札幌で一番、いや、北海道で一番、いいえ、北日本で一番の歓楽街と言われる、「すすきの」の一角。
何の変哲もない歩道のようにも見えますが・・・、
何となくわかりますかね・・・。
横断歩道の向こう、「グリーンビル」の看板のある建物は、手前にある居酒屋の建物よりも、やや奥に引っ込んでいるように見えます。
この位置が一番わかりやすいかな。
ドコモの看板のあるビルは、この位置にあるビルよりも出っ張っていて、先の方が歩道が狭くなっているように見えます。
上の写真の反対側に向けて一枚。
こちらも同様に、先のビルの方が出っ張っています。
こちらの地図をご覧ください。
地下鉄南北線の「すすきの駅」を中心にした左右1ブロックだけ、歩道の幅が広くなっているのがわかると思います。
では、何故こうなっているのでしょう?
まず思い浮かぶこととして、ここは先程書いたとおり、北日本一の歓楽街なので、多くの人がゆったりと歩けるように歩道の幅を広げたということがあるかと思いますが、実はそういうことではなく、これは、札幌開拓時代に遡った深い歴史の名残なのです。
先日の「吉田茂八」に関する記事で触れたとおり、今に至る札幌の町づくりは、1869年(明治2年)に始まりましたが、その二年後の1871年、この建物が凹んでいる位置には、大きな土塁が設置されていました。
当時ここにあったのは、官設の「薄野遊郭」。開拓開始からわずか二年で、ここに遊郭が設置されていたのです。
開拓が始まった当時、札幌の地にやってきたのは、役人や職人など、ほとんどが男性で、厳しい冬の季節を迎えると、皆故郷へと帰ってしまいました。
これでは開拓も進まないということで、そんな男たちを繋ぎ止めるための策として、開拓使が、この地に遊郭を設置しました。
そう、民ではなく官が遊郭を設置したのです。
1871年(明治4年)、現在の南4条から南5条の西3丁目から4丁目にあたる二町四方に設置された「薄野遊郭」は、周囲に高さ4尺(約120cm)の壁が設置され、出入口に大門も存在した大規模な遊郭だったとされています。
その後、街の発展に伴い、一面の原野に設置されていた遊郭は、大正時代に入ると市街地の中央に位置するようになり、1918年(大正7年)に開催された開道50周年記念博覧会の会場が
中島公園(地下鉄南北線で「すすきの」の次の駅下車)に決まった際、観客がこの遊郭街を通り抜けなければならないとの理由から、この地より移転が決定しました。
しかし、移転後も、かつての土塁跡である、建物が奥に引っ込んでいる二つのブロックの形はそのままとなり、現在は、↑の写真のような、広い歩道として整備されています。
漢字で「薄野」と書く「すすきの」という地名の由来は、「辺り一面が茅(薄)に覆われていたため」という説が有力とされていますが、遊郭の完成に奔走した「薄井竜之」の功績を称えるため、その姓から一文字を取った」という説もあるようです。
私もこの写真を撮る時に久しぶりにこの辺りに行ったけれど、故郷である札幌をぶらり歩きする際は、このように歴史に思いを馳せながら歩くのもいいなと思います。