「人為のリミットにおいて、その裂け目から圧倒的な自然が顔を出す」
ということについてもう少し書いておく。
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』には
「日本人は普通、(中略)理性の働きが先にあって、それによって理性の限界に気付くとき、理性の限界を超えた神に対する信仰が生まれる」
とある。ここで
「人為の裂け目に立ち現れる自然」
とは、決してそういう日本人の常識の意味ではない。
むしろ方向が逆だ。
人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?
この一年半ほど、ずっとそこにこだわり続けている。
そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?
そういう思いを抱えている、といってもいい。
意識が発動し、自分の意志を確かめて考え、発信しようと考え始めたのは、確かに大震災以後のことである。
整備された社会システム、共同体とインフラの中で、無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。
「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。
恐れの分析にも関わることだけれど、1,動物的な恐怖、2,存在論的な恐怖とは別のこの恐怖は、実は虚構化された第二の自然つまり社会的な環境(擬似自然といってもいい)を当然のこととして無意識に生きてしまっていた私たちが、様々な水準の生の基盤を一挙に失ったことによって、あられもないナマの世界と向き合ったことによる畏怖とみていいだろう。
人為/自然、正気/狂気
という区分が有効ではなく、
意識/無意識の二項対立が混乱してしまうようなあられもない世界の相貌。
大げさでなく私たちが見たのはそういう種類のモノだ。
そこから立ち上がる「理性」については、その瞳を凝らすための訓練が必要なのだ。
ということについてもう少し書いておく。
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』には
「日本人は普通、(中略)理性の働きが先にあって、それによって理性の限界に気付くとき、理性の限界を超えた神に対する信仰が生まれる」
とある。ここで
「人為の裂け目に立ち現れる自然」
とは、決してそういう日本人の常識の意味ではない。
むしろ方向が逆だ。
人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?
この一年半ほど、ずっとそこにこだわり続けている。
そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?
そういう思いを抱えている、といってもいい。
意識が発動し、自分の意志を確かめて考え、発信しようと考え始めたのは、確かに大震災以後のことである。
整備された社会システム、共同体とインフラの中で、無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。
「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。
恐れの分析にも関わることだけれど、1,動物的な恐怖、2,存在論的な恐怖とは別のこの恐怖は、実は虚構化された第二の自然つまり社会的な環境(擬似自然といってもいい)を当然のこととして無意識に生きてしまっていた私たちが、様々な水準の生の基盤を一挙に失ったことによって、あられもないナマの世界と向き合ったことによる畏怖とみていいだろう。
人為/自然、正気/狂気
という区分が有効ではなく、
意識/無意識の二項対立が混乱してしまうようなあられもない世界の相貌。
大げさでなく私たちが見たのはそういう種類のモノだ。
そこから立ち上がる「理性」については、その瞳を凝らすための訓練が必要なのだ。