龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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書籍の「自炊」の話(続)

2012年07月01日 12時01分38秒 | iPhone&iPad2
所蔵本の裁断による電子データ化は、思わぬ波及効果を生みつつある。

売ってもいい本は流行本とノウハウもの、そして一度読めば終わりの推理小説(推理小説全てが一度読めば終わり、ってことではありません、当然ですが)。

自炊を初めてから分かったのだが、その程度の分類はできるようになってきた。

この本は自分の「脳味噌」から近いか遠いか。
その距離を考えればいい。

1,「脳味噌から遠い本は売るか誰かにあげる。」

2,「脳味噌に近い本の内、電子データベース化してもよいものをとりあえず選ぶ」

 A,電子化するもの
  (読みたいが、なかなか読めないもの+一読して、再度の参照可能性があるが、普段は手にはとらないもの)

 B,電子化せずに残すもの
  (辞書、原テキスト、全集もの。つまり、一読によって消費されず、むしろ繰り返し身体を伴って「読む」べきもの)
  (スローリーディングの対象テキスト、ということです。)

自分にとっての「テキスト」と「情報」が、明確に分類できつつある。


100万円のワープロを初めて購入した時、パソコン通信のホスト機を初めて立ち上げた時以来の、

プチ

「蔡倫&グーテンベルグ<紙=印刷>革命来てるぞ」

感があります。

もちろん課題も。

課題1 本に刃物を入れることに対する抵抗感=フェティシズムとどう向き合うか。
     今まで雑誌以外は基本捨てたことのない「本」というものを紙くずにして捨てるわけで抵抗感は半端じゃない。

課題2 情報として有用なら、むしろ重要テキストほど積極的に電子化すべきではないか?
     つまり、身体を伴って「読む」行為と、外部化された情報処理とのせめぎ合いである。
     全てを電子化した方が「効率的」だし、年寄りになってからも拡大自由で読みやすいってこともある。
     しかし、そう簡単に全部本を壊すことはできそうにない。
     もう一冊古書を購入してそれを「自炊」したい、という種類の本も。
     そういうことになるとまた次第に意味不明の本収集の上にデータも完璧に、という「離陸」が起こりかねない。
     ここ、ほどほどにしておくのが今のところの「最適解」かも……。

課題3 裁断機の置き場所(笑)。これが場所を取るので、作業場所が欲しくなる。

とりあえずはある程度電子化を進めてみて、様子をうかがってみようかというところではあります。

だいたい所蔵本全ての電子化作業なんて、自分一人でやってたら、それ自体が人生の主要目的になってしまいかねないですからね。

場所ふさぎなものでも本は手放せない。
だったら「捨てる」代わりに仮想ゴミ箱としての電子データ化、ってことかな、結局は。


書籍の「自炊」をはじめた。

2012年07月01日 03時31分11秒 | iPhone&iPad2
書籍の背を裁断して、両面スキャナで読み取り、PDFとしてタブレット端末に収めて読む、といった一連の作業を「自炊」と呼ぶのはご案内の通り。

書類保存・整理のため、数年前からScanSnapという富士通のスキャナを買って、パソコンの書類フォルダに保存書類を取り込みはしていたのだが、震災でキレイに壊れ、そのままになっていた。

その時は、まだタブレット端末を持っていなかったので、本をPCに入れてもしょうがないということもあり、「自炊」などは考えもしなかった。

意識が変わりはじめたのはipad2を購入してからである。

寝転がって文庫本を片手に居眠りをしながら本を読むというのは最高の贅沢の一つなのだが、タブレット端末は残念ながらその文庫本の「軽さ」「手軽さ」には及ばない。片手で持っていると正直疲れる。

だが、モノクロスキャンなら本1冊で10M~20M程度。カラーの雑誌で100Mほどだ。

とすれば、32Gのipad2なら、その半分を使ったとして1000冊以上が端末一つに入る勘定になる。
さらにクラウドに書籍データをあげておけば、いつどこにいても持っている本全てを持ちあるく(というかアクセスする)ことさえ可能なわけだ。

