クローン赤ちゃんを巡る様々な思惑、そして、尊君(及川光博)の退場劇がメインで、推理モノとしては、殺害状況と黒いコートの移動の謎ぐらいで物足りなさであったが、却って焦点がはっきりしてよかったのではないだろうか?
あと、切羽詰った状況で、尊に右京(水谷豊)が「そばに茜(浅見れいな)さんは居ないのではないか、もし近くに茜さんが居たとしたら、君はそんなむごいことは言えるはずない」と推理する細かさは、あまりに右京らしくて、尊ではないが、苦笑いしてしまった。
★クローン赤ちゃんを巡るそれぞれの思惑
①亡くなってしまった夫や息子の代わりが欲しい茜
②娘・茜の心を救いたい母の気持ちとクローン人間の誕生の研究心と功名心が抑えられない科学者のエゴを持つ嘉神郁子(真野響子)
③信仰心から神を冒涜する行為だとクローン人間の存在を否定する隼斗(窪塚俊介)
④社会的影響を考えクローン人間の存在を隠蔽したい政治的思惑の片山雛子(木村佳乃)と長谷川宗男(國村隼)
⑤クローン赤ちゃんが公表されれば、無事に社会生活が営めないことを危惧し、公表(郁子への立件)を阻止しようとする優しい尊
⑥罪は罪、例外は認めない頑なな遵法精神の右京
それぞれが強く主張したため衝突が起こってしまった。
①の隼斗は、妹の気持ちを理解せず芽吹いている生命を否定しようとしたため②の茜に殺害されてしまった。
②の茜にしても、兄を殺さなくても
③の郁子は、クローン赤ちゃんの存在をあっさり認めたのは、いろいろ詮索される煩わしさを避けるためや、政治的に罰せられることはないという判断もあったが、クローン人間の誕生を誇りたいという科学者のエゴがあった。
④のふたりは、⑥の右京は手ごわいので⑤の尊を利用する。困った立場に居るはずなのに、大して慌てず、他人を利用するのはいかにも雛子らしい狡猾さだ。
そして⑤と⑥の対立……
★尊と右京の対決(尊の反抗)
右京は尊の「クローン赤ちゃんの存在が明らかになった後の行く末を案じる気持ち」は理解し、尊も右京の「罪を犯したいかなる者も裁かれなければならないという信念の揺るぎなさ」を理解している。
しかし、それでも、譲れない今回の思い。
今回は尊の赤ちゃんを殺すという不退転の決意に、右京が折れた。これは尊の決意の強さによるものではあるが、何より、右京の虚を突いて茜を拉致し先手を取ったということが大きかった。そして、その先手を取らせたのは④のふたり……
右京は「キミ(尊)に人殺しをさせるわけにはいかないじゃありませんか」と赤ちゃんの命より尊のことを思っての譲歩と告げたが、尊は「そう、僕が殺そうとしているのは人間なんです。怪物じゃない」と切り返す。右京に負けていない。この辺りも、尊の覚悟の強さが感じられる。また、先の右京の言葉は自分の信念より尊の方が大事だとも言っている
右京も、今回の件で尊の思惑どおりになっても、被害者・隼斗の狂信者まがいの歪められた人物像として騙られるという罪があると示唆する。
まだ見ぬ、そして、赤の他人の赤ちゃん(洒落ではないです)の為、捨て身の覚悟をする尊、強い信念とあくまで深い思慮をめぐらす右京……ふたりならではの対立だった。
★皮肉な結末
種々の思惑を巻き込んクローン赤ちゃんであったが、流産。……それぞれの思惑が台無しになる相棒らしい結末であった。(④のふたりは無傷、しかも尊を得る)
どうせ流産(あまりよい表現ではないですね)するなら、もっと早く起こっていれば、今回の悲劇は起こらなかったのに。
★真の相棒となったが……別離
(バーで)
大河内「資格が要るのか?特命係は」
尊 「杉下さんが大事にしているモノを、踏みにじったというか……」
大河内「わからんなあ」
尊 「何でもいいから、俺をどこかにやるよう、人事にかけ合ってください」
いつも、なんとなくおかしな雰囲気になる二人だが、今回は深刻。やたらでかいグラスが印象的。ここでは、尊は右京を裏切った意識から異動を願っていた。大河内に対しては「俺」と言うんだ。
(特命係の部屋で)
右京「君はそれが正しいと信じて罪を犯そうとした…心情的にはキミの訴えは良く分かります。しかし…」
尊 「罪は罪…。犯した罪は償わなければならない」
