龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ホッブズ『哲学原論』渡部秀和/伊藤宏之訳の凄さ(2)

2012年07月29日 18時59分12秒 | 大震災の中で
翻訳のクリアさ、ということについてもう少し書いておく。

言い古された議論の方向に二つある。

一つは、翻訳は不可能だっていう話。
もう一つは透明なのがいいって方向性。

ただしここで考えるのは、哲学的テキストの場合に限る。

日常の会話レベルで言えばもはや多国語同時翻訳が携帯レベルで可能になっているから、問題ではなくなりつつあるだろう。

テツガクテキテキストとは、端的に言って、何かを説明したり証明したり啓蒙したりする種類のものではなく、むしろその逆に、自明性が高い、と無前提に前提されていることに疑義を提示し、答えがないどころか、問い自体が成立していない段階において、前提と答えを一挙に提示しようとする
「読めないテキスト」
のことだ、と取りあえず考えておく。

自慢じゃないが日本語しか操れない(それだって怪しいけれど)素人が、哲学的な思考をその本態とする本を翻訳で読もうとするときの、あのありえない感じを、私はもう何十年となく感じ続けてきた。

最初はこっちが頭が悪いんだろう、知識がないからだろう、と思う。

初学者なんだから当然だ。

それで「早わかり」の本を別途購入し、その著者の別の本を、最初の本が分からないまま(いや分からないからこそやむを得ず)渡り歩いて読んでいくことになる。

加えてテクニカルタームというか、業界用語がわからない。
時代が違うと字面は同じでも意味するところが違うことがあるぐらいは分かるけれど、そのあたり訳者がどこまで包括的に「理解して翻訳」してくれているのかも分からない。

もう、翻訳で哲学書を読むなんていうのは徒労なんじゃないか、としまいには思うようになるわけだ。

ま、それは多分一つの正解なのだろう。

そうやって、専門家の世界を垣間見ようとする人は、ドイツ語だったりフランス語だったり英語だったり、ラテン語だったりを学んでいくことになる。

哲学は語学かっ!?
半ばはそうともいえる。

でも、そこには陥穽が口を開けている。

素人だって本気で読みたかったら原典に当たる努力次第ぐらいはしてもいい。
それはそうだ。
早わかりばかりの人生は、暇つぶしとしても今ひとつ盛り上がらない=つまらないものね。

だが、では翻訳はデキノワルイ啓蒙のお先棒にすぎないのだろうか。
そうではあるまい。

自分がネイティブとして使っている言語に、その専門のテキストをきちんと翻訳して自国民にそれを提示し、批評を請うのは、プロパーとしての最低限の義務だろう。

そこで行われる実践に要求されるのは、単に右の言語から左の言語に同時翻訳する携帯の便利さのレベルではない。

自分がその著者の哲学と向き合い、自分の言葉でどれだけ突き詰めて向き合えるか、が問われている。

そういう意味で、今回のホッブズのこの翻訳が本邦初訳であるのは、渡部/伊藤両氏の大きな手柄であることは疑えないとして、ちょっと嫌味をいわせてもらうなら、在野の小学校教師(決して差別的な意味ではありません)の努力を待たねばならなかった日本の社会思想=哲学の人たちの怠惰ではないか、という疑いが拭えない。

力のあるものは、その力能を自分の業績のために使うべきではあるまい。
ましてや業界ギルドの都合で力の発揮される方向や人材が左右されるべき時代でもないだろう。

問題を元に戻せば、哲学書の翻訳は難渋を極める仕事であろうこと、想像に難くはない。

文献を渉猟して、関心ある主題を解釈する方がどれだけ楽か。

でも、実は、その哲学と向き合うには、まずそのテキストと向き合わねばなるまい。

そして、ネイティブではない<ラテン語とかネイティブいないしね(笑)>者は、自分の言葉でそれを捉えねば読む意義はあるまい。
たとえ啓蒙的な意図で編まれた翻訳作業であっても、その読むことそれ自体が、哲学的営為に他ならないのではないか。

そういう覚悟を持って、10年の長い時間このホッブズのテキストと向き合いつつこの仕事を続けて完成した訳者の哲学的営為に十分な尊敬が払われるべきだし、今後ホッブズの研究者は、謙虚にこの営みを受け止めて、きちんと批判するところから、豊かな日本におけるホッブズ研究を生み出していって欲しい。

私にはホッブズを研究している時間はないから(笑)。

でも、この著作を無視してはスピノザだって「読めない」ということぐらい、私のような素人だって分かる。

テキストと格闘しているのか?!
全ての読みは、そういう翻訳の困難を抱えているのでは?