そんなこんなで自分の中で自前電子書籍化への意欲が進行しはじめていたのである。

最初はまあ当然といえば当然なんですが、本に刃物を入れること自体が躊躇われました。

しかし実際ipadに取り込んだPDFファイルを読むと、文庫は特に拡大が可能だし、索引をPDFに付けておけばざっくりとした検索も可能。付箋機能だって閲覧ソフトについているし、縦でも横でも右開き・左開き、いずれもOK(SideBooks)。

実に便利である。

1,本棚に余裕ができる。
2,読みたい本をいつでも手元に、しかも何冊でも!
3,電子書籍の方が敷居が低く、本棚に何年も読まずに積んで置いた(しかし関心がないわけではない)ものに対する意  識が高まり、自炊をきっかけにさらっと読めてしまうようになる。

この3番目がなかなか侮れない効果です。

全部捨てるのは無理だし、本をより分けても結局また本の山。結局読み返すことはできない。

ざっくりした調べ物に使うなら、PDFの検索機能や擬似付箋機能、あるいは書き込み機能の付いた編集・ビュアーソフトを使えば足りる。
(それで不足の本格的勉強なら、OCRにかけるか自分でメモカードを取るかすればいい。)

なによりも、書庫を建てるとなったら黙って数百万円のお金がかかる(物置はもう買いましたが、箱だらけで未整理本の山。最初から書庫オンリーとして購入しないと使えないと知りました)。

「自炊」なら、裁断機とスキャナで6万円もあればお釣りがきます。
というわけで、遂に決断。

いや、結局本に対する物神化が、実物を離脱して「情報化」しただけ、なんですけどね(苦笑)。
本当の「断捨離」なら、3年経って手も触れない本は売りましょうって話になる。
それは分かるのだけれど、無理なんです。

なにせ本は外化された自分の「思想」「哲学」「感情」の言語化されたシステムなわけだから。
ある種の(フェティッシュな)本好きなら分かると思うけれど、全ての読んだ本を本棚に時系列的に置いておきたいとか、
読んだ本を自分だけの分類にかなった形で「図書館」にしたいとか、そういう欲望はある。

「自炊」はそのバーチャルな縮小セットなのでした。

無論全ての本を電子化するつもりもない。
電子書類にした方がいいものとそうでもないもの、を考えていかねばならない。
でも、もしかすると単に便利とかいうレベルで終わる話じゃないと思う。








いわき市も大飯原発再稼働反対決議案否決。

2012年07月01日 03時06分11秒 | 大震災の中で
いわき市も大飯原発再稼働反対決議案否決。しかも14対19の大差で。
福島市も同じく否決されたが、僅差だった。

いずれも、再稼働反対案に「反対」した議員は討議に立たなかったという。
まあ、
「再稼働反対に反対するのは、賛成とは違う」
とか
「当該町民が再稼働賛成したのに、横からぐずぐずいうのはどうか」
とか、想像はつくけどね。もうちょっとましなことを言ってくれるかなあ。

いわき市では自民党系議員と電力労組系議員が反対に。
福島市では保守系議員が反対、と朝日新聞の6月29日の記事にあった。

福島県の自治体でさえ、再稼働反対は少数派なのだ。
実際に被害を被り、また被る危険のある立地自治体が賛成し、むしろ電力の恩恵を被っている都市部に再稼働反対が多い。

本当にねじれてます。
少なくても、「植民地的」(開沼博)な仕組みは福島でも大飯でも、間違いなく既に「再稼働」している、という印象を持つ。

ほんとに「やれやれ…sigh…」である。


盛岡に行ってきた

2012年07月01日 01時50分55秒 | 大震災の中で
先週末、盛岡に行ってきた。朝から夜まで一日街中をうろうろ歩いて過ごした。ここの町はどこかのんびりしていて、でもとても楽しい。文化的蓄積、とはこういうことなのだろうか。
作り手も売り手も、広い意味での表現者としてスタンスがぶれていない、という印象を持った。
街中の酒蔵に、とても美味しいお酒がある。
そしてそういう町は、当たり前のことだがどこにでもあるわけではない。
カフェに寄れば、地元の若手の絵が飾ってある。そういうことはどの町にもあるけれど、「自然な感じ」があるのです。
お菓子屋さんでも、荒物屋さんでも、地元のお店として機能している。