右京「断じてそう思っています。なのに、キミを説得することができなかった。…これは僕の罪なのでしょうねえ」
この言葉に、ここまで正面の一点に視線を固定していた尊だが、驚いたように右京を見る。
尊 「お先に、失礼します」
右京「ああ、もうひとつだけ。………僕はキミを追い出すつもりはありませんよ。そもそも、資格などと言うものはありません。人事にかけあっても、無駄だって仰っていました」
複雑な表情を浮かべ、軽く頭を下げ、名札を裏に返す尊。
「か~ん」と軽い木の音がやたらと響く。別れを象徴する音か。
この音の演出は、よく分からない。
別れを暗示させるのなら納得だが、右京の言葉は、尊の行動を肯定するものではないが、尊の信条や行動を容認し、相棒と認めたものだったと感じられた。また、尊の複雑な表情も、最後はやや嬉しそうに見えたし、異動の辞令が出た後は、大河内や尊の意図しない異動だったようであるし、長谷川に対しても「動く気はない」と。
真の相棒誕生のはずだったが……
ならば、あのシーンの「か~ん」には、異を感じてしまう。
「尊の相棒最終回」としては、非常に見ごたえのある最終回だった。
ラストシーン
「送ります」
「やめときます。ようやく、ひとりに慣れてきたところですから」
「では、またいつか、どこかで」
「ええ、じゃあ」
並木道、ひとり歩く右京の横を、クラクションを鳴らして走り去っていく尊。
ぱらぽろぱらぽろぱらぽろぱらぽろぱらぽろぱらぽろ♪
ぷ~わ~ぷわわわ~わ~ぷ~~わ~わ~わ~~ぷわわわ~ぷ~わ~わ~ぷわわわ~~ぷ~~わ~わ~♪
ぷじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ♪
ぷじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃぷわ~~~ぷわ~~~♪
相棒の本気モードのエンディングテーマ(平仮名で書くと、間抜けだ)
【ストーリー】(番組サイトより)
シーズン10もついにクライマックス!
神戸尊が特命係を卒業する最終回は絶対に見逃せない!
バイオテクノロジー研究所の主席研究員・嘉神郁子(真野響子)が、文科省に呼び出され、娘の茜(浅見れいな)を使いクローン人間を作っていることを認めた。
何者かが告発文を文科省に送り付けたらしいが、クローン人間が誕生するというのは本当なのだろうか?
娘の茜は、半年前に夫と5歳の息子を事故で亡くし、自殺未遂を起こすほどのショックを受けていた。
そんな失意のどん底にある茜に頼まれ、やむなくクローン人間の制作に着手してしまった郁子。
郁子の息子で茜の兄でもある隼斗(窪塚俊介)だけは茜が身ごもっているのがクローン人間だと知っていたが神への信仰心が強く、たとえ母親や妹であろうとも、クローン人間を作ることは「神への冒涜」だというのだ。
しかし、そんな隼斗に対して郁子は勝ち誇ったように言い放つ。
「ママは捕まらないと思う」と。
事実が公になれば、国際的な問題となってしまう。
そんなことになるぐらいなら、日本国家は事実を隠ぺいするはず…。
強気な母に驚きを隠せない隼斗だったが、事実、隼斗は片山雛子(木村佳乃)とあの長谷川宗男(國村隼)に首相官邸に呼び出されてしまう。
代議士の雛子は現在は総理補佐官を務めており、元警視庁副総監の長谷川は、警視庁人質籠城事件(「相棒-劇場版II-」より)を受けて警察庁長官官房付きという閑職の身分にいた。
「君は今後一切このことを口外しないこと」と言われクローン人間のことを口止めされてしまう。
やり切れない隼斗は公園にやってくると、突然大声で演説を始めてしまう。
「あと数カ月でこの日本に、クローン人間が誕生するんです!」
そんな奇行に誰もが耳を貸そうとしない中、偶然通りかかった右京(水谷豊)と尊(及川光博)は顔を見合わせ…。
事件に興味を抱いた右京と尊は、やがて真相へと近づくのだが、その解決方法をめぐって2人は…。
右京の相棒として3年間特命係に在籍した尊が特命係を卒業する大変革が起きる最終回、再登場ゲストも交えた壮絶なストーリーの結末は絶対に見逃せない!
