『教育勅語』≒『会津家訓十五箇条』
『教育勅語』
親への孝行、兄弟への友愛など、日本古来の道徳心を重んじるとともに、「国家の危機には忠義を持って天皇に尽くすべし」との一条があった
なんだか、以前の会津を思い出すなぁと思っていたら
覚馬は憂う
「教育の名のもとに、人を縛るようなことがあってはなんねえが」
会津の“家訓”が頭をよぎったのだろう。
『会津家訓十五箇条』
これは、徳川家を支えるための武士の心構えを説いたものであるが、「徳川家を支える」という第一条が絶対厳守の大前提という掟であった。
第一条
「大君(たいくん)の義……一心大切に忠勤を存ずべし。列国の例をもって自ら処(お)るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」、つまり「将軍家には忠勤を励むこと。他の藩を見て判断するな。もし将軍家を裏切ろうとするならば、(藩主は)私の子孫ではないから、家臣はそれに従ってはならない」という徳川家への絶対的忠節を命じたものであった。
(「歴史は繰り返す」と言うか、かつての会津のように日本は戦争への道を歩み始めており、
『会津家訓十五箇条』と『教育勅語』の思想が符合する。
この時期(最終回直前)にタイミングよく?会津戦争を振り返る契機がくるとは。
もちろん、この一致点を脚本家はドラマ構築の際見出し、構想を練っていたのだろう)
覚馬は過去を顧みて
「大君の義…“一心大切に忠勤を存ずべし”、御家訓のこの一条に会津は縛られてしまった。
いくつもの不運があった。
謀に乗せられもした。
それでも、まだ引き返す道はあったはずだ」
この言葉は、「殿の名誉を挽回せねばならぬ」という山川浩の使命に共感し、京での経緯を聞きに来た山川健次郎との議論での覚馬の言葉である。
いくつもの不運とは、薩摩に西郷隆盛という傑出した人物がいたこと、孝明天皇が急逝したこと、勝手に錦の御旗を掲げるという悪知恵の働く岩倉具視がいたことなどが挙げられるが、最も不運だったのは、忠義を尽くした徳川家の宗主が慶喜だったこと。単に凡才や愚君というのならよかったのだが、なまじ頭が切れて身勝手なので始末にを得ない)
この覚馬と健次郎との議論は会津戦争を総括するモノであった。
「命を懸けて、都をお守りしていたのに」(八重)
「書き残さなければ…。会津がいかに勤王の志が高かったかを」(健次郎)
「……勤王の志は、薩長も持っていた。薩摩の西郷、長州の木戸、彼らにも思い描く日本の見取り図はあった。
戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ!」(覚馬)
「望んで戦をしたわけでねえ。私たちの御城下に敵が土足で踏み込んできたのだし」(八重)
「大君の義…“一心大切に忠勤を存ずべし”、御家訓のこの一条に会津は縛られてしまった
いくつもの不運があった。謀に乗せられもした。
それでも、まだ引き返す道はあったはずだ」(覚馬)
「覚馬先生!あなたは忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか!
会津には…義がありました」(健次郎)
「向こうも同じように思っていたろう。
誠意を尽くすことは尊い。
それだけでは、人を押しつぶす力を跳ね返すことはできねえ」(覚馬)
「繰り言など聞きたくない!