神子田の朝市もそうだった。休日だから、当然観光のお客がたくさん来ている。でも、たとえば「ひっつみ」(ほうとうを米粉で作ったみたいな汁ものです。早朝の市場で立ち食いするとこれがまた抜群に旨いのです)でも「草大福」でも、地元の人が「いつものやつね」みたいな感じで注文の列に並んでたりする。
つまりは、市場が日常の生活の中で「生きてる」感じがするのです。
ほうれん草が50円からだったり、百合の花が1本50円だったり(今仏壇で咲いてます)、香り高い?ニンニクが一つ80円だったりと、市場自体が「生活応援価格」。

発信力があるなあ、という印象を深くして帰ってきた。

翻って、悲しい記事。

先日、福島市議会は、大飯原発再稼働反対決議を17対19で否決したという(無記名投票)。
どういう政治的プレッシャーや思惑があったのか知らないが、福島市の議会は再稼働に慎重な意見を出すのが市民の意思として妥当だと思うけどねえ。
いや、そう単純に稼働反対とだけ言えばいいわけじゃないと私は思います。
思いますが、福島市議会の立場で再稼働賛成を頼まれてもいないのに(頼まれたのか?!)決議をするこたあねえだろうと思う。
見識を疑うねぇ。
福島からは疑念の声を上げて今後の最適解を探っていくのが「立場」にふさわしいバランスってものじゃないかしらん。

この調子だと、偉い人達はみんな言及をさけている東電福島第二原子力発電所の再稼働なんて話も、与太話としてではなく、もう少ししたら小出しにされてくるのではないか、と危惧を抱く。

「悪いことは言わないから再稼働は止めておけ」と思う。

原発事故一つ起これば、あの市場のような機能も、完全に失われてしまう。

まあ、本当に難しいんだけどね。
五所川原のねぶたを協賛によって支えているのが電源開発系(原発・再処理など)の企業だったり、青森も立派なねぶたを出していたり、宣伝費で協賛している。

そういう「お金」のサイクルで自然を危険にさらしてはいけない、と思うんだよ、素朴に。

技術屋さんだったら、自分の技術がかかわっていて、その結果セシウムをこんなまき散らし方してしまったら、ちょっとは考えると思うよ、普通。
いや、これも考えてはいるのかな……。会社の中では何も言わないのがお作法?

ばかいっちゃいけない。会社に勤めて社会のために働くっていうのは、カント的にいえば「私的」なことに過ぎない。
お祭りの協賛金だってそうだ。

公共的なるものと向き合うためには、そういう「権力関係」をいったん途中に吊っておいて考える必要がある。

思考や生活、流通の基盤となっている思想・哲学、つまりはいわば社会のオペレーションシステム(OS)の設計および設計思想・哲学を見直すことが必要だ。

公共的なるものに深く関わっていかなければ、電力の問題一つとっても解決の方向性自体が見えてこない。
そういう意味で、社会的制度設計とか、人々の生き方とか、ホラ話のような大きな規模で物事を考えるためにこそ、哲学が必要なんじゃないかな。

安全か危険か、とか、事故以前か以後か、とか、出来事レベルで物事を考えるのは端的につまらない。

ここに「ある」とか「生きる」とかいうところから話を始めていきたい。生活するってそういうことだもの。
市場の雰囲気は、忘れていたものを思い出させてくれる。