本を裁断して電子化し始めたのは、震災の影響だ。
こう書いて見ると
「震災の影響だ」
っていうのは実に便利なことばである(苦笑)。
「小人閑居」した結果のほとんどは、「震災の影響」で深く考えるようになった、という文脈で処理可能だからだ。
ま、「震災の影響」はまんざら嘘ではない。
考えの基盤=思考のOS(オペレーションシステム)=思考起動の前提となる「インフラ」的なるもの
がどうにも震災以前のものでは立ちゆかなくなった、という感覚はある。
震災があったから単純に何かが変わったとは思わない。
少なくても「思考」の道筋の立て方の根本が、外側の事件一つでそうそう変わるわけはない。
ただ、思考の「前提条件」は間違いなく同じではなくなった。
変わったのが単なる思考の「対象」・「要素」ではないところは注意しておきたい。
前提条件が変われば、もし思考のプロセスに変化はなくても、その過程を経て出てくる解は変わってくるだろう。
私の場合、それに父親の死と犬の死が加わって、自分の加齢意識と併せて、
「ご隠居準備条件」
が整ってきた、といえそうなのである。
その結果、
「日暮れて途遠し。道中重い葛籠を願わない」
ってことになる。隠居所の一間(ひとま)に入る本の量はざっと1000冊程度、と見た。
「本に囲まれた」感が欲しくて床から天井まで三方の壁を本で埋め尽くしても、2000冊ぐらいが無理のないところだろうが、そんな改装費も勿体ない。
だいたいそんな風じゃ危なくて寝起きもできやしないだろう。
隠居所条件に外れてしまう。
で、電子化の決断になるわけだが、その結果、本に対するフェティシズムがバーチャルな領域に離陸することになった。
「一冊も本を捨てられない」
から
「一冊残らず電子化して残したい」
へ。
何が変わって、何が変わらないのか、単純には言えない話になるわけです……。
さてその結果、1冊80円で書籍の電子化を代行するる自炊業者(今もあるのかな?一応ネットではヒットしますが)のバイトみたいに、せっせと休日(今も脇でスキャナが動いています……あ、紙が詰まった……)と平日の夜間、割と勤勉に古い本を持ち出しては
裁断→スキャナ→紙の廃棄→電子データの二重バックアップ
という作業を延々と繰り返している。
これは意外なことに(っていうか当たり前なのだけれど)、嘗て買った本を全量手にとって見直す(読み直す、とは行きませんが)作業にもなっていることに、今朝改めて気がついてびっくりした。
これは、かなり面白い作業です。
読んでいない小説、つまみ食いして放って置いた評論、買っただけの特集雑誌、読み終えた愛読書、なくしたと思っていた本などなど、偏った趣味・傾向の再確認も含めて、いろいろな再会・再確認・再発見が次々に押し寄せて、「隠居準備条件」を整える大きな手助けになりそうだ。
スキャナさえ動きつづけていれば、その脇で無駄なく「立ち読み」ならぬ「裁ちながら読み」ができる。
しばらくは物置の段ボールの山を崩していく作業で深い満足を得られそうだ。
しばらくは心配ないにしても、もし自前の本を全部切り裂き終えてしまったら、夜な夜な巷に出て新しい本を切り裂きたくなってしまう、なんて欲望に駆られやしないだろうか……
そんな風に考えてしまうほど、本の電子化は、茶碗洗いや洗濯と同じような「快楽」になりはじめている(笑)。
ま、自分のうちの洗濯が終わったからといって、他人の家の洗濯をしたくなったりはしないんだろうけど。
でも、他方、洗濯は死ぬまで繰り返されるけれど、本の「切り裂き」には数に限りがある。
同じようで実は違う快楽だしねぇ。
とりあえずは、この作業に飽きてしまう前に、できるかぎり物理的な本の占有容積を縮めておきたいものです。
こう書いて見ると
「震災の影響だ」
っていうのは実に便利なことばである(苦笑)。
「小人閑居」した結果のほとんどは、「震災の影響」で深く考えるようになった、という文脈で処理可能だからだ。
ま、「震災の影響」はまんざら嘘ではない。
考えの基盤=思考のOS(オペレーションシステム)=思考起動の前提となる「インフラ」的なるもの
がどうにも震災以前のものでは立ちゆかなくなった、という感覚はある。
震災があったから単純に何かが変わったとは思わない。
少なくても「思考」の道筋の立て方の根本が、外側の事件一つでそうそう変わるわけはない。
ただ、思考の「前提条件」は間違いなく同じではなくなった。
変わったのが単なる思考の「対象」・「要素」ではないところは注意しておきたい。
前提条件が変われば、もし思考のプロセスに変化はなくても、その過程を経て出てくる解は変わってくるだろう。
私の場合、それに父親の死と犬の死が加わって、自分の加齢意識と併せて、
「ご隠居準備条件」
が整ってきた、といえそうなのである。
その結果、
「日暮れて途遠し。道中重い葛籠を願わない」
ってことになる。隠居所の一間(ひとま)に入る本の量はざっと1000冊程度、と見た。
「本に囲まれた」感が欲しくて床から天井まで三方の壁を本で埋め尽くしても、2000冊ぐらいが無理のないところだろうが、そんな改装費も勿体ない。
だいたいそんな風じゃ危なくて寝起きもできやしないだろう。
隠居所条件に外れてしまう。
で、電子化の決断になるわけだが、その結果、本に対するフェティシズムがバーチャルな領域に離陸することになった。
「一冊も本を捨てられない」
から
「一冊残らず電子化して残したい」
へ。
何が変わって、何が変わらないのか、単純には言えない話になるわけです……。
さてその結果、1冊80円で書籍の電子化を代行するる自炊業者(今もあるのかな?一応ネットではヒットしますが)のバイトみたいに、せっせと休日(今も脇でスキャナが動いています……あ、紙が詰まった……)と平日の夜間、割と勤勉に古い本を持ち出しては
裁断→スキャナ→紙の廃棄→電子データの二重バックアップ
という作業を延々と繰り返している。
これは意外なことに(っていうか当たり前なのだけれど)、嘗て買った本を全量手にとって見直す(読み直す、とは行きませんが)作業にもなっていることに、今朝改めて気がついてびっくりした。
これは、かなり面白い作業です。
読んでいない小説、つまみ食いして放って置いた評論、買っただけの特集雑誌、読み終えた愛読書、なくしたと思っていた本などなど、偏った趣味・傾向の再確認も含めて、いろいろな再会・再確認・再発見が次々に押し寄せて、「隠居準備条件」を整える大きな手助けになりそうだ。
スキャナさえ動きつづけていれば、その脇で無駄なく「立ち読み」ならぬ「裁ちながら読み」ができる。
しばらくは物置の段ボールの山を崩していく作業で深い満足を得られそうだ。
しばらくは心配ないにしても、もし自前の本を全部切り裂き終えてしまったら、夜な夜な巷に出て新しい本を切り裂きたくなってしまう、なんて欲望に駆られやしないだろうか……
そんな風に考えてしまうほど、本の電子化は、茶碗洗いや洗濯と同じような「快楽」になりはじめている(笑)。
ま、自分のうちの洗濯が終わったからといって、他人の家の洗濯をしたくなったりはしないんだろうけど。
でも、他方、洗濯は死ぬまで繰り返されるけれど、本の「切り裂き」には数に限りがある。
同じようで実は違う快楽だしねぇ。
とりあえずは、この作業に飽きてしまう前に、できるかぎり物理的な本の占有容積を縮めておきたいものです。