覚馬先生は、会津魂を忘れてしまったのではありませんか」(健次郎)
「健次郎さんは長州の人たちの助けで学問を修めた。捨松さんは薩摩の大山様に嫁いだ。
皆、恨みばっかり抱いてるわけでねえ。
んだけんじょ……亡くなった仲間たちを思うと、会津が間違っていたとは決して言えねえ!」(八重)
会津も薩長も勤王の志や義を持っていた。
しかし、薩長は勤王は大義名分的な意味が強く、倒幕主義だった。これに対し、会津は律儀すぎた。帝への忠心、そして、徳川家への忠節も通そうとした。帝の崩御を機に、薩長が朝廷と結託し倒幕の勅命を立て、徳川家に忠節を誓う会津は徳川家に殉ずることになってしまった。
会津が利己主義だったら、京都守護職も引き受けず、引き受けたとしてもいい加減に職務をし長州の恨みを買うこともなかった。徳川家を見限ることもできた。会津が義を重んじたばかりの悲劇だった。
戦で京の街を焼き、会津も失った。その罪は重い。たとえ、正義の為であったとしても。立場違えば義も違う。情勢が変われば正義も変わる。
もし、会津の正義が貫かれ、会津が薩長を破ったとしても、必ず戦禍が起こる。
決して戦を起こしてはいけない。
卒業式の訓示
「その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、
二度と再び戦う事を学ばない」
「二度と再び戦う事を学ばない」
「二度と再び」……重複表現?
それはさておき、「戦うことを学ばない」というのは分かりにくい……
戦うことで、戦うことの罪、悲しみ、あやふやな義などを学んだが、そういう学びは一度だけでよい(過去だけでよい)。戦を絶対に起こしてはならない。ということだと思う。
覚馬と同じ考えを容保も抱いていた。
会津が逆賊でないことの証の御宸翰(しんかん)を世に出さずにいた。
「都の争いでは、勅を得たものが正義となった。ならば、御宸翰が再び戦の火種となる。それだけは避けねばならぬ」
「武士の忠義を貫き通した代わりに、儂は会津を死地へと追いやった」
ここで、会津藩士の代表格と言うべき山川浩が
「殿、あの時、会津までもが徳川を見捨てていたならば、この国に真の武士などはいなかったことになります」
と、殿の行為を肯定した。殿の後悔・苦悩も少しは和らげられたか。
会津藩士は≪徳川家を支える≫という掟に縛られてはいたが、≪容保の為に命を懸ける≫という思いの方が強い。
最終回直前の総括の回としては、相当良かったと思う。しかし、2つの不満点がある。
「ヒロイン活躍主義」が発動したのが残念
覚馬、健次郎の議論で、「健次郎さんは長州の人たちの助けで学問を修めた……」と健次郎を諌める主旨の発言をしたが、これは覚馬が言うべき言葉だろう。
それに、「亡くなった仲間たちを思うと、会津が間違っていたとは決して言えねえ!」と覚馬にも反論。
いや、反論するのは良いのだが、会津戦争の八重の動機は、「弟の復讐」「会津を守るため」「鉄砲撃ちになるという夢」「容保への忠心」など多く抱えていて、ここまでそれを完全に消化していない。
確かに、薩長に恨みを抱く女性や、戦場跡地での襄の説得(プロポーズ)など、いくつかの消化エピソードはあったが、エピソード主体でヒロインの心の葛藤は従であった。たとえば、女学校の女生徒の父親を八重が戦で撃って失命させてしまったと判明するシーンがあったが、過去(第39話レビュー)にも書いたように、「この時まで鉄砲を撃って人の命を奪うことの罪に向かい合わなかったのか」と大いに疑問を感じたことがあった。ヒロインを描かず、エピソードを描く短所が出た顕著な例である。
脚本が八重の人間性を確立していないから、今回の議論での八重の言葉も、その時々で補足的なことを言わせたり、他のものが言うべき“良い言葉”を八重に言わせてしまっている。しかも、あの場面、八重の言葉で締めさせた。その後の別のシーン(研究室での八重と健次郎の会話)で、健次郎の考えの変化を述べさせたのも、「ヒロイン第一主義」である。
さらに、「人間の知恵や知識で戦を避けられねえなら、学問は無駄なのか?」と弱音を吐かせ、八重が覚馬を立てつつ励ます(説教)。
そのため、卒業式の覚馬の名言も八重が言わせたように感じてしまい、色あせてしまった。
会津戦争の意義を総括するならば、頼母を出さないのは不十分過ぎる
役柄的には最終回に残したいのは理解できるが、殿への忠義心も人一倍ながら、会津の為に「京都守護職辞退」や「停戦」を提言した頼母は絶対はずせないはず。
(最終回を観てからでないと、言及できない可能性はあります)
この後、八重が赤十字の看護婦として従軍することになったが、この決心や大山を説得するシーンがあったが、これについての感想は省略します。(力尽きました)