ゲスト:真野響子 浅見れいな 窪塚俊介 木村佳乃 國村隼
脚本: 輿水泰弘 監督:和泉聖治
あと、切羽詰った状況で、尊に右京(水谷豊)が「そばに茜(浅見れいな)さんは居ないのではないか、もし近くに茜さんが居たとしたら、君はそんなむごいことは言えるはずない」と推理する細かさは、あまりに右京らしくて、尊ではないが、苦笑いしてしまった。
★クローン赤ちゃんを巡るそれぞれの思惑
①亡くなってしまった夫や息子の代わりが欲しい茜
②娘・茜の心を救いたい母の気持ちとクローン人間の誕生の研究心と功名心が抑えられない科学者のエゴを持つ嘉神郁子(真野響子)
③信仰心から神を冒涜する行為だとクローン人間の存在を否定する隼斗(窪塚俊介)
④社会的影響を考えクローン人間の存在を隠蔽したい政治的思惑の片山雛子(木村佳乃)と長谷川宗男(國村隼)
⑤クローン赤ちゃんが公表されれば、無事に社会生活が営めないことを危惧し、公表(郁子への立件)を阻止しようとする優しい尊
⑥罪は罪、例外は認めない頑なな遵法精神の右京
それぞれが強く主張したため衝突が起こってしまった。
①の隼斗は、妹の気持ちを理解せず芽吹いている生命を否定しようとしたため②の茜に殺害されてしまった。
②の茜にしても、兄を殺さなくても
③の郁子は、クローン赤ちゃんの存在をあっさり認めたのは、いろいろ詮索される煩わしさを避けるためや、政治的に罰せられることはないという判断もあったが、クローン人間の誕生を誇りたいという科学者のエゴがあった。
④のふたりは、⑥の右京は手ごわいので⑤の尊を利用する。困った立場に居るはずなのに、大して慌てず、他人を利用するのはいかにも雛子らしい狡猾さだ。
そして⑤と⑥の対立……
★尊と右京の対決(尊の反抗)
右京は尊の「クローン赤ちゃんの存在が明らかになった後の行く末を案じる気持ち」は理解し、尊も右京の「罪を犯したいかなる者も裁かれなければならないという信念の揺るぎなさ」を理解している。
しかし、それでも、譲れない今回の思い。
今回は尊の赤ちゃんを殺すという不退転の決意に、右京が折れた。これは尊の決意の強さによるものではあるが、何より、右京の虚を突いて茜を拉致し先手を取ったということが大きかった。そして、その先手を取らせたのは④のふたり……
右京は「キミ(尊)に人殺しをさせるわけにはいかないじゃありませんか」と赤ちゃんの命より尊のことを思っての譲歩と告げたが、尊は「そう、僕が殺そうとしているのは人間なんです。怪物じゃない」と切り返す。右京に負けていない。この辺りも、尊の覚悟の強さが感じられる。また、先の右京の言葉は自分の信念より尊の方が大事だとも言っている
右京も、今回の件で尊の思惑どおりになっても、被害者・隼斗の狂信者まがいの歪められた人物像として騙られるという罪があると示唆する。
まだ見ぬ、そして、赤の他人の赤ちゃん(洒落ではないです)の為、捨て身の覚悟をする尊、強い信念とあくまで深い思慮をめぐらす右京……ふたりならではの対立だった。
★皮肉な結末
種々の思惑を巻き込んクローン赤ちゃんであったが、流産。……それぞれの思惑が台無しになる相棒らしい結末であった。(④のふたりは無傷、しかも尊を得る)
どうせ流産(あまりよい表現ではないですね)するなら、もっと早く起こっていれば、今回の悲劇は起こらなかったのに。
★真の相棒となったが……別離
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大河内「資格が要るのか?特命係は」
尊 「杉下さんが大事にしているモノを、踏みにじったというか……」
大河内「わからんなあ」
尊 「何でもいいから、俺をどこかにやるよう、人事にかけ合ってください」
いつも、なんとなくおかしな雰囲気になる二人だが、今回は深刻。やたらでかいグラスが印象的。ここでは、尊は右京を裏切った意識から異動を願っていた。大河内に対しては「俺」と言うんだ。
