翻訳のクリアさ、ということについてもう少し書いておく。
言い古された議論の方向に二つある。
一つは、翻訳は不可能だっていう話。
もう一つは透明なのがいいって方向性。
ただしここで考えるのは、哲学的テキストの場合に限る。
日常の会話レベルで言えばもはや多国語同時翻訳が携帯レベルで可能になっているから、問題ではなくなりつつあるだろう。
テツガクテキテキストとは、端的に言って、何かを説明したり証明したり啓蒙したりする種類のものではなく、むしろその逆に、自明性が高い、と無前提に前提されていることに疑義を提示し、答えがないどころか、問い自体が成立していない段階において、前提と答えを一挙に提示しようとする
「読めないテキスト」
のことだ、と取りあえず考えておく。
自慢じゃないが日本語しか操れない(それだって怪しいけれど)素人が、哲学的な思考をその本態とする本を翻訳で読もうとするときの、あのありえない感じを、私はもう何十年となく感じ続けてきた。
最初はこっちが頭が悪いんだろう、知識がないからだろう、と思う。
初学者なんだから当然だ。
それで「早わかり」の本を別途購入し、その著者の別の本を、最初の本が分からないまま(いや分からないからこそやむを得ず)渡り歩いて読んでいくことになる。
加えてテクニカルタームというか、業界用語がわからない。
時代が違うと字面は同じでも意味するところが違うことがあるぐらいは分かるけれど、そのあたり訳者がどこまで包括的に「理解して翻訳」してくれているのかも分からない。
もう、翻訳で哲学書を読むなんていうのは徒労なんじゃないか、としまいには思うようになるわけだ。
ま、それは多分一つの正解なのだろう。
そうやって、専門家の世界を垣間見ようとする人は、ドイツ語だったりフランス語だったり英語だったり、ラテン語だったりを学んでいくことになる。
哲学は語学かっ!?
半ばはそうともいえる。
でも、そこには陥穽が口を開けている。
素人だって本気で読みたかったら原典に当たる努力次第ぐらいはしてもいい。
それはそうだ。
早わかりばかりの人生は、暇つぶしとしても今ひとつ盛り上がらない=つまらないものね。
だが、では翻訳はデキノワルイ啓蒙のお先棒にすぎないのだろうか。
そうではあるまい。
自分がネイティブとして使っている言語に、その専門のテキストをきちんと翻訳して自国民にそれを提示し、批評を請うのは、プロパーとしての最低限の義務だろう。
そこで行われる実践に要求されるのは、単に右の言語から左の言語に同時翻訳する携帯の便利さのレベルではない。
自分がその著者の哲学と向き合い、自分の言葉でどれだけ突き詰めて向き合えるか、が問われている。
そういう意味で、今回のホッブズのこの翻訳が本邦初訳であるのは、渡部/伊藤両氏の大きな手柄であることは疑えないとして、ちょっと嫌味をいわせてもらうなら、在野の小学校教師(決して差別的な意味ではありません)の努力を待たねばならなかった日本の社会思想=哲学の人たちの怠惰ではないか、という疑いが拭えない。
力のあるものは、その力能を自分の業績のために使うべきではあるまい。
ましてや業界ギルドの都合で力の発揮される方向や人材が左右されるべき時代でもないだろう。
問題を元に戻せば、哲学書の翻訳は難渋を極める仕事であろうこと、想像に難くはない。
文献を渉猟して、関心ある主題を解釈する方がどれだけ楽か。
でも、実は、その哲学と向き合うには、まずそのテキストと向き合わねばなるまい。
そして、ネイティブではない<ラテン語とかネイティブいないしね(笑)>者は、自分の言葉でそれを捉えねば読む意義はあるまい。
たとえ啓蒙的な意図で編まれた翻訳作業であっても、その読むことそれ自体が、哲学的営為に他ならないのではないか。
そういう覚悟を持って、10年の長い時間このホッブズのテキストと向き合いつつこの仕事を続けて完成した訳者の哲学的営為に十分な尊敬が払われるべきだし、今後ホッブズの研究者は、謙虚にこの営みを受け止めて、きちんと批判するところから、豊かな日本におけるホッブズ研究を生み出していって欲しい。
私にはホッブズを研究している時間はないから(笑)。
でも、この著作を無視してはスピノザだって「読めない」ということぐらい、私のような素人だって分かる。
テキストと格闘しているのか?!
全ての読みは、そういう翻訳の困難を抱えているのでは?
