龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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相対的貧困層のこと(オリンピックの最中に)

2012年07月31日 03時17分14秒 | 大震災の中で
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JMM [Japan Mail Media] 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』 

今日届いたテーマは「貧困」について、だった。ちょっと考えてみたいので、

そこに投稿されていた信州大学の真壁教授のコメントを引用する。
(引用開始)
貧困に関する定義は、それぞれに国や機関によって色々なものがあります。一般的
に使われる貧困層についての定義は二つあると考えます。一つは絶対的貧困です。こ
の定義は、1970年代に世界銀行が使い始めたと言われています。2000年代に
入っての定義では、年収370ドル(約29000円)以下、あるいは一日1ドル
(約78円)以下という絶対的な水準を設定し、その水準以下で生活している人を貧
困と定義します。

 もう一つは相対貧困という定義です。この定義は、当該国の国民全体の中での相対
的な評価によって貧困の概念を決めます。ですから、当該国の所得分布の中で、どこ
に位置するかによって貧困の状態を定義します。具体的には、その国の全国民の所得
から税金や社会保障費などを差し引いた可処分所得の分布を作り、その中間値の半分
に満たない人たちを貧困と考えます。

 厚生労働省が発表した「平成22年国民生活基礎調査の概況」によると、平成21
年の国民一人あたりの名目ベースの年収は250万円となっています。そのため同年
を例にとると、わがわが国では年収が125万円に満たない人が相対的な貧困という
ことになります。
(引用終了)

この定義によれば、ずっと指摘され続けていて根本的な解決をみていない「パート社員」の収入は、そのほとんどが相対的貧困の枠内に収まることになる。

ってことは、日本の子育ての中心的役割を担ってきた女性の再就職は、貧困層の収入しか得られないことが当たり前の状態で推移してきているってことだ。

世帯収入を考えるとことは単純じゃない、とかつては考えていたこともある。
でも、それは事実上男の収入に頼れっていう社会的シグナルに過ぎない。

若い男性に非正規雇用が増えたとたん、問題が顕在化しただけで、非正規雇用の問題はずっと昔から女性問題だったのだ、と上野千鶴子がとうに指摘している。

そういうことだ。

現在、自分の子供も、この貧困層のの中にいる。

無論、親である私たちの収入を「世帯」として括ってしまえば、彼の収入が「貧困層」にあることは当面、致命的な問題にはならない。
だが、私たちの現役収入が終わったとき、働かない老人の方が年収125万の貧困層にはならず、働いている若者(たとえば息子達)が貧困層になるという現実が我が家にもやってくる。

(年金開始も遠くなるから、間に無職が入ればそういう逆転は遠ざかりますが<苦笑>)


結局若者の層と、いったん仕事を止めて子育てに入った女性層が、この貧困層ど真ん中になる。

子育てシングルマザー(年齢不問)と、子育てシングルファザー(若い人中心)が、「貧困」な国=日本ということになろうか。

この状態一つとっても、日本は黄昏の国を生きていることが分かる。

「働かない老人の年金を削って、若者に収入を与えろ」
って単純な話じゃないけどね。
もうすぐ年金生活者になる自分の立場を考えたら、口を拭っていた方がいいのかもしれない。

でも、これはどう考えても「まとも」じゃない。

この「黄昏」感を醸し出す経済の現況は、単に「景気」の問題ではないだろう。

アメリカの相対貧困率が17%、日本の相対貧困率が14%と、先進国の中ではかなり高い。

貧富の差が大きくなりつつある現実は、収入だけじゃなくて、貯蓄とか資産とか、経済・社会システムが全として若者と女性を幾重にも「攻撃」しているように思われてならない。