☆その他の感想
むちゃくちゃ怖い、山川浩の「何?」
健次郎の「会津と薩長……義はどちらにもあった」に対し
とても静かに健次郎の方を見やりながら、問う山川浩。
むちゃくちゃ怖い……雷鳴は轟くし。
いつ改心した(洗脳された)んだ?スタークウェザー先生
今話の冒頭、襄の教えを実践するかのような授業を行っていたのは、なんとスタークウェザー先生だった。襄が帰国する際の演説の内容を紹介し、更に、「私たちも新島校長の夢を受け継ぎます」
「新島襄は校長ではない」と言い切ったスタークウェザー先生を、いったい、いつ改心させたのだろうか?(襄は募金活動ばかりしていたし、八重が銃で脅した?それとも薙刀か?)
【ストーリー】番組サイトより
1890(明治23)年に教育勅語が発表されると、覚馬(西島秀俊)は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱く。
そんな覚馬のもとに、山川健次郎(勝地涼)が訪ねてきた。健次郎は兄・浩(玉山鉄二)に代わって川崎尚之助(長谷川博己)の会津戦記を仕上げるために、京都でどのように薩長と戦っていたか覚馬に詳しい話を聞く。しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、健次郎も八重(綾瀬はるか)も激しく反論する。
その後、覚馬は同志社の卒業生たちに不戦の精神を説くと、すべての荷を下ろしたかのように病床に就き、息を引き取った。
覚馬の死後しばらくして、日清戦争が勃発。八重は赤十字の若い看護婦たちを率いて、再び戦へと赴くことになる。
『教育勅語』
親への孝行、兄弟への友愛など、日本古来の道徳心を重んじるとともに、「国家の危機には忠義を持って天皇に尽くすべし」との一条があった
なんだか、以前の会津を思い出すなぁと思っていたら
覚馬は憂う
「教育の名のもとに、人を縛るようなことがあってはなんねえが」
会津の“家訓”が頭をよぎったのだろう。
『会津家訓十五箇条』
これは、徳川家を支えるための武士の心構えを説いたものであるが、「徳川家を支える」という第一条が絶対厳守の大前提という掟であった。
第一条
「大君(たいくん)の義……一心大切に忠勤を存ずべし。列国の例をもって自ら処(お)るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」、つまり「将軍家には忠勤を励むこと。他の藩を見て判断するな。もし将軍家を裏切ろうとするならば、(藩主は)私の子孫ではないから、家臣はそれに従ってはならない」という徳川家への絶対的忠節を命じたものであった。
(「歴史は繰り返す」と言うか、かつての会津のように日本は戦争への道を歩み始めており、
『会津家訓十五箇条』と『教育勅語』の思想が符合する。
この時期(最終回直前)にタイミングよく?会津戦争を振り返る契機がくるとは。
もちろん、この一致点を脚本家はドラマ構築の際見出し、構想を練っていたのだろう)
覚馬は過去を顧みて
「大君の義…“一心大切に忠勤を存ずべし”、御家訓のこの一条に会津は縛られてしまった。
いくつもの不運があった。
謀に乗せられもした。
それでも、まだ引き返す道はあったはずだ」
この言葉は、「殿の名誉を挽回せねばならぬ」という山川浩の使命に共感し、京での経緯を聞きに来た山川健次郎との議論での覚馬の言葉である。
いくつもの不運とは、薩摩に西郷隆盛という傑出した人物がいたこと、孝明天皇が急逝したこと、勝手に錦の御旗を掲げるという悪知恵の働く岩倉具視がいたことなどが挙げられるが、最も不運だったのは、忠義を尽くした徳川家の宗主が慶喜だったこと。単に凡才や愚君というのならよかったのだが、なまじ頭が切れて身勝手なので始末にを得ない)
この覚馬と健次郎との議論は会津戦争を総括するモノであった。
「命を懸けて、都をお守りしていたのに」(八重)
「書き残さなければ…。会津がいかに勤王の志が高かったかを」(健次郎)
「……勤王の志は、薩長も持っていた。薩摩の西郷、長州の木戸、彼らにも思い描く日本の見取り図はあった。
戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ!」(覚馬)
「望んで戦をしたわけでねえ。私たちの御城下に敵が土足で踏み込んできたのだし」(八重)
「大君の義…“一心大切に忠勤を存ずべし”、御家訓のこの一条に会津は縛られてしまった
いくつもの不運があった。謀に乗せられもした。
それでも、まだ引き返す道はあったはずだ」(覚馬)
「覚馬先生!あなたは忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか!
