風落ち葉 くるくる舞いて 走り去り
中村 梅士 Baishi
ジョギングに出かけた。
心肺能力も脚力も落ちている。
まして、中三日の運動不足がたたっている。
何とか、30分は走り続けたが、その後はジョグ&ウォ
ークになった。
結局、90分近くで9kmに終わった。
まあそれでも、走ると気分爽快であり、血圧も下がっ
ている。
途中、誰かが付いてきているのかと振り返ったが、落ち
葉がかさかさと足音を立てていたのだった。
カメラを持ってゆくべきだった。
街路樹も、山の紅葉もいい色になっている。
明日は秋月の紅葉を訪ねようか。
名所を訪ねることもないが、秋月は秋が一番である。
仕事が少し余裕なので、たまには遊びに出たいものだ。
『原説・「愛の発展段階説」~ 若き日の愛の哲学』を
読み始めた。
大川隆法総裁の初期の哲学として、聞き入ったのを覚え
ている。
しかし、あらためて気づいたことがあった。
第一段階の「愛する愛」とは、身近な人への愛であり、
家族愛や恋愛などが入る。
まだ、自己中心的な愛の段階かと思っていたが、ここに
言う愛は全て「与える愛」の発展段階なのだった。
さらに、憧れや片思いというのは愛ではないという。
愛は、人間関係としてあるからだと。
そういうところもあいまいになっていた。
愛とは愛を契機とする行為でもない。
そこに感じ取られる臨在感でもまだ未熟だという。
愛は愛として存在することを悟ってこそ愛に至るという
ことだろう。
人に仏性をみることが愛なのだろうか。
深淵である。
考えてみれば、自分に愛の実在を見出しているだろうか。
不信感や裁き心があるし、人間嫌いにも思える。
与える愛こそが愛だと教えられていても、自分から愛が
あふれ出るほどの愛が足りなかったようにも思える。
自分を愛するという思いも努力も足りなかった。
経済力を含めて、自分を豊かにすることが先決だったの
だ。
キリスト教に学んだ愛は、自己処罰と自己犠牲だった。
主を死に至らしめた原罪と、主が愛と許しのために十字
架にかかったことへの追随である。
しかし、罪を普遍化する性悪説の身勝手な解釈である。
そもそも、社会生活には馴染まなかった。
自己犠牲と言っても、現実には人の嫌う仕事を率先して
勤勉に働くと言うことはあっても、大した仕事ができたわ
けではなかった。
必要とあれば特攻も厭わないし、主をお守りするために
は身を挺して戦うSP精神もあるが、空想的である。
自己犠牲とは、それしかないという最終局面での無我夢
中の事であって、日常的な愛の在り方ではない。
基本は自ら豊かになり、その豊かさを植福することだ。
革命の時代には、危険を承知で正義を実現することだ。
人間・大川隆法ではない。
救世の法を説く、救世主・エル・カンターレに学んでい
るのである。
その法は、人一倍努力した成果でもある。
素直に畏れ、学ぶべきである。
降臨された救世主に競い立つほど愚かなことはない。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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