人間の精神の仕組みを『性的唯幻論』という独自の視点からとらえ、具体的な生の諸相を鮮やかに論じる岸田心理がの実践的応用編
・人間が死を恐れるのは、生物学的な意味での生命から多かれ少なかれ遊離したところに自己の存在を築いているからであると思う。われわれが恐れているのは自己の終焉であう。
・したがって、自己というものをもたなかったとすれば、死の恐怖はあり得ないであろう。
自己の崩壊がどのような結果をもたらすかは、精神病が如実に示す通りである。人間は、いかなる感覚、感情、欲望も、いかなる義務、責任も、それが自己のものと感じ、認めるかぎりにおいてしか表現できないし、行動化できない。人間にとって、自己とは世界の中心であり、要である。自己が崩壊すれば、世界も崩壊する。
・では、どのようなものが自己化されるかと言えば、それは、他者との人間関係において、他者によって自己と認められる。われわれの自己とは、他者がわれわれの自己と認めてくれるところのものである。
・わたしは歴史を幻想過程と見る史的唯幻論を唱えているわけであるが、ここで一つ奇異なることがある。史的唯物論は、つまるところ、歴史を神の意思の実現過程と見るキリスト教、客観的精神の必然的発展過程と見るヘーゲル哲学などのヨーロッパの伝統の延長線上にあるのだが、史的唯幻論は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり・・・」と語る『平家物語』や「行く河の流れは絶えずしてして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりた例なそ、世の中にある人と栖と、またかくの如し」と述べる『方丈記』などの、歴史を何ら必然性のない『春の夜の夢』や「よどみに浮かぶうたかた」と見る日本人の歴史観の線上あるような気がしてならない。
・血縁幻想とは、血のつながりに重点をおく幻想であり、この幻想によれば、人間関係の基本は血のつながりにある。
・わたしのある知人が話してくれたことだが、彼の友人が長患いのあげく、死が迫っていることを悟り、この世の名残の最後のお願いとして申し出たのが、女性器を今一度見たいということであった。事情を話されたある女が承知してくれ、病室から他の人たちを遠ざけて、もはや性交はできない彼に思う存分、性器を見せ、さわらせた。瀕死の彼は「ありがとう」と言い、満足げな表情を浮かべて、それから間もなく死んだそうである。
・他者の主体を消し去ろうとするのがサディズムであり、私の主体を消し去ろうとするのがマゾヒズムである。
・自分が金で動く人ほど、人も金で動くと思いがちなものだが、そう思って相手かまわずその原則を適用すると、逆効果を招いて大失敗したりする。金銭欲より自尊心はさらに複雑微妙であって、同じことで自尊心を傷つけられて怒る人もいれば、高く評価されたと誇りに感じる人もいる。
・「いい人」または「まともな人」というのは、自分の期待通りのことをしてくれるか、またそれほどは裏切らない人のことであり、その人たちに対しては好意的に接し、そして、「わるい人」または「変な人」というのは、自分の期待を大いに裏切る人のことであり、その人たちに対しては警戒して接するか、遠ざけるかすればよいわけである。
・わたしは本書でかいているようなことを大学の講義でもしゃべっているのだが、受講している学生たちからときどき、「そのような考え方をしていてむなしくないのか」と質問されることがある。わたしの考えによれば、人類の歴史は幻想をもってはじまり、社会は幻想で成り立っており、恋愛も幻想なら、異性の性的魅力も幻想、親子の愛情も幻想、何でもかんでもみんな幻想というわけで、わたしの講義を聞いていると、一部の学生は、世の中が何となくむなしくなってき、この先生は本気でそう思っているのだろうか、もしそうなら、何のために生きているのだろうか、まるで人生にはそのために生きるに値する価値などどこにもないみたいではないかなどと疑問に思うらしい。
全くその通り、私は本気でそう思っている。まさかふざけて、幻想だ、幻想だとわめいているわけではない。そして、そのために生きる価値なんかどこにもないと思っている。そのように答えると、「それはなぜ生きているのか、なぜすぐ死なないのか」と重ねて質問してきた学生がいたが、わたしにはこの質問は以外であった。
こういう質問が出る前提として、人間が生きているのはそのために生きるに値する何らかの価値のためであって、そのような価値がないなら死んだほうがましだという考え方があると思われる。わたしは、このような考え方こそおかしいと思うのである。いや、ただおかしいだけでなく、きわめてはた迷惑な考え方だと思う。
そもそも人間がそのために生きるに値する価値なんかありっこない。そんなことは、ちょっと考えればわかることである。人類がこの地球上に存在しているということそれ自体が、そもそも価値のないことである。
・親の心子知らずと言われるが「素直になりなさい」と言える親は、子どもの心を知らない親である。
・ベルクソンによれば、おかしさは「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」に由来する。すべってころんだ人がおかしいのは、彼が、本来なら、生命ある人間として臨機応変の柔軟な行動をとるべきなのに、依然として同じ行動を機械的につづけたからである。
・パニョルによれば、「笑いは勝利の歌である」。その場で突如として発見された優越感の表現である。われわれが、すべってころんだ人を笑うのは、われわれなら注意してバナナの皮をよけることができただろうに、ころんでぶざまな姿をされしたからであす。
・フロイドによれば、笑いは余剰エネルギーの放出である。おごそかな場面でのいかめしい神父や教授はわれわれに尊敬を強い、多大のエネルギー消費を要求する。ところが、屁をひった彼らはありふれた人間となり、もはや尊敬する必要がない。そこで、尊敬のために予定されていたエネルギーが余分となる。それが放出されたのが笑いである。
・梅原猛によれば、笑いは「異なった意味または価値領域に属する二つのもののコントラストにより起こる価値低下の現象」から生じる。老人や子どもがすべってころんでもたいしておかしくない。それはありそうなことである。つまり老人や子どもの属する意味領域でと、ころぶ人という意味領域とはコントラストをなしていない。それに反して、着飾ってすましている紳士や淑女属する意味領域と、転ぶ弱いとんまな人という意味領域とは強いコントラストをなしており、前者の領域に属していた者がすべってころんで後者の領域に転落するこtによって起こる価値低下がおかしくて、われわれは笑うのである。
・わたしの考えを一言で言えば、笑いとは、「共同幻想(疑似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放」の表現である。
・人間ほど残忍な動物はいない。同じ種族に属する他の個体はむやみに殺すのも、降参して無抵抗になった相手をあえて殺すのも人間だけである。K・ローレンツが言っているように、今まではげしく争っていた狼同士も、負けた方が喉元や原、すなわちそのもっとも無防備な部分をさらして降参の身振りをすれば、買った方は決してそこに噛みつくことはなく、それ以上の攻撃をさし控えて敵を見逃す。
感想;
「ものぐさ精神分析」岸田秀著 ”唯幻論”
人生に生きる価値などないと考えていると、寂しい気持ちも出てきますが、気楽な気持ちも生まれてきます。
価値を見出さないといけないと思うと、価値を生み出せない自分が生きる意味がないように感じてしまうのです。
もともと価値などないと思えば、自分のしたいことをして生きる。
その時に周りの人を犠牲にしない。
したいことをした結果、価値が生まれたらなら、それは幸せなのでしょう。
会社経営でも利益を上げることを目的とするので、そのために不正なことをしてしまっています。
顧客に、社員に、そして社会に満足を与えようと努めた結果、利益が得られたらそれはとても幸せなことです。
利益が得られないのは、顧客に、社員にそして社会にメリットがないからなのでしょう。