略(Strategy)、作戦(Operation)、戦術(Tactics)、そして兵站(Logistics)のすべてにに精通していなければならない。
経営者に必要な能力の一つにマネジメント能力があるが、
マネジメント能力とは、戦略を立て、作戦を立て、スタッフに戦術を実行させることである。
そのスタッフに戦術を実行させるために
兵站が重要となってくる。
別の言い方をすれば、
「素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る」といわれる。
何が言いたいかというと、
ボクは、
アイデア、企画、立案、
そして、それを現実化して運営させる戦略(Strategy)、作戦(Operation)、戦術(Tactics)には自信がある。
ミッションに関しても、それはそれは立派なものを掲げる。
(自分で言うのもおこがましいがimpudent; cheeky)
現に、自分自身が直接経営に携わる事業に関しては曲がりなりにも成功を収めてきた。
阿蘇のペンション、
久住の観光牧場、
そして同じく阿蘇の古民家事業、
さらに、フリートークと、それなりに継続してきた。
ここへきて、
プッツンが続くのは何故か。
あらためて考えてみた。
それは、
すべて人に委託したものばかりだ。
そして、
資金や戦術、戦略は与えたが、
兵站に欠けていたのではないということに気付いた。
つまり、経営者としてはまだまだ素人だったのだ。
すなわち、委託した人々の食い扶持を自分で稼ぐように切り離したことが
不信を募らせ、辞めて(逃げて)いったのではないかと。
反対に、そこまで面倒を見れば継続可能であったのかもしれない。
全部が全部そうではないだろうから、
人を見る目がなかったと言えばそれまでだ。
ボクは、性善説で人を見るから騙されることも多い。
甘いと言えば、甘い。
情にほだされる。(to be moved by somebody's affection)
つい、同情してしまう(sympathize with~)ところがある。
(特に、女性の涙に弱いのは最大の弱点)
そして、最後まで面倒を見ないで、切り離してしまうところがある。
「来るものは拒まず、去る者は追わず」主義なのだ。
Those who come are welcome, those who leave are not regretted.
外国では、至極当たり前の感覚なのだが。
They are free to come and go.
だって、来ようが来まいが、本人の自由意思で勝手なのだから。
体力が減少した今、
そして、自由な行動を標榜する(profess)身であれば
人に任せなかれば成しえないこともある。
これからは、この反省の下に立って、
なるべく自分ででやれることを手がけることに集中し、
万が一、人に任せる場合は、より慎重に人選をすることにしよう。
ある意味、性悪説を受け入れなければならないだろう。
特に、世界を視野に入れたグローバルビジネスにおいてはおや、といったところだ。
また一つ、勉強になった。
ここでいうロジスティクス(Ligistics)とは、
日本語では兵站と訳する。
兵站(英語ではMilitary Logistics)と言う言葉は、広義には軍隊の「総務・管理部門」を意味し、
狭義には武器弾薬・食料・燃料などの物資補給・輸送や兵器、馬などのメンテナンスを意味する。
平たく言えば、兵隊(部下)の食い扶持ということになろうか。
その兵站がなければどんな戦略を組み立ててもそれは無用の長物であるとも言われるくらい
重要な要素なのだ。
同時に、戦略的な思考法を身につけなければ経営者として一人前になることは難しい。
経営者は、
戦略(Strategy)、作戦(Operation)、戦術(Tactics)、そして兵站(Logistics)のすべてにに精通していなければならない。
経営者に必要な能力の一つにマネジメント能力があるが、
マネジメント能力とは、戦略を立て、作戦を立て、スタッフに戦術を実行させることである。
そのスタッフに戦術を実行させるために
兵站が重要となってくる。
別の言い方をすれば、
「素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る」といわれる。
何が言いたいかというと、
ボクは、
アイデア、企画、立案、
そして、それを現実化して運営させる戦略(Strategy)、作戦(Operation)、戦術(Tactics)には自信がある。
ミッションに関しても、それはそれは立派なものを掲げる。
(自分で言うのもおこがましいがimpudent; cheeky)
現に、自分自身が直接経営に携わる事業に関しては曲がりなりにも成功を収めてきた。
阿蘇のペンション、
久住の観光牧場、
そして同じく阿蘇の古民家事業、
さらに、フリートークと、それなりに継続してきた。
ここへきて、
プッツンが続くのは何故か。
あらためて考えてみた。
それは、
すべて人に委託したものばかりだ。
そして、
資金や戦術、戦略は与えたが、
兵站に欠けていたのではないということに気付いた。
つまり、経営者としてはまだまだ素人だったのだ。
すなわち、委託した人々の食い扶持を自分で稼ぐように切り離したことが
不信を募らせ、辞めて(逃げて)いったのではないかと。
反対に、そこまで面倒を見れば継続可能であったのかもしれない。
全部が全部そうではないだろうから、
人を見る目がなかったと言えばそれまでだ。
ボクは、性善説で人を見るから騙されることも多い。
甘いと言えば、甘い。
情にほだされる。(to be moved by somebody's affection)
つい、同情してしまう(sympathize with~)ところがある。
(特に、女性の涙に弱いのは最大の弱点)
そして、最後まで面倒を見ないで、切り離してしまうところがある。
「来るものは拒まず、去る者は追わず」主義なのだ。
Those who come are welcome, those who leave are not regretted.
