プロ野球界に激震が走るニュースがあったけど、そういや、野球に関するスポットを一つ紹介してなかったなと思ったので、忘れないうちに紹介します。

函館市内にある野球場「オーシャンスタジアム」。
プロ野球の試合も開催されていて、私も一度だけ、ファイターズ戦を観に行ったことがあります。

そんな球場の敷地内に、こんな像が設置されています。

この像は、日本最古の硬式野球クラブ「函館太洋(オーシャン)倶楽部」の名捕手として活躍し、社会人野球の発展に尽力した、久慈次郎捕手の像。
久慈次郎は、名門早稲田大学野球部の創設者としても知られる人物で、1922年(大正11年)に函館にやってきて太洋倶楽部の一員となった後、1934年(昭和9年)にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームにも招聘され、全日本のエースであった、かの沢村栄治とバッテリーを組んだことでも知られている。
その後、現在の巨人軍の前身である「大日本東京野球倶楽部」にも招聘されたが、折しも、昨日の記事でも触れた大火によって函館が壊滅的な打撃を受けていたこともあり、そんな状況下で離れることはできないと、直前で参加を辞退した経緯がある。
しかし、現在に至る巨人軍の歴史の中では、初代の主将として久慈の名前が記録されており、私も、子供の頃に読んだ野球関連の本でその記述に触れたことがあったため、函館に来てから、実は函館に大変ゆかりの深い人物だと知った時は大変驚いたものだった。

この像の時は、昭和30年代前半の巨人軍の監督だったことで知られる、水原茂氏によるもの。
1939年(昭和14年)8月19日のこと、久慈が自ら編成し、育てたチーム「札幌倶楽部」との対戦で、打席に立った久慈は、敬遠により一塁へ向けて歩き出した際、一瞬足を止めて、次の打者に指示を与えようと首をかしげた瞬間、二塁ベースを大きく離れていた走者に投げようとした捕手の牽制球が右こめかみの上部分に直撃するという悲劇に見舞われ、二日後のそして8月21日に、帰らぬ人となってしまった。
この像は、39回忌にあたる1977年(昭和52年8月)に、現在のこの位置に設置されています。

函館市内にある野球場「オーシャンスタジアム」。
プロ野球の試合も開催されていて、私も一度だけ、ファイターズ戦を観に行ったことがあります。

そんな球場の敷地内に、こんな像が設置されています。

この像は、日本最古の硬式野球クラブ「函館太洋(オーシャン)倶楽部」の名捕手として活躍し、社会人野球の発展に尽力した、久慈次郎捕手の像。
久慈次郎は、名門早稲田大学野球部の創設者としても知られる人物で、1922年(大正11年)に函館にやってきて太洋倶楽部の一員となった後、1934年(昭和9年)にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームにも招聘され、全日本のエースであった、かの沢村栄治とバッテリーを組んだことでも知られている。
その後、現在の巨人軍の前身である「大日本東京野球倶楽部」にも招聘されたが、折しも、昨日の記事でも触れた大火によって函館が壊滅的な打撃を受けていたこともあり、そんな状況下で離れることはできないと、直前で参加を辞退した経緯がある。
しかし、現在に至る巨人軍の歴史の中では、初代の主将として久慈の名前が記録されており、私も、子供の頃に読んだ野球関連の本でその記述に触れたことがあったため、函館に来てから、実は函館に大変ゆかりの深い人物だと知った時は大変驚いたものだった。

この像の時は、昭和30年代前半の巨人軍の監督だったことで知られる、水原茂氏によるもの。
1939年(昭和14年)8月19日のこと、久慈が自ら編成し、育てたチーム「札幌倶楽部」との対戦で、打席に立った久慈は、敬遠により一塁へ向けて歩き出した際、一瞬足を止めて、次の打者に指示を与えようと首をかしげた瞬間、二塁ベースを大きく離れていた走者に投げようとした捕手の牽制球が右こめかみの上部分に直撃するという悲劇に見舞われ、二日後のそして8月21日に、帰らぬ人となってしまった。
この像は、39回忌にあたる1977年(昭和52年8月)に、現在のこの位置に設置されています。