(特命係の部屋で)
右京「君はそれが正しいと信じて罪を犯そうとした…心情的にはキミの訴えは良く分かります。しかし…」
尊 「罪は罪…。犯した罪は償わなければならない」
右京「断じてそう思っています。なのに、キミを説得することができなかった。…これは僕の罪なのでしょうねえ」
この言葉に、ここまで正面の一点に視線を固定していた尊だが、驚いたように右京を見る。
尊 「お先に、失礼します」
右京「ああ、もうひとつだけ。………僕はキミを追い出すつもりはありませんよ。そもそも、資格などと言うものはありません。人事にかけあっても、無駄だって仰っていました」
複雑な表情を浮かべ、軽く頭を下げ、名札を裏に返す尊。
「か~ん」と軽い木の音がやたらと響く。別れを象徴する音か。
この音の演出は、よく分からない。
別れを暗示させるのなら納得だが、右京の言葉は、尊の行動を肯定するものではないが、尊の信条や行動を容認し、相棒と認めたものだったと感じられた。また、尊の複雑な表情も、最後はやや嬉しそうに見えたし、異動の辞令が出た後は、大河内や尊の意図しない異動だったようであるし、長谷川に対しても「動く気はない」と。
真の相棒誕生のはずだったが……
ならば、あのシーンの「か~ん」には、異を感じてしまう。
「尊の相棒最終回」としては、非常に見ごたえのある最終回だった。
ラストシーン
「送ります」
「やめときます。ようやく、ひとりに慣れてきたところですから」
「では、またいつか、どこかで」
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【ストーリー】(番組サイトより)
シーズン10もついにクライマックス!
神戸尊が特命係を卒業する最終回は絶対に見逃せない!
バイオテクノロジー研究所の主席研究員・嘉神郁子(真野響子)が、文科省に呼び出され、娘の茜(浅見れいな)を使いクローン人間を作っていることを認めた。
何者かが告発文を文科省に送り付けたらしいが、クローン人間が誕生するというのは本当なのだろうか?
娘の茜は、半年前に夫と5歳の息子を事故で亡くし、自殺未遂を起こすほどのショックを受けていた。
そんな失意のどん底にある茜に頼まれ、やむなくクローン人間の制作に着手してしまった郁子。
郁子の息子で茜の兄でもある隼斗(窪塚俊介)だけは茜が身ごもっているのがクローン人間だと知っていたが神への信仰心が強く、たとえ母親や妹であろうとも、クローン人間を作ることは「神への冒涜」だというのだ。
しかし、そんな隼斗に対して郁子は勝ち誇ったように言い放つ。
「ママは捕まらないと思う」と。
事実が公になれば、国際的な問題となってしまう。
そんなことになるぐらいなら、日本国家は事実を隠ぺいするはず…。
強気な母に驚きを隠せない隼斗だったが、事実、隼斗は片山雛子(木村佳乃)とあの長谷川宗男(國村隼)に首相官邸に呼び出されてしまう。
代議士の雛子は現在は総理補佐官を務めており、元警視庁副総監の長谷川は、警視庁人質籠城事件(「相棒-劇場版II-」より)を受けて警察庁長官官房付きという閑職の身分にいた。
「君は今後一切このことを口外しないこと」と言われクローン人間のことを口止めされてしまう。
やり切れない隼斗は公園にやってくると、突然大声で演説を始めてしまう。
「あと数カ月でこの日本に、クローン人間が誕生するんです!」
そんな奇行に誰もが耳を貸そうとしない中、偶然通りかかった右京(水谷豊)と尊(及川光博)は顔を見合わせ…。
事件に興味を抱いた右京と尊は、やがて真相へと近づくのだが、その解決方法をめぐって2人は…。
右京の相棒として3年間特命係に在籍した尊が特命係を卒業する大変革が起きる最終回、再登場ゲストも交えた壮絶なストーリーの結末は絶対に見逃せない!
