八重桜 桜吹雪も 八重に散り
梅士 Baishi
今散る桜はぼたん桜である。
それも終わろうとしている。
ふと、紅葉に散った父や叔父の談笑が思い浮かぶ。
「さて、あいつも一花咲かせてみるものか」と。
咲かざるべからざる。
最近、付き合いのある企業からの安直な協力の依頼に
立腹した。
自分のことを謙り、他人の善意を営業戦力にしようと
いうことを経営術と心得ているのだろう。
他力営業である。
貧すれば貪するということかもしれないが、仕事には
美学があるものだ。
礼に始まり礼に終わるものだ。
神前の奉仕に始まり、神前の奉仕に終わるものだ。
仕事の神聖を見失ってはなるまいぞ。
現代経営学に欠けているものは、仕事の神聖、仕事の
美学という中心概念ではないか。
仏神への奉仕、これが仕事の本質である。
信仰の本質もまた、仏神に繋がっていることの喜びで
あり、感謝報恩である。
報恩とは、仏神の理想を実現しようという使命感であ
る。
ああしてくれ、こうしてくれとお願いする祈りは私利
私欲に陥りやすい。
祈りは、エネルギー供給ということであって、他力な
のではない。
自動車にガソリンを補給しても、人が主体となって運
転しなければ車は動かない。
そのように、信仰もまた自助努力である。
信仰は謙虚でなければ目覚めないものである。
仏神の超次元的なビジョンとパワーでさえも、不遜な
人間知には理解されないらしい。
幸福の科学に現れているのは、至高神の働きである。
仏神は人間が競い立つべきライバルではない。
帰依すべきものである。
圧倒的な善念、圧倒的な創生のパワーにあふれている。
それに気づかないということは、いかに現代日本人の
心が傲慢になり、感動する感性、悟性を失っているかと
いうことである。
聖書に言う貧しさとは、神の愛に気付く謙虚さを言う
のである。
傲慢であっては、神の愛には気付かない。
結果、他人を私するという罪を犯すことになる。
この日本に現生の仏陀が大川隆法総裁として人類を指
導されているのだ。
これに競い立つ下根の愚行よ、静まれ。
石橋を叩いて佇む中根よ、佇んでいるその場所が最も
危険である。
エル・カンターレを主と仰いでいる上根よ、そのこと
をもって傲慢となってはなるまいぞ。
修行者であるならば、その身を中道の試練の中に置か
ねばなるまい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi