龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「理性1」から「理性2」へ

2012年09月11日 00時13分21秒 | 大震災の中で
9/7にここでこう書いた。

引用開始------------------------
>人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?
>そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?

>整備された社会システム、共同体とインフラの中で、
>無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、
>生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、
>このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。

>「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。
引用終了-------------------------

この「無意識」についてちょっとだけ考えたことをメモとして付け加えておく。

私たちは日常生活を営む時、意識しないで物事をうまく手順通りに運ぶ能力を持っている。
たとえ「意識」が多少飛んでいたとしても、手は動いている、ということもよくある。
体が自動的に反応する、というやつだ。

アスペルガーの知人に聞いたりすると、そのあたりの「自然さ」=「無意識」がよく分からないという。
「全てが異なって感じられるんだよね」
というのだ。
そういえば、千葉-國分の「様々なドゥルーズ」でライプニッツの説明のとき、シャワーの例を千葉さんが出していたように記憶している。
「シャワーを『シャワー』じゃなくて水のツブというか一本一本の束として<痛み>を感じてしまう人がいる」
という話だった。そっちはモナド論に行くんだけれど、日常生活の「無意識」という比喩(無意識はベタの字義通りなら、意識されざる領域だから、普通「無意識に」というのは比喩として用いられることが圧倒的に多いはず)も、
「そういうふうにできている」
と意識の中でまるめてあって、改めて取り立てて考えなければ「自動的に」進行していくものとして扱われるもの、が普通「無意識」と呼ばれるのではないか。

本当?の「深層」にある「無意識」は定義上意識によっては触れ得ないものなわけだから。

ここでの無意識は、

環境と自己の間にあるある種の安定した自明性

を仮に「無意識に」と言っていることになろう。

環境世界と生命としての個体である人間は、動物のように環境に埋没して生きるばかりでなく、自ら深くその「環境1」にコミットし、個人レベルではなく社会レベル、あるいは象徴的なレベルにおいても「環境」を作り上げ、それをある程度継続的安定的に「環境2」として生命としての個とフィードバックしながら多層な「現実」として、自明の「自然2」を作り上げ、かつその中で継続反復した営みを続けること自体が、その自明性をさらに確固としたものにしていくわけだ。

しかし、当然のことながら、それはある瞬間に「亀裂」が走る。

普段意識的に考える「理性」というのは、自明なものと化した「自然2」のレベルの基盤上で、私たちに与えられた「理性」だ。
いちいち地面から全てのものを立ち上げ直し、人間の意図を忖度しなおしていては、とても文明的な生活はできない。

話を戻すが、アスペルガーの知人は、そこにつまづく。普通の人がある種の自明性を持って相互に承認すべき関係性によって支えられた「自然2」の基盤を、彼は共有しない。
だから、いつも行為や表情、言葉もいくぶんかはぎこちないものであり続ける。

だが、それは学習可能だ。
繰り返し、「同じ」であることを何度も何度も確認しなければならないけれど。
日常の中では、彼のその「全てが違って見える」ことは、明らかにハンディキャップだ。
だが、その自明性に対する納得の不在は、私たちの意識=理性が、結構脆弱な「自明性」の上に営まれていることを示してくれる。

だから、マインドブラインドネスを抱えたそのアスペルガーの知人は、私にとっては幾分か「神様」に近い存在だ。

もちろんそんなことを言われても本人は迷惑なだけだ。
本人は「普通になりてえよ」というだけの話。
当然だ。

だが、私たちの「理性」は、与えられた環境に生きる自己にとっての最適解を求めるためだけに機能しているわけではない。
そういうことを指し示してくれてもいるのではないか。

「同じ」「無意識」に対応する程度の自明性にあぐらをかいた「理性1」は、せいぜい原子力村を作ったり、総裁選を有利に戦ったりする「最適化」しかできない。

他方、亀裂を見たことによって発動する「理性」は、決定的な差異を抱えつつその「差異」にのみ込まれて、逆に亀裂へと同一化する危険=「狂気」と区別がつきにくくもなる。

自明性を前提とした「理性」は自明性が危機を迎えたとき、優れていればいるほど「エリートパニック」を起こしていざというとき役に立たない。

「反省的意識」

は大切だけれど、無限遡行や無限反転(いわゆる舞城王太郎的にいえば「ぐるぐる大魔神」ですね)はよろしくない。

だから、「神の存在証明」とかを読んだり、スピノザの周囲をウロウロしたりする羽目に陥っているのだろう。
私が勝手に『哲学原論』から拾ってきたホッブズの決めゼリフ「動物と数学者以外は、全て人間の欲望の現れにすぎない」っていうのに惹かれるのも、そこに関わる。

動物は、人間の営みの中で擬似的に自明とされた「自然2」なんて意に介さない。
数学者は、前提に基づいてあり得べきことを徹底的になぞるだけだ。
それ以外は、「政治」だろう、というのはホッブズのスタンスか。
スピノザも、そう遠くない場所に立っていたのかもしれない。未完だがスピノザも国家論を書いている。

個人的にはスピノザの国家論と、ホッブズの国家論を比較するのが今年の後半のもう一つの課題だ。

それもこの、「理性」と「無意識」のあたりの関係に関わっている。

自明性に支えられたオートマチックな行為性という意味での無意識に見合った程度の理性を「理性1」と仮に呼ぶ。

とすれば、震災以後、その裂け目と向き合うときに立ち現れるモノを「理性2」と呼んでみたい、ということだろうか。

人は環境に見合った「理性」を持つのだとするなら、環境という可能性条件に見合った「必然」を生きる「理性」の輪郭を、なぞってみたいのだ。