龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

400冊裁断した。

2012年07月25日 15時50分26秒 | iPhone&iPad2
書籍の電子化が400冊になった。
一週間100冊のペース。
ということは一年で5,000冊だ。

物置の床を空けるためにかける労力としてはちょっと大変かも(苦笑)。

でも、全部を一度に捨てる訳にもいかず、かと言って全部をこのままにしておくのも限界。
スキャナーと裁断機購入というオモチャ効果で5,000冊処理できればそれはそれで「現実的」かもしれない、とも思う。

まあ、5,000冊が実現可能かどうかは措くとしても、1,000冊は現実味を帯びてきた。

ザックリと本をピックアップしつつ、捨てられる(もしくは売りに出せる)本も多少分類していければよい。
かつて読んだ本、読もうとした本と向き合うのは、懐旧的な意味合いばかりではなく、面白いものだ。

今は開高健の箱にさしかかっている。
エッセイは読み返さなくてもいいが、釣りの本はむしろまた読みたいと思う。
ベトナムの「暑さ」も、もう少し暇になったら読み直そう。
彼の女性像には今は興味がなくなったけれど、それでもそこにただよう「退屈感」は、もうちょっとみておいてもいい。

もうすぐ蓮實重彦の箱になる。
30年ぶりの蓮實はどうだろう。小林秀雄全集は裁断できないけれど、蓮實重彦の本は「切れ」る。
石川淳の全集はふたつあるけれど、古い方を裁断するかどうか迷っている。

今日び、古い個人全集なんて(選集がでたら尚更)誰も買わないもんねぇ。

太田蜀山人の全集は「切れ」ないけれど、三田村鳶魚は「切れ」る。
鴎外・漱石は、青空文庫もあるので切らなくても読める。
絶版になったSF文庫とかは、価値の問題ではなく電子化して手元に置き、生きているうちに読もうと思う。

買い置きして読まなかった推理小説は、果たして今後手に取ることがあるのだろうか。
暇つぶしが必要ならブックオフでまた100円で買えばいいのだ。
でも、なあ……

ともあれ、好きな本を手近に置いてあれこれ考えながら時間を過ごすのは、何のたしにもならないけれどすこぶるたのしいものである。


同じ時代を生きるという意味、もしくは違う時代と出会うという意味

2012年07月25日 03時19分48秒 | 大震災の中で
ここ数年、スピノザのテキストを身近に置いている。

ただし、読んでいるというのは躊躇われる。
ページを繰っても「読めない」ものは読めない。

書簡集や『国家論』は読めるが、『デカルトの哲学原理』や『エチカ』は正直歯が立たずにいた。
今年度、『スピノザ入門』の講座を受講して、ようやく『デカルトの哲学原理』の輪郭がぼんやりと理解できはじめたところ。

そして今日書きたいのは、ホッブズのことだ。
今、仕事が信じられないほど忙しいのに
ホッブズ『自然法および国家法の原理』
を読みはじめた。

先生にスピノザとデカルトを並べて講義してもらった、自分なりの応用編、ということになるだろうか。

これがなかなか面白い。
「分かる」
ということの意味が変わってくるのが興味深いのだ。
何かを「知る」ということの意味を、身体的に経験しなおしている、といえばいいだろうか。

最初、スピノザのデカルト解説である『デカルトの哲学原理』をよんでいるときには、何がなんだか分からなかった。
つまり、デカルトが言っているのか、スピノザが言っているのか、スピノザのデカルト理解なのか、はたまたスピノザがデカルトを「書き換え」ているのか、何がなにやらさっぱり分からないのだ。

加えて冒頭から神の存在証明である。

面白すぎるのに分からなすぎる……そんな状態だった。
スピノザに先行する哲学者として大きな存在だったデカルトだから、少なからずスピノザに「影響」を与えたはずだとか、スピノザによるデカルトの「乗り越え」が存在するはずだ、とか、そういう「ストーリー」を前提にして読みたくなるのは、正直無理のないところだろう。

でも、そういう「物語」だけでは、テキストは読みきれない。

無論「今」それを読むことは、この読まれている「今」において理解されるしかない。
私(たち)のような「素人」が古典を読む、ということは、図々しくまた乱暴にも、古典を「今」において拾い読みする(ということは多くのモノを捨てて省みない)ことになる。それは不可避だ。

でも、それにしても、そのテキストが、現場でどう書かれていたのかを知っておくことは、「時代背景を踏まえた正確な理解」を求める研究ではなくても、私達の読みを「豊か」にもし、私達が「今」において考える上でも有益だ。

古典を「素人」が読むときのおもしろさと難しさはそこにもある。
性急に「正解」を求めていくとしんどい。

場合によっては、
結局時代を超え得るのは「天才」だけで、あとの凡人は、埃にまみれて過去をちまちま漁る「学者」になるか、「今」に併せて「古典」を単なる材料として切り刻むかしかないよね……

っていうあきらめみたいなものが漂いかねない。

でも、今読み始めている
ホッブズ『哲学原論・自然法及び国家法の原理』伊藤宏之・渡部秀和訳
は、そういう不安を過度に感じさせない。

安心して読める。
それは畠中尚志のスピノザの訳にも感じられることだ。
17世紀の思想家のテキストは、それ以前のテキストよりも、それ以後のテキストよりも読みやすいってことなんだろうか?
自分の問題意識が(ということはこの本の訳者の辞にもあるように21世紀の問題意識も)、不可避的に17世紀に向かっている、ということなのだろうか。

よく分からない。

しかしこの疑問というか感触は、山内志朗『存在の一義性を求めて』を読んでいても感じたことである。

読む行為が、自分が読む、というところから少しだけ離れる感覚、とでもいえばいいだろうか。

古典を読む、ということはつまり、その「差異感」というか「離れ感」というか、そういうものにいったん読書主体を「泳がせる」感覚に近いのかもしれない。

翻訳にその志があるかどうか。どの分からない「分からない感じ」を言葉に載せて伝えるか、といってもいい。
翻訳は当然、「読めない」ものを「読める」ようにするものだろう。

同時に、テキストを読む行為は、「謎」や「問い」・「ズレ」と豊かに出会うその「場所」を通り抜けていくことでもある。

私達は古典を読むとき、簡単に「時代を超え」て出会う、とも感じるし、同時にそこに「今」の課題を見いだしもする。

そうか。

古典の他者性をどうテキスト読解において把持しつつ読むか、という課題もそこにある、ということかもしれない。

となると、翻訳がいい、というのはどういうことなのだろう、とも考えさせられる。

極めてクリアで腑に落ちるのに、「分かる」とは限らない、この感じ。
老後の楽しみの本質=近傍に、そろそろとにじり寄っている。

その楽しみにふさわしいテキストに出会えていることに、感謝する以外ない。