そういう根本的な問いをこの本は私に突きつけてくる。
やる気のある人、腕に覚えのある人(どんな人だ?)は、二万円払ってこの本を目の前においておくといい。
それは何も17世紀の哲学や社会思想に関心があるかどうか、現代の社会思想を勉強するかどうか、の問題じゃないと思うよ。
言い古された議論の方向に二つある。
一つは、翻訳は不可能だっていう話。
もう一つは透明なのがいいって方向性。
ただしここで考えるのは、哲学的テキストの場合に限る。
日常の会話レベルで言えばもはや多国語同時翻訳が携帯レベルで可能になっているから、問題ではなくなりつつあるだろう。
テツガクテキテキストとは、端的に言って、何かを説明したり証明したり啓蒙したりする種類のものではなく、むしろその逆に、自明性が高い、と無前提に前提されていることに疑義を提示し、答えがないどころか、問い自体が成立していない段階において、前提と答えを一挙に提示しようとする
「読めないテキスト」
のことだ、と取りあえず考えておく。
自慢じゃないが日本語しか操れない(それだって怪しいけれど)素人が、哲学的な思考をその本態とする本を翻訳で読もうとするときの、あのありえない感じを、私はもう何十年となく感じ続けてきた。
最初はこっちが頭が悪いんだろう、知識がないからだろう、と思う。
初学者なんだから当然だ。
それで「早わかり」の本を別途購入し、その著者の別の本を、最初の本が分からないまま(いや分からないからこそやむを得ず)渡り歩いて読んでいくことになる。
加えてテクニカルタームというか、業界用語がわからない。
時代が違うと字面は同じでも意味するところが違うことがあるぐらいは分かるけれど、そのあたり訳者がどこまで包括的に「理解して翻訳」してくれているのかも分からない。
もう、翻訳で哲学書を読むなんていうのは徒労なんじゃないか、としまいには思うようになるわけだ。
ま、それは多分一つの正解なのだろう。
そうやって、専門家の世界を垣間見ようとする人は、ドイツ語だったりフランス語だったり英語だったり、ラテン語だったりを学んでいくことになる。
哲学は語学かっ!?
半ばはそうともいえる。
でも、そこには陥穽が口を開けている。
素人だって本気で読みたかったら原典に当たる努力次第ぐらいはしてもいい。
それはそうだ。
早わかりばかりの人生は、暇つぶしとしても今ひとつ盛り上がらない=つまらないものね。
だが、では翻訳はデキノワルイ啓蒙のお先棒にすぎないのだろうか。
そうではあるまい。
自分がネイティブとして使っている言語に、その専門のテキストをきちんと翻訳して自国民にそれを提示し、批評を請うのは、プロパーとしての最低限の義務だろう。
そこで行われる実践に要求されるのは、単に右の言語から左の言語に同時翻訳する携帯の便利さのレベルではない。
自分がその著者の哲学と向き合い、自分の言葉でどれだけ突き詰めて向き合えるか、が問われている。
そういう意味で、今回のホッブズのこの翻訳が本邦初訳であるのは、渡部/伊藤両氏の大きな手柄であることは疑えないとして、ちょっと嫌味をいわせてもらうなら、在野の小学校教師(決して差別的な意味ではありません)の努力を待たねばならなかった日本の社会思想=哲学の人たちの怠惰ではないか、という疑いが拭えない。
力のあるものは、その力能を自分の業績のために使うべきではあるまい。
ましてや業界ギルドの都合で力の発揮される方向や人材が左右されるべき時代でもないだろう。
問題を元に戻せば、哲学書の翻訳は難渋を極める仕事であろうこと、想像に難くはない。
文献を渉猟して、関心ある主題を解釈する方がどれだけ楽か。
でも、実は、その哲学と向き合うには、まずそのテキストと向き合わねばなるまい。
そして、ネイティブではない<ラテン語とかネイティブいないしね(笑)>者は、自分の言葉でそれを捉えねば読む意義はあるまい。
たとえ啓蒙的な意図で編まれた翻訳作業であっても、その読むことそれ自体が、哲学的営為に他ならないのではないか。
そういう覚悟を持って、10年の長い時間このホッブズのテキストと向き合いつつこの仕事を続けて完成した訳者の哲学的営為に十分な尊敬が払われるべきだし、今後ホッブズの研究者は、謙虚にこの営みを受け止めて、きちんと批判するところから、豊かな日本におけるホッブズ研究を生み出していって欲しい。
私にはホッブズを研究している時間はないから(笑)。
でも、この著作を無視してはスピノザだって「読めない」ということぐらい、私のような素人だって分かる。
テキストと格闘しているのか?!
全ての読みは、そういう翻訳の困難を抱えているのでは?
そういう根本的な問いをこの本は私に突きつけてくる。
やる気のある人、腕に覚えのある人(どんな人だ?)は、二万円払ってこの本を目の前においておくといい。
それは何も17世紀の哲学や社会思想に関心があるかどうか、現代の社会思想を勉強するかどうか、の問題じゃないと思うよ。