ゲスト:真野響子 浅見れいな 窪塚俊介 木村佳乃 國村隼
脚本: 輿水泰弘 監督:和泉聖治
そうした私の視点だと、右京は頑なな遵法精神という存在とは違います。
さて、ある存在の権威を高める時、例外のない絶対的な存在として扱うというのは常套手段です。これが法律の場合ですが、
1 悪法も亦法である
というのが最も頑なな遵法態度で、「三十歳以上皆殺し」というようなものでも遵って、自分が対象になった場合も粛々と死刑になるような時は法の奴隷という趣になり、自分が対象になる場合だけは必至に抵抗するような者は、権力者の隷従者でしょうか。
前者の場合、それは異常ではあるが信念としては最大級で、これこそが最も頑なな遵法者と言えるでしょう。
2 個々の法律を咀嚼し、自らの評価を下している。融通が利かないように見えるが、その実態は法の真意を自らに問いかける深い洞察の結果である。
この場合、先の例のような明らかな悪法はあっさり無視するでしょう。
右京は1と2の何方かという二者択一であれば明らかに後者です。
そして、ドラマでは2よりもかなり緩い遵法精神にしか見えません。操作ではかなりあっさりと、ルール違反をしています。それも確かな意義のあるルールでも普通にやぶってしまう。16話でもそうなのですが、「よかれと思ってルール違反」で生じた冤罪を解決する途中で、尊があっさり無許可で証拠に接触する。証拠を勝手に扱ってはならない、というのは、確かに脇の甘いルールだが、当然必要なルールです。操作の時は、「脇が甘くて時に社会の為になっていない」、というルールでさえあっさりやぶっている。
あまり遵法精神が強いという風に見えないんですよね。
ドラマとしての脇の甘さなのか、実は何か信念があって、結果として遵法主義に見えているだけなのか、判断が難しいです。
右京=遵法精神としたのは、私の過ちでした。
右京の場合、「罪を犯したら必ず裁かれるべきだ」ということで、絶対に法を守らなければならないというのとは少し違いました。
常識的にはおかしいと思われる法律でも、それを犯したら罪になり、裁かれなければならないと右京は考えています。そして、法がおかしいのなら、法律を改正すればよい。それまでは法に従う必要があるという考えです。
法を守ることが絶対というよりは、法による秩序を守ると言ったほうが良かったです。秩序を守るには、例外を認めてはならないわけです。
右京の違法捜査については、彼自身、けっこう甘いですね。基本的には、処罰は後で受けますと明言することもありますが、処罰を受けたことはほとんどないですね。
花粉の影響か否か、暫くの間非常に疲れやすくなっていて御無沙汰しておりました。
ニコニコ動画で名人戦オール生中継とか将棋ファンを社会不適合者に誘うニュースに「うひゃあああう」と嬉しい悲鳴を上げてみたくなる今日この頃ですが、かたいお話です。
さて、前回コメントの続きなのですが、
1 は形式的法治主義といい、 2 は実質的法治主義といいます。
悪法も亦法である、というのは戦前の日本やナチスドイツの立場で、最近では橋下が好んで使う論理です。
右京がもし1であれば、私は相棒というドラマを見るようにはならなかったと思います。
右京は2だと思って見てきました。
実質的法治主義というのは、法律が法律足る為には正当な理由がなければならない、というものです。憲法は国民の権利を守る為に国家に課せられたものです。一方法律は社会を成り立たせる為に国民の権利を制限するもの。正当な理由がなければいけません。
国民の奉仕者足らんとする公務員、権力者は絶えずこの正当性に揺れるものです。大筋については信念や方向性はあっても、個別の事案に当たっては心理的に揺らぐのが普通です。
相棒の場合多くは殺人の罪であり、右京は刑罰の内用には踏み込まないので、それに関してはどんな事情でも「裁かれる」べきというのは、殆どの方がそう思うでしょうし、現代法の理念にも矛盾しません。
>「常識的にはおかしいと思われる法律でも、それを犯したら罪になり、裁かれなければならないと右京は考えています。そして、法がおかしいのなら、法律を改正すればよい。それまでは法に従う必要があるという考えです」
見ていて時々、こういう面、形式的法治主義を伺わせたのですが、割と簡単に違法捜査はするし、であれば実質的法治主義なのだろう、と今まで見てきました。