外国では、至極当たり前の感覚なのだが。
They are free to come and go.
だって、来ようが来まいが、本人の自由意思で勝手なのだから。
体力が減少した今、
そして、自由な行動を標榜する(profess)身であれば
人に任せなかれば成しえないこともある。
これからは、この反省の下に立って、
なるべく自分ででやれることを手がけることに集中し、
万が一、人に任せる場合は、より慎重に人選をすることにしよう。
ある意味、性悪説を受け入れなければならないだろう。
特に、世界を視野に入れたグローバルビジネスにおいてはおや、といったところだ。
また一つ、勉強になった。
壮絶な生きざまを見よ blog.goo.ne.jp/dreamincountry… @asaykajiさんから
NHKオンデマンド | クローズアップ現代 「“仕事がない世界”がやってくる!?」 nhk-ondemand.jp/goods/G2016067…
本日をもって、福岡のベトナムカフェ「かもん」が閉店いたします。
実際は、昨年末から営業はされていませんでした。
遅ればせながら、
関係各位様、お客様にご迷惑、ご心配をおかけしましたことを
このブログの場を借りてお詫び申し上げます。
これまで、この件に関して詳しく述べてこなかったのは、
経営を任せていたF氏を提訴すべく準備しておりましたので
敢えて控えさせていただいておりました。
事後報告になりますが、
F氏は、昨年12月17日、一方的に店舗の解約届を不動産屋に出しました。
血迷ったとしか思えません。He lost all his mind,
私は、彼の店舗賃貸借契約の連帯保証人になっております。
ですが、解約することは一切聞かされておりませんでした。
全く寝耳に水です。
それから、一切彼には連絡が取れず、
なぜそのような暴挙に及んだのかわかりません。
ただ、推測にすぎませんがおおよその見当は付きます。
いずれにせよ、取り返しのつかないことをした彼には法的責任を取ってもらわなければなりません。
それは司法(裁判所)が決めることになります。
彼も当初は夢を持って私に近づき、
私が資金提供(貸与)と経営アドバイスをするという契約書を彼と取り交わしました。
ただ、福岡市の補助金や地元商店街の支援、
それから彼の失業保険(給付金)等のからみもあり、
彼を経営者(個人事業主)としてたてました。
それは彼にとっても良いことと判断し、
契約書に則り全面的に支援をしてきました。
昨年の7月のオープン以来、
赤字とはいえ11月まで売り上げは確実に伸びていました。
黒字化の目途も立っていました。
ただ、彼なりに精一杯頑張ったとはいえ、
彼自身の経営感覚のなさは誰の目にもはっきりしていました。
その都度叱咤激励し、接客のイロハから指導してきましたが、
昨年12月、彼は業務を放棄し店にも来なくなりました。
もちろん、私の指導の至らなさと反省しております。
本日、店舗は明け渡すことになりますが、
原状復帰等事後処理はどうなっているか、私にはわかりません。
知らされてもいません。
いずれにせよ私は、彼に変わりリース契約した(130万円)物件もそのまま放置され、
連帯保証人としての債務も負うことになります。
彼に対する貸付金(120万円)も戻ってきておりません。
裁判により勝訴してもどこまで回収できるか分かりませんが、
とりあえずは司法の判断を仰ぐ所存でございます。
これにより、私の夢が潰(つい)えたわけではありません。
むしろ、新たな夢に向かって希望が湧き邁進しております。
どういうわけか、このタイミングで身辺の環境が一変しました。
これも、私自身のこれから先のライフスタイル改善へのターニングポイントで
好機としてとらえております。
身に起きることは、すべては良きことであり、
目の前の課題を一つ一つクリアしていけば
その先にはさらに良い人生が待ち受けているものと信じています。
自分自身、資金面、体力面ともかなり無理をしながら突っ走ってきたようで、