会津には…義がありました」(健次郎)
「向こうも同じように思っていたろう。
誠意を尽くすことは尊い。
それだけでは、人を押しつぶす力を跳ね返すことはできねえ」(覚馬)
「繰り言など聞きたくない!
覚馬先生は、会津魂を忘れてしまったのではありませんか」(健次郎)
「健次郎さんは長州の人たちの助けで学問を修めた。捨松さんは薩摩の大山様に嫁いだ。
皆、恨みばっかり抱いてるわけでねえ。
んだけんじょ……亡くなった仲間たちを思うと、会津が間違っていたとは決して言えねえ!」(八重)
会津も薩長も勤王の志や義を持っていた。
しかし、薩長は勤王は大義名分的な意味が強く、倒幕主義だった。これに対し、会津は律儀すぎた。帝への忠心、そして、徳川家への忠節も通そうとした。帝の崩御を機に、薩長が朝廷と結託し倒幕の勅命を立て、徳川家に忠節を誓う会津は徳川家に殉ずることになってしまった。
会津が利己主義だったら、京都守護職も引き受けず、引き受けたとしてもいい加減に職務をし長州の恨みを買うこともなかった。徳川家を見限ることもできた。会津が義を重んじたばかりの悲劇だった。
戦で京の街を焼き、会津も失った。その罪は重い。たとえ、正義の為であったとしても。立場違えば義も違う。情勢が変われば正義も変わる。
もし、会津の正義が貫かれ、会津が薩長を破ったとしても、必ず戦禍が起こる。
決して戦を起こしてはいけない。
卒業式の訓示
「その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、
二度と再び戦う事を学ばない」
「二度と再び戦う事を学ばない」
「二度と再び」……重複表現?