ただ、 1 の形式的法治主義であるのだとしたら、自分の都合に合わせて簡単に破棄してしまうものです。
1は、法律の権威は高まるのですが、それは法律自体が思考停止のシステムを組み込まれたものになってしまいます。法律というのは、確かに変更する時は一定の手続き、手順でやるべきものですが、その正当性というのは常に問われ続けなければならない、というのが、現代司法の「実質的法治主義」という訳で、法治国家を構成する国民に常に正義を問い続けることを課したものだと言えます。
右京のように超越的(社会の矛盾に直面しても揺るがない)キャラをつくろうとすると、現代の先の答えを出すのは困難(将棋のお話をつくるのに未知の定跡を発見するようなもの)なので、逆に先祖帰りしてしまうというのは、よく見られる現象です。
勝手ではありますが、かみしろさんのコメントの訂正箇所は修正しておきました。(投稿時刻は、ずれてしまいました)
>国民の奉仕者足らんとする公務員、権力者は絶えずこの正当性に揺れるものです。大筋については信念や方向性はあっても、個別の事案に当たっては心理的に揺らぐのが普通です。
『相棒』、特に右京においては、この部分が大きな見せどころで、妥協を許さない確固とした信念、それに承服できない相方との対立が焦点になります。
>相棒の場合多くは殺人の罪であり、右京は刑罰の内用には踏み込まないので、それに関してはどんな事情でも「裁かれる」べきというのは、殆どの方がそう思うでしょうし、現代法の理念にも矛盾しません。
思い出されるのは「暴発」の回。
おとり捜査で積み重ねてきたモノを無駄にしないため、自ら命を絶った事件を、あくまでも死の真相を明らかにして、その罪を正しい罪状で裁かねばならないとした右京の暴走?が印象的でした。
真相を明らかにしないままだと、そのおとり捜査官は暴力団員のまま死亡処理されてしまうという点も指摘していました。
今回の場合は、クローン法?に抵触した行為に目を瞑るかどうかが焦点だったので、さらに悩ましかったですね。
>>「常識的にはおかしいと思われる法律でも、それを犯したら罪になり、裁かれなければならないと右京は考えています。そして、法がおかしいのなら、法律を改正すればよい。それまでは法に従う必要があるという考えです」
>見ていて時々、こういう面、形式的法治主義を伺わせたのですが、割と簡単に違法捜査はするし、であれば実質的法治主義なのだろう、と今まで見てきました。
違法捜査をするのは、ドラマの都合(そうしないと事件が解決しない)だと思います。
>>ただ、 1 の形式的法治主義であるのだとしたら、自分の都合に合わせて簡単に破棄してしまうものです。
ここは解釈の異なりを感じました。
法の内容は考慮せず、法律を守るという姿勢なら、自分の都合(考え)によらず、法を守ろうとするような気がします。
法が適正か否かはを考えるが、法による秩序は守らねばならないというのが私の右京像で、「1と2の中間に位置しているように思います。
>右京のように超越的(社会の矛盾に直面しても揺るがない)キャラをつくろうとすると、現代の先の答えを出すのは困難(将棋のお話をつくるのに未知の定跡を発見するようなもの)なので、逆に先祖帰りしてしまうというのは、よく見られる現象です。
ええ、そうですね。そもそも、複数の脚本家が書いており、しかも長期シリーズなので、右京の信念も、脚本家やその時々の都合で、ぶれてしまうのは仕方がないのかもしれません。
ここは言葉足らずでした。
もし右京が1であるとしたら、その形式的法治主義は自分の都合でどうとでもいいようにしてしまう程度のものです、という意味でした。
形式的法治主義と実質的法治主義の簡単な紹介から、右京の人物像を追っていて、言動と整合性のある右京の信念に迫ろうとしていたのですが、途中で
> ええ、そうですね。そもそも、複数の脚本家が書いており、しかも長期シリーズなので、右京の信念も、脚本家やその時々の都合で、ぶれてしまうのは仕方がないのかもしれません。
と気付いてしまったので、早々に店仕舞いしたのが前回のコメントです。
