龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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そうはいうものの、クイズ番組は隆盛を極めてる

2012年09月21日 22時25分31秒 | 評論
クイズ番組は、一頃のカルトな感じや博覧強記の称揚という「頂点」系のものから、誰でもが分かる可能性のある「常識」に近い出題になってきている。

よく分からないけれど、視聴率が取れるのは極端に出題難度が先鋭化した深夜番組的なものが主流でなくなっているのは分かる。
そして、クイズ番組の中でも「おばか」なのか「インテリ」なのかのざっくりとした分類が既に確立していたりもして、それも一時期のように超絶「無知売り」ではなく、「普通」を中心としてゆるやかな広がりの分布をみせているように見えるのは気のせいか。

だが、だからこそ昨夜はクイズタイムショックスペシャルを2時間も見てしまったのだと思う。

つまり、

「ああ、そう、それ、そういえば聞いたことがある」

的な出題の範囲を超えない微妙な匙加減と、こちらの50代半ばにおける確実な記憶へのアクセス困難の「開始」とが、絶妙にシンクロしてしまったのだ。

「かつてはこれが瞬間的に出てきたのになあ」

という思い。

おそらくそれは、必ずしも「ボケ準備」の始まりたる50歳代だけがそういう感慨にふけるのではないのだろう。

「学校」を終えた者、年齢的にいえば15歳~17歳の記憶力黄金期を過ぎた者たちすべてが、この「ノスタルジックな」感じを味わうことができる。

「知るわけないだろ、こんなの」

という問題が続く番組ジャンルとは別の、浅くなでる感覚、とでもいえばいいだろうか。

職場の親しい同僚の名前が突然言えなくなる症候群にかかり始めた(これ、けっこうびびりますよ)私としては、覚えていた昔を思い出させるクイズ、というのは、「浸る」のに最適なぬるま湯だったのかもしれませぬ。

一昨日、職場を出る前にコーヒーカップを洗おうとして流しの前に立ったら、持っていたのがボールペンだったことに気づいて愕然。

これは病気じゃないんだろうか?
一度暇になったら問診ぐらいしてもらおう。

「デーモン閣下、ノーバンで始球式、活を入れる」

「デーモン閣下、ノーパンで始球式、カツを入れる」

と読んでしまう自分。たぶん「カツを入れる」という表現がなければ
始球式=ノーバウンド
という連想が出来たはず。

でも、「デーモン閣下」が始球式でカツをいれるのだから、何かへんてこりんなパフォーマンスをするのだろう、という文脈読解が動き、「ノーパン」になってしまったらしい。

性的な「言いまつがい」が優先になって、「そんなことあるわきゃないだろう」=常識=抑圧が弱くなり始めているのか?

物事の「本質が見えてきた」感じがあると同時に、無意識がちらちらと、常識の抑圧の代わりに意識の側に信号を送ってくる。
そんなことがあるのかもしれない。

つまり、理性1→理性2へ、という動きは、どこかで意識されている「常識」の抑圧が、次第に弱まって、その代わりに構造化された無意識に「理性2」が接触を試みているというか、無意識が「理性2」に近づいてきているというか、そういう感じもないではない。

与太話にもならないだろうか(苦笑)。

ノスタルジックなクイズ番組は、緩やかな「常識」の連帯が、黄昏懐旧的にとても気持ちいいのではないか、という暴論でした。


井上光晴は、一日250ページは本を読むっていってたけど、

2012年09月21日 00時09分04秒 | 評論

本を一冊も読まずに寝てしまった夜は、その日1日を無駄にしてしまったような気がする。
特に今日のようにテレビのクイズ番組スペシャルなどを茫然と眺めてズルズル過ごしてしまったりするとかなりへこむ。
別に本など読んでも読まなくても構わない、という時期は過ぎた。
何をやっても勉強になる、というのは若いうちの話だ。
正直なことを言えば、50歳を過ぎてから全く新しいことに手を染めるのはそれはそれとして物凄く大事なんどけれど、でも50歳を過ぎているということは、何か自分の確固とした専門的領域があるという前提での「新しいことにチャレンジ」でなければなるまい。

悪いけれど、覚えも悪い体力も衰えたドシロウトの仕事は、それだけでは尊敬を生まない。

愛嬌がなければただの邪魔だ。

繰り返すが、それが悪いというのではない。ただ、自分の使い方を間違えてると本当に辛いことになる、という話しである。

自分の使い方として、常に頭を動かし続けているために、読書が私の場合欠かせないのだ。

考えることはほとんど忘れてしまうのが常だ。

とくに最近その傾向が強い。だから、考えたことはブログに書き出しておくようになった。
外部に痕跡があれば、自分自身も他者としてたどり直せるからだ。

さっきも、
「デーモン閣下、ノーパンで始球式に活を入れる」

とか読んじゃう「解像度」だからさあ。

一番信用できないのが自分。
細かいところの風景はもうボケはじめている。だから、今のうちに「全体性」のありようを記憶に刻んでいかねばならない。そのためには、「読む」こと、がどうしても必要なのだ。

かつては知識を得るために、思考の道具立てを手に入れるために、あるいは暇つぶしとして、楽しみとして、謎を味わうために、読書を楽しんでいた。

今はただ、世界と出会いたい、と思うばかりだ。