原発反対の声を上げるように、社会的な「声」を上げて、変更可能なシステムの改変(それこそ政治が担うべき課題だろう)を求めていく必要がある。

結果の平等自体が必要なわけじゃない。

結果の偏りが、あきらかに社会的システムによる偏った結果としての不平等の再生産だから問題なのだ。

原発立地の問題も、米軍基地立地の問題も、実は誰が「損をこかせられるか」という「二流地域」探しの様相がある。

それを「国内植民地」といった概念で開沼博は示した。

同様に、国民において「損を引き受けさせられる」べき「二流市民」探しが放っておけば必ず起こる。
それが若者だったり、働く女性だったり、十分な年金のない国民年金オンリーの老人層だったり。

微細なところから大きなところまで「権力関係」が張り巡らされているのが近代以降のこの空間だとして、その歪みを引き受けるのは常に、政治的に立場の弱い者になる。

デモをやってる暇もない、ような人々。

でも、意思表示をすべき時が再びやってきつつある、とも思う。
かつての労働運動や争議とは違う形で。

世代間闘争(年寄りの年金を奪って若者にばらまけ的な)の問題(だけ)でもあるまい。
貧乏人の奪い合いほど、誰かを利するものはないわけだし。

今、宗教改革の辺りの社会思想の入門書をパラパラめくっている。
ルターもカルヴァンもクロムウェルも、教皇権力と王権、農民や商工業者、紳士階級、貴族など、さまざまな立場の政治や暴力や権力が渦巻く中で、生きていたのが分かる。

熱い。野蛮だ。
内戦や抗争で互いに全面的な血をみる闘争、から遠ざかって久しい立場から見ると、凄いとしかいいようがない。
でもまあ、日本の戦国時代あたりだから、そんなものなのか。

17世紀は、そういうすったもんだの末に神様が後景に退いたころ、即ち言ってみれば、宇宙の晴れ上がりならぬ「社会(民主的な)社会の晴れ上がり」の時期にあたる。

21世紀初頭の「今」も、欧米近代優位の「霧」が晴れ上がりつつある、と見てとれないこともない。
それはもう、社会のOS切り替えっていう大きな波として捉えるべきだ。

とすればバージョンアップで再加速を目指すのか、別のOSに乗り換えるのか。
私たちは社会的なOSを一人で創ることはできない。

でも、どのOSで自分を走らせるか、どんな「社会基盤」とか「ルール」で自分を「走らせる」か、は選べないこともない。

現状最適化を目指して「就活」や「自己啓発」をすることも「あり」だが、そこから降りてまったり「デモ」するのも「あり」だろう。

オリンピックの金メダル報道を観ていて、そんなことを思った。

女子柔道の57キロ級、眼光鋭い加藤さんが金メダルを取ったそうだ。
おめでとうございます。ロンドン五輪では初金メダルですね。

でも、金メダル取ろうが初戦敗退だろうが、大きなお世話なんだけどね。彼らは皆日本のトップアスリートだし、世界のトップ「クラス」アスリートであることも確かなんだし。

素晴らしい身体の「美」を豊かに味わいたいものです。

一時期、バブル崩壊してからは日本の応援も「緩く」なって良かった良かったと思っていたんだけれど、今回のロンドンオリンピックは、ちょっと息苦しさのぶり返しがあるようにも思う。
気のせいなら、それでいいのだけれど。

「黄昏」を生きる「鬱」な美学というか、スタイルも、(じいさん予備軍だから、かもしれないけれど)それはそれで大切じゃないだろうか。

でも、社会を半分降りようとしている「視線」から言えば、余計なお世話かもしれないけれど、この「相対貧困」の層を下支えする政策は、基地問題、原発再稼働問題と同じく、国の将来を左右する課題だと思うなあ。

人の力が社会の活力に繋がらないシステムだからダメなんだよね。
それは老若男女を超えた課題。

人の活力をどう社会システムに生かすか。

年寄りだって働けばいい。悠々自適に働きたい。
人生を半分降りる第二ステージの有り様を、社会は模索すべきでしょう。
社会は、とか他人事じゃなくて、私もまた、若者と子育て女性の「相対貧困」を前にして、どんな「働き」をすべきなのか、を問わなくちゃならんです。