気付いて、というより意識しての方がいいでしょうか。制作側の都合が意識される前は、右京は確かにフィクションのキャラクターではなく一人の人間として私の中に存在した。しかしそれを意識させられると、途端に単なる架空の人物になってしまう。
一話毎に脚本家が変わるテレビシリーズの場合、全ての脚本についてシリーズの監督と全脚本家で討論すると結果として意図を超えたものができあがることがあると思うのですが、まあ普通そんなことはしないので、こういう人物にピントを突き詰めるような対象としては向かないのでしょうか。
私は物語を見る際の手法や価値観が小説を基礎としているので(それから大きく離脱できないのでギャルゲーが苦痛になってしまう)、その辺りにうるさ過ぎる気がします。
>一話毎に脚本家が変わるテレビシリーズの場合、全ての脚本についてシリーズの監督と全脚本家で討論すると結果として意図を超えたものができあがることがあると思うのですが、まあ普通そんなことはしない
そうですね。そう希望しますが、無理ですよね。
そう考えると、「水谷豊=殿」状態という話ですが、これはある意味必然かもしれませんね。
水谷氏はずっと右京を演じているので、一番右京を理解しているのは間違いないですから、水谷氏が脚本家の右京の行動や考えに違和感を感じたとすると、やはり脚本がおかしいということになるのかもしれませんね。
>「常識的にはおかしいと思われる法律でも、それを犯したら罪になり、裁かれなければならないと右京は考えています。そして、法がおかしいのなら、法律を改正すればよい。それまでは法に従う必要があるという考えです」
この考え方は概ね理性的であり、同意し易いのですが、大きな穴があります。
それは「法律を改正する、相当程度適当な手段(法律)」の存在を前提としていることです。
一つ注意しなけれぱならないのは、権力側(右京もそうです)が自分に向けている間は、それは確かにあまり注意する必要はない。
しかしこれが権力を持たない人間を相手にする場合「法律を改正する、相当程度適当な手段(法律)」については常に考慮せねばならず、
「法がおかしいのなら、法律を改正すればよい」
と主張するのは不当です。現在その手段があると思うなら、「~という手段があった」と主張すべきところ。
「法律には従わなければならない」
という言葉は、権力を持つ人間は本来使ってはいけません。勿論平常時は使っても問題ないのですが、その法律が扱う事物の正当性を争う場面で使うのは本当はいけないこと。
右京も本当は、「この件に関しては現在の法律に問題はあっても、法の秩序を重視すべきだと思う。その理由は~」と主張しなければいけない。
例えば「佐藤姓の人間は鈴木姓の人間を殺しても罪には問わない。その際鈴木姓の人間は抵抗してはならない」という法律が出来たとしたら、流石の右京も「法律を改正するまでは遵うべき」とは言わないでしょう。
このたとえのような法律は、そうではない時には「そんなの既に法の秩序は崩壊している」と判断できても、そういう状況になったら中々そのことに気付きません。
右京程切れる人間であれば、その辺を無視すべきではないのと
「相棒もこれだけシリーズを重ねているのだから、そろそろそういうところまで突っ込んでいいかもしれません」
とはいえ、それには非常に優秀な脚本家がダース単位で必要となると思うので、ドラマとしてそこまで要求するのは酷でしょう。
それを要求したくなるクオリティーを保って欲しいので、作り手側はそういう意気をもって欲しいですが。
今日のまとめ
「実質的法治主義に於いて「とにかく法に従うこと」という言葉はそれ事態が法の精神に反するというパラドックスを産む」
女子バスケが最終予選に負けて、放心状態なので、ちょっと頭が働かない状況で、レスすることをお許しください。
確かに
>>「常識的にはおかしいと思われる法律でも、それを犯したら罪になり、裁かれなければならないと右京は考えています。そして、法がおかしいのなら、法律を改正すればよい。それまでは法に従う必要があるという考えです」
>この考え方は概ね理性的であり、同意し易いのですが、大きな穴があります。
>それは「法律を改正する、相当程度適当な手段(法律)」の存在を前提としていることです。
そうですよね。
一般人に適用してはいけない理論です。もっとも、右京も警察や検察関係者に向けて発していることがほとんどだと思います。
