秋深し 山の札所に 経聞こえ
中村 梅士 Baishi
お遍路は四季を通じて三々五々巡るものだが、落ち葉を
重ねる細い遍路道に聞こえる経文はなんとなく素朴な響き
がある。
今はもう流行らない篠栗遍路ではあるが、山歩きの標と
なっている。
かつては、九州各地から遍路が集まって賑わったという
が、もはや夢の跡のようである。
一度は四国遍路を歩いて巡りたいものだ。
大半は車道を歩くことになるのだろうが・・・。
わが石蕗の花芽に黄色い花弁が見え始めた。
光が漏れ出るような風情である。
ゆっくりゆっくりと咲くものらしい。
香りの花は金木犀だったが、今はギンモクセイが淡い香
りを放っている。
これも、秋の味わいである。
政治には深い関心があるが、専門に勉強したわけではな
い。
しかし、正義というものは貫かれなければならないと思
う。
政治にはその根底に人類愛がなければならないと思う。
果たして自分に愛国心があるとしても、人類愛に根差し
たものだろうかという問題意識がある。
人類をいとおしいと思うことはないからだ。
むしろ、狡猾な悪党や権力者への嫌悪感が人類への印象
を支配しているとさえ思う。
そう思って眠りに入った。
眠りの中で、人類愛について思考を巡らせていた。
善悪の関係は裏表にも思える。
悪は善の陰影であり、アウトラインでもあるだろう。
人は悪の陰影によって善を認識し、深めようとする。
人は神によって自由を与えられた。
自由とは選択の自由である。
悪を選び取れば悪人となる。
善を選べば善人となる。
反省して悪を捨てれば、これも善人になる。
「罪を憎んで人を憎まず」の解釈が問題である。
おそらく、善悪とは、人への評価ではなく、その選び取
った思想への評価なのであろう。
いつも正しい選択ができるとは限らない人間の悲しさを
悪人として嫌悪するのは傲慢にも思える。
しかし、悪を裁くというのではなく、人々や社会を危機
に陥れないように隔離するという社会防衛論は許されるの
ではないか。
犯罪者や独裁者は悪を選択し、世の中を危険にさらした
選択責任は負担すべきことでもある。
感情的に人間を嫌うべきではない。
かといって、感情的に人類を愛せるかというと実感でき
ない。
宇宙で試練を積む必要があるのではないか。
神の存在の愛どころか、生かす愛も、さらには許しの愛
も、遥かなる高嶺の花であることよと思う。
ともかく、地球防衛軍を志したい。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party