そういう根本的な問いをこの本は私に突きつけてくる。

やる気のある人、腕に覚えのある人(どんな人だ?)は、二万円払ってこの本を目の前においておくといい。

それは何も17世紀の哲学や社会思想に関心があるかどうか、現代の社会思想を勉強するかどうか、の問題じゃないと思うよ。



ホッブズ『哲学原論』渡部秀和/伊藤宏之訳の凄さ。

2012年07月29日 15時02分59秒 | インポート
週末、
『哲学原論・自然法及び国家法の原理』柏書房刊
(一冊本20,000円)



の訳者の一人と同席できる機会があった。友人の友人ということで、無理を言って一緒にお酒を飲ませてもらったのだ(私はとんぼ返りだったのでノンアルコールビールでしたが)。

実に面白かった。

17世紀半ばイギリスで思索と著述をしていたホッブズと、オランダで哲学していたスピノザ。
比較して話をしているだけで、いろいろな面白い課題・論点が次々と浮かび上がってくる。

この著作、訳業それ自体でも大きな価値があるのだけれど、仕事が実にクリアであるという点が、特筆に値する。

それは例えばこういうことだ。
中世のいわゆる「神学論争」の面倒くささ、不可解さの感触をビビッドに伝えてくれる山内志朗の『存在の一義性を求めて』なんかも同じ。

ホッブズの哲学の前提にある人間観、世界観が、この著作ではおそらくトータルな形では日本で初めて示されたことになるのだろう。
その訳のお仕事のクリアさは、今後ホッブズに関心のあるプロパーばかりでなく、一般の読者にとっても、大きな価値を持ってくるだろうと考えられる。

大体この厚さだ。そう簡単には読了できまい。
そして、これが本邦初訳だということは、哲学プロパーの怠慢をこそ意味しているわけだから、学者たちの評価だって高がしれているだろう。

手前味噌になるが、私のように17世紀の別の哲学者に関心があるような種類の周辺読者にとって、あるいは改めて今の日本において権力論、人間論、広い意味での社会哲学を組み立て直そうと志す者達にとってこそ、福音になるはずだ。

10年、20年たって真価が理解される仕事になるかもしれない。

それがこの福島の地から、この時期に(実際の訳業は10年以上の粘り強い営為から生み出されたものですが)世に出たことの意議も大きい。

誰にでも買って読め、と勧められる「物体」ではありませんが、図書館には入れてもらっておくべき一冊です。
内容については、じっくり読みながら、メディア日記にぼちぼち感想を書いていきます。
そちらも読んでいただければ幸いです。

ソフトバンクの 録画対応デジタルTVチューナー(2)

2012年07月29日 14時23分39秒 | iPhone&iPad2
ソフトバンクの 録画対応デジタルTVチューナー(2)
休日なので丸一日家にいて、本を読みながら本の裁断を続けている。
で、このipadで見るTVチューナーはメチャクチャ利用価値があることにジワジワ気づきつつある。

もちろん風呂でも(カバーは要るが)台所で食事を作りながらでも、ごろ寝しながらでも、テレビが見られるのは助かる。便利だ。

でも、そんなことなら携帯ワンセグでもできたし、小型TVなんて昔からあった。

何にも革命的なことは起こっていないといえば起こっていない。
いまさらテレビを家中で見られるからでなんなんだ、である。携帯だったらipadよりよほど軽い。

でも、テレビもwebブラウザも、私たちの生活に標準装着された世界の覗き穴だ。
だとすれば、携帯じゃあ小さすぎる。パソコンじゃ面倒すぎる。テレビでは重すぎる。

ちょうどライラの冒険シリーズの第2巻で出てきた神秘の短剣(空間を切り裂くと、もう一つの平行世界への裂け目ができる。ナルニアにいける洋服ダンスの携帯版です)のようなもので、それにはある程度の大きさが必要。

タブレットはその絶妙なバランスだと思う。

つまり、ことここにいたって、本とwebとTVが、同一メディアになった、ということです。
タブレットはあくまで「短剣」にすぎない。

向こう側のコンテンツに、ここから自在に行き来できるのが、凄い。

TVの大画面とか、携帯のコンパクトさとか、PCのキーボードとかは、たしかにタブレットより便利だ。

でも、適切な平行世界の覗き穴のサイズは、脳味噌的にこの程度のサイズで十分だし、逆にこの程度のサイズは必要だったってことでしょう。

2012年における平行世界の覗き穴の最適解。
(それは本であっても、映画であっても、ホームページであっても、YouTubeであっても、TVであってもいい)

それがこのipadだったのですね。

だからこそ、Googleもマイクロソフトもタブレットを次々に投入せざるを得ない。

正直、文字を入力するにはBluetoothキーボードが必須。携帯するには正直重いし大きい。映画を大迫力で見ようと思ったら物足りないのだ。

むしろ、このタブレットは、脳味噌に情報を与えるのに最適なサイズ(本のサイズは、教会の図書館に収められていた時代から考えれば、グッとコンパクトになり、世界中で共通している。あの本の見開きサイズが、これ、なんだよね)だったということでしょう。

本を裁断していて、物理的なサイズの共通性にふと、思い当たりました。

速度と画面はもう十分。
iPadの課題は値段と重さだね。

この種の端末は、絶対貧乏でもお金持ちでも持てるべきだ。
お金に換算する必要のない必須メディアです。