とは言っても、警察関係者と言っても、法を改正するのは、なかなか難しいですよね。
「危険運転」に関する法なんて、「無免許運転を繰り返していたという行為」は常識的には相当悪質な行為なのですが、危険運転の目安で言うと、繰り返し無免許運転をしていたので、「それ相応の運転技術は有していた」と判断され危険運転には相当しないとされるようです。
非常におかしいと思いますし、あちこちで齟齬が出てきている法律なのですが、改正されません。
右京の言葉は、詭弁めいている気がしますね。
というようなことは選手には全くないでしょうが、冷戦時代に比べたら変なプレッシャーは随分減ったでしょうか。
オリンピックは世界のトップクラスの選手を除けば、やはり最終予選敗退が一番悔しい筈で、応援していた英さんもショックだったことと思います。
「とにもかくにも法に遵いましょう」
というのは、子供に対する躾けと同じ段階です。
親が先ず子供に教えるのは基本的には「善悪」で、この段階では理屈がどうとか教えようとしても無駄だし混乱するし、不可能。
大体の子供は、その次の段階で「屁理屈」をこねて抵抗するようになりますが、それもまた相手にしてもしょうがない。
この次の段階で、多少まともなことを言うようになった子供に対する、
「取り敢えず親の言うことは聞き、その意味をよく考えなさい」
というような段階です。
その次くらいでやっと自分の価値観、自分の判断となりますが、実はここに到達するには多少の能力と良い環境が必要です。
少し話がそれました。
法律だと明確ではないですが、当然ながらその道の専門化の手によるものは、素人の考えとは全く深さが違う。
将棋で言えば、次の一手でプロの指し手を当てても、その裏にある思考の量、裏付けには雲泥の差がある。
なので、「取り敢えずは法律(プロの指した手)が正しいと仮定して、その意味を考えなさい」ということで、この行為は、とても大切な上達に欠かせない行為です。
ものの考え方において、この行為の訓練に欠かせないのが様々な哲学に触れることです。哲学というのは世の中の真理を追求したものですが、それを学ぶ一般的な効用は「世の中には様々な考えがあり、正しい考えなど存在しない」「自分の考えはあくまで自分の考えで、それが正しいとか間違っているとかはない」などという、「客観的(により近い)視点を持つ」手助けになることです。
人の正しい、正しくない、には突き詰めれば「私はこうしたい」にいきつく。人の正しい正しくないは、「こうしたい」為には、正しい、正しくない、ということです。
実質的法治主義は、突き詰めれば「その社会に参加する一人一人が「どうしたい」のか自己に問いかけ、世に問うていく」ものだと思います。
で、現実的にはやはり
「取り敢えず法律に従っておけ」
という段階である、ことは否定しません。
なので、「クローン人間」の回のような、素人は勿論どんな人間にも、正解がわからないような問題において、右京の信念が現実と齟齬を来すのは当然でしょう。
危険運転の判断は「判例」だと思いますが、判例主義の場合、最初の判断が酷いものだと、変えるのに時間がかかる(これは悪いとも言えない)ので不条理を呼ぶことになります。場合によっては有り得ることで(更新忘れで失効した人など)、本来は個別に判断することでしょう。そして一度も免許を取ったことがない人間に適用するとなると、免許制度そのものに喧嘩を売るような判例かと思います。
五輪に関しては、以前より背負うものが重くなっているような気がします。
以前は「栄光」が一番で、それが占める率も高かったですが、現在はメダル獲得の成否の落差が大きいです。その競技界全体の浮沈もかかっているし、国民の期待や関心、マスコミなどのプレッシャー、選手の周囲の協力も感じるものが多いのでしょう。
今回のように、負けて謝るということにつながっています。(最近はこういうコメントが多いです。勝っても)
子供に対する躾けの話は面白く、激しく納得です。
>現実的にはやはり
>「取り敢えず法律に従っておけ」
>という段階である、ことは否定しません
ええ、そうですね。
法律に逆らうリスクは大きいです。
危険運転は、「正常な運転ができる状態か」が基準になっていて、悪行度がまったく考慮されないのが、最大の欠陥ですね。