龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「人為の裂け目に立ち現れる自然」について(2)

2012年09月07日 18時10分58秒 | インポート
「人為のリミットにおいて、その裂け目から圧倒的な自然が顔を出す」

ということについてもう少し書いておく。

八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』には

「日本人は普通、(中略)理性の働きが先にあって、それによって理性の限界に気付くとき、理性の限界を超えた神に対する信仰が生まれる」

とある。ここで
「人為の裂け目に立ち現れる自然」
とは、決してそういう日本人の常識の意味ではない。

むしろ方向が逆だ。

人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?

この一年半ほど、ずっとそこにこだわり続けている。

そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?

そういう思いを抱えている、といってもいい。

意識が発動し、自分の意志を確かめて考え、発信しようと考え始めたのは、確かに大震災以後のことである。

整備された社会システム、共同体とインフラの中で、無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。

「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。

恐れの分析にも関わることだけれど、1,動物的な恐怖、2,存在論的な恐怖とは別のこの恐怖は、実は虚構化された第二の自然つまり社会的な環境(擬似自然といってもいい)を当然のこととして無意識に生きてしまっていた私たちが、様々な水準の生の基盤を一挙に失ったことによって、あられもないナマの世界と向き合ったことによる畏怖とみていいだろう。

人為/自然、正気/狂気
という区分が有効ではなく、
意識/無意識の二項対立が混乱してしまうようなあられもない世界の相貌。
大げさでなく私たちが見たのはそういう種類のモノだ。

そこから立ち上がる「理性」については、その瞳を凝らすための訓練が必要なのだ。





神の存在論的証明のことはまだよく分からないけれど

2012年09月07日 00時29分09秒 | 大震災の中で
なぜそれに関心が向いているのか、は分かっている。

人為のリミットにおいて、その裂け目から圧倒的な自然が顔を出すという体験と、多重に出会ってしまったからだ。

目に見える形では津波の被害がそうだったし、目に見えない形では原発事故の放射能による被害がそうだった。

グランドキャニオンにしてもナイアガラ瀑布にしても、ギアナ高地にしても、エアーズロックでも、圧倒的な自然の姿は驚異ではあっても脅威ではない。

自然がほとんど絶対的な顕現を見せるのは、むしろ人為のリミットにおける、その裂け目という「場所」における必然として、である。

私が神について震災以前と違った次元で考えるようになったのは、そういう体験をしてしまったからだ。

「人為」のリミットという場所で、人為の裂け目において現出する「自然」

それは、私にとってスピノザの指し示す「神即自然」という「必然」をその現場で感得する哲学の営みと大きく響き合うものだった。

それは、人為的に回復し得るものではない、と私には思われた。
、ということは社会的技術的に修復し得るものではない、ということだ。

いや、無論除染と瓦礫の処理、高台移転と港湾・都市の復興は、当然なされなければならない。
だが、問題はそういうことではない。

ある種の「超えた」感じ、というか、宗教的絶対性の感じというか、震災以後に向き合ったものは、そういう次元のものだと感じられるのである。

以前、別のところで震災における恐怖の分類をしたことがある。
1,動物的恐怖
2,存在論的恐怖
3,人為の裂け目の恐怖
震災と向き合った時の恐怖には明らかに多層的だった。
とくに、3は、回復されたり隠蔽されたりが原理的に不可能だからこそ抱かされた恐怖だった。

人為によって乗り越えられるべき種類のものではなかった。だからこそ恐怖を抱いた、ということだ。
それは、負の形ではあっても
「神の存在論的証明」
とどこかで響き合う。
カントは自然の姿に畏怖を感じた、とかどこかで読んだことがある。
それが正確にどんな意味なのか分からないけれど、この一年半、抱き続けて考え続けてきたこの

「人為」のリミットにおける裂け目から見えた「自然」

への畏れは、人間が神について「存在論的証明」していかずにはいられない「エンジン」と、どこかで通底しているように思われているのではないだろうか。

人為と自然は単純な対立項ではない。そう考えると、「テクネー(技術)」の側面を決定的に読み間違えるだろう。
人為は、私たちが生きるべき可能性条件としての自然のありようを抜きには働き得ないのだ。

とすれば、そこに「神」を発見するのは必然ではないのだろうか?

スピノザを読み始めたのは震災前だけれど、与えられた「可能性条件」としての「震災以後」、21世紀にもなって、ある意味では荒唐無稽とも見られかねない「神の存在論的証明」という営為は、逆に私の中で重要性とか興味関心の値を高めつつある。

そのことだけは間違いないようだ。