それはさておき、「戦うことを学ばない」というのは分かりにくい……
戦うことで、戦うことの罪、悲しみ、あやふやな義などを学んだが、そういう学びは一度だけでよい(過去だけでよい)。戦を絶対に起こしてはならない。ということだと思う。
覚馬と同じ考えを容保も抱いていた。
会津が逆賊でないことの証の御宸翰(しんかん)を世に出さずにいた。
「都の争いでは、勅を得たものが正義となった。ならば、御宸翰が再び戦の火種となる。それだけは避けねばならぬ」
「武士の忠義を貫き通した代わりに、儂は会津を死地へと追いやった」
ここで、会津藩士の代表格と言うべき山川浩が
「殿、あの時、会津までもが徳川を見捨てていたならば、この国に真の武士などはいなかったことになります」
と、殿の行為を肯定した。殿の後悔・苦悩も少しは和らげられたか。
会津藩士は≪徳川家を支える≫という掟に縛られてはいたが、≪容保の為に命を懸ける≫という思いの方が強い。
最終回直前の総括の回としては、相当良かったと思う。しかし、2つの不満点がある。
「ヒロイン活躍主義」が発動したのが残念
覚馬、健次郎の議論で、「健次郎さんは長州の人たちの助けで学問を修めた……」と健次郎を諌める主旨の発言をしたが、これは覚馬が言うべき言葉だろう。
それに、「亡くなった仲間たちを思うと、会津が間違っていたとは決して言えねえ!」と覚馬にも反論。
いや、反論するのは良いのだが、会津戦争の八重の動機は、「弟の復讐」「会津を守るため」「鉄砲撃ちになるという夢」「容保への忠心」など多く抱えていて、ここまでそれを完全に消化していない。
確かに、薩長に恨みを抱く女性や、戦場跡地での襄の説得(プロポーズ)など、いくつかの消化エピソードはあったが、エピソード主体でヒロインの心の葛藤は従であった。たとえば、女学校の女生徒の父親を八重が戦で撃って失命させてしまったと判明するシーンがあったが、過去(第39話レビュー)にも書いたように、「この時まで鉄砲を撃って人の命を奪うことの罪に向かい合わなかったのか」と大いに疑問を感じたことがあった。ヒロインを描かず、エピソードを描く短所が出た顕著な例である。
脚本が八重の人間性を確立していないから、今回の議論での八重の言葉も、その時々で補足的なことを言わせたり、他のものが言うべき“良い言葉”を八重に言わせてしまっている。しかも、あの場面、八重の言葉で締めさせた。その後の別のシーン(研究室での八重と健次郎の会話)で、健次郎の考えの変化を述べさせたのも、「ヒロイン第一主義」である。
さらに、「人間の知恵や知識で戦を避けられねえなら、学問は無駄なのか?」と弱音を吐かせ、八重が覚馬を立てつつ励ます(説教)。
そのため、卒業式の覚馬の名言も八重が言わせたように感じてしまい、色あせてしまった。
会津戦争の意義を総括するならば、頼母を出さないのは不十分過ぎる
役柄的には最終回に残したいのは理解できるが、殿への忠義心も人一倍ながら、会津の為に「京都守護職辞退」や「停戦」を提言した頼母は絶対はずせないはず。
(最終回を観てからでないと、言及できない可能性はあります)
この後、八重が赤十字の看護婦として従軍することになったが、この決心や大山を説得するシーンがあったが、これについての感想は省略します。(力尽きました)
☆その他の感想
むちゃくちゃ怖い、山川浩の「何?」
健次郎の「会津と薩長……義はどちらにもあった」に対し
とても静かに健次郎の方を見やりながら、問う山川浩。
むちゃくちゃ怖い……雷鳴は轟くし。
いつ改心した(洗脳された)んだ?スタークウェザー先生
今話の冒頭、襄の教えを実践するかのような授業を行っていたのは、なんとスタークウェザー先生だった。襄が帰国する際の演説の内容を紹介し、更に、「私たちも新島校長の夢を受け継ぎます」
「新島襄は校長ではない」と言い切ったスタークウェザー先生を、いったい、いつ改心させたのだろうか?(襄は募金活動ばかりしていたし、八重が銃で脅した?それとも薙刀か?)
【ストーリー】番組サイトより
1890(明治23)年に教育勅語が発表されると、覚馬(西島秀俊)は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱く。
そんな覚馬のもとに、山川健次郎(勝地涼)が訪ねてきた。健次郎は兄・浩(玉山鉄二)に代わって川崎尚之助(長谷川博己)の会津戦記を仕上げるために、京都でどのように薩長と戦っていたか覚馬に詳しい話を聞く。しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、健次郎も八重(綾瀬はるか)も激しく反論する。
その後、覚馬は同志社の卒業生たちに不戦の精神を説くと、すべての荷を下ろしたかのように病床に就き、息を引き取った。
覚馬の死後しばらくして、日清戦争が勃発。八重は赤十字の若い看護婦たちを率いて、再び戦へと赴くことになる。