昨日職場で、OBの経済学者(中央大学准教授)武田勝さんの講演を聴いた。
いろいろ興味深い話はあったが、
「学問(就中経済学は、かな)とは「潜在性」と向き合うものだ」
という言葉がいちばん印象に残った。
先週おなじみ國分功一郎先生のスピノザ講座で、スピノザがデカルトのテキストを読むときに起こっている事件についても
「デカルト哲学に潜在性している命題、潜在的命題を明らかにすることによって、顕在化している体型を破壊する力を持つ」
と解説していたことと響き合ったのだ。
可能的命題についてなら、二十歳のときに石川淳から教わった。
差異についてなら、その後のポストモダンで聞きかじった。
現象や限界についてなら、ヴィトゲンシュタインやらカントやらレヴィナスやらで見知ったし、隠れているものを暴く物語だったら、文学と付き合っていれば自然と理解もすることになる。
そうではなくて、(テキストクリティークとしての)学問について考えたとき、この「潜在性」は重要なポイントだと思った。
可能的命題を線状的に追求していく「賢さ」ではなく、潜在的命題がどこからか分からないのに突如やってくるのを「待つ」能力。
そしてそれと出会ったら、獲物を狩る動物のように逃さず捉える力。
「潜在性」
に瞳を凝らす、というのは、そういう比喩がふさわしいように思う。
もしかすると、積み重ねられた「当たり前」の先に論理を伸ばしていく側からみると、荒唐無稽なOSを自分で記述し、それを走らせる中で箱庭を構成するように見えてしまったりもするかもしれない。
単にインフラを当たり前と思うのじゃなくて、確かにインフラは必要だけど、それがどんな仕組みに支えられているのかを探っていくと、別のありようも見えてきてしまったりする、ということだろう。
震災以後の暮らしの中で、私たちはインストゥルメンタルな世界像ばかり追いかけてはいられない、と実感している。
「潜在性」
について、もう少し肉付けしていかなくちゃ。
いろいろ興味深い話はあったが、
「学問(就中経済学は、かな)とは「潜在性」と向き合うものだ」
という言葉がいちばん印象に残った。
先週おなじみ國分功一郎先生のスピノザ講座で、スピノザがデカルトのテキストを読むときに起こっている事件についても
「デカルト哲学に潜在性している命題、潜在的命題を明らかにすることによって、顕在化している体型を破壊する力を持つ」
と解説していたことと響き合ったのだ。
可能的命題についてなら、二十歳のときに石川淳から教わった。
差異についてなら、その後のポストモダンで聞きかじった。
現象や限界についてなら、ヴィトゲンシュタインやらカントやらレヴィナスやらで見知ったし、隠れているものを暴く物語だったら、文学と付き合っていれば自然と理解もすることになる。
そうではなくて、(テキストクリティークとしての)学問について考えたとき、この「潜在性」は重要なポイントだと思った。
可能的命題を線状的に追求していく「賢さ」ではなく、潜在的命題がどこからか分からないのに突如やってくるのを「待つ」能力。
そしてそれと出会ったら、獲物を狩る動物のように逃さず捉える力。
「潜在性」
に瞳を凝らす、というのは、そういう比喩がふさわしいように思う。
もしかすると、積み重ねられた「当たり前」の先に論理を伸ばしていく側からみると、荒唐無稽なOSを自分で記述し、それを走らせる中で箱庭を構成するように見えてしまったりもするかもしれない。
単にインフラを当たり前と思うのじゃなくて、確かにインフラは必要だけど、それがどんな仕組みに支えられているのかを探っていくと、別のありようも見えてきてしまったりする、ということだろう。
震災以後の暮らしの中で、私たちはインストゥルメンタルな世界像ばかり追いかけてはいられない、と実感している。
「潜在性」
について、もう少し肉付けしていかなくちゃ。