かえってこれで良かったのだと今の境遇に感謝しております。
あまり後ろ向きの処理に時間を割くことは本意ではありませんが、
避けて通れない事案だと覚悟を決め真摯に取り組んでいきます。
同時に、新たな夢に向けて歩を止めることなく今後も突き進んでまいります。
わずか半年間のベトナムカフェ「かもん」でしたが、
ご贔屓にしていただいた方々に感謝いたします。
ありがとうございます。
これからも、
かじえいせいの生き様、とくとご覧くださいませ。
、
実際は、昨年末から営業はされていませんでした。
遅ればせながら、
関係各位様、お客様にご迷惑、ご心配をおかけしましたことを
このブログの場を借りてお詫び申し上げます。
これまで、この件に関して詳しく述べてこなかったのは、
経営を任せていたF氏を提訴すべく準備しておりましたので
敢えて控えさせていただいておりました。
事後報告になりますが、
F氏は、昨年12月17日、一方的に店舗の解約届を不動産屋に出しました。
血迷ったとしか思えません。He lost all his mind,
私は、彼の店舗賃貸借契約の連帯保証人になっております。
ですが、解約することは一切聞かされておりませんでした。
全く寝耳に水です。
それから、一切彼には連絡が取れず、
なぜそのような暴挙に及んだのかわかりません。
ただ、推測にすぎませんがおおよその見当は付きます。
いずれにせよ、取り返しのつかないことをした彼には法的責任を取ってもらわなければなりません。
それは司法(裁判所)が決めることになります。
彼も当初は夢を持って私に近づき、
私が資金提供(貸与)と経営アドバイスをするという契約書を彼と取り交わしました。
ただ、福岡市の補助金や地元商店街の支援、
それから彼の失業保険(給付金)等のからみもあり、
彼を経営者(個人事業主)としてたてました。
それは彼にとっても良いことと判断し、
契約書に則り全面的に支援をしてきました。
昨年の7月のオープン以来、
赤字とはいえ11月まで売り上げは確実に伸びていました。
黒字化の目途も立っていました。
ただ、彼なりに精一杯頑張ったとはいえ、
彼自身の経営感覚のなさは誰の目にもはっきりしていました。
その都度叱咤激励し、接客のイロハから指導してきましたが、
昨年12月、彼は業務を放棄し店にも来なくなりました。
もちろん、私の指導の至らなさと反省しております。
本日、店舗は明け渡すことになりますが、
原状復帰等事後処理はどうなっているか、私にはわかりません。
知らされてもいません。
いずれにせよ私は、彼に変わりリース契約した(130万円)物件もそのまま放置され、
連帯保証人としての債務も負うことになります。
彼に対する貸付金(120万円)も戻ってきておりません。
裁判により勝訴してもどこまで回収できるか分かりませんが、
とりあえずは司法の判断を仰ぐ所存でございます。
これにより、私の夢が潰(つい)えたわけではありません。
むしろ、新たな夢に向かって希望が湧き邁進しております。
どういうわけか、このタイミングで身辺の環境が一変しました。
これも、私自身のこれから先のライフスタイル改善へのターニングポイントで
好機としてとらえております。
身に起きることは、すべては良きことであり、
目の前の課題を一つ一つクリアしていけば
その先にはさらに良い人生が待ち受けているものと信じています。
自分自身、資金面、体力面ともかなり無理をしながら突っ走ってきたようで、
かえってこれで良かったのだと今の境遇に感謝しております。
あまり後ろ向きの処理に時間を割くことは本意ではありませんが、
避けて通れない事案だと覚悟を決め真摯に取り組んでいきます。
同時に、新たな夢に向けて歩を止めることなく今後も突き進んでまいります。
わずか半年間のベトナムカフェ「かもん」でしたが、
ご贔屓にしていただいた方々に感謝いたします。
ありがとうございます。
これからも、
かじえいせいの生き様、とくとご覧くださいませ。
、