龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

寄付文化は、差別抜きには成立しない、ということ。

2012年09月30日 13時20分08秒 | 大震災の中で
atプラス12のこの二人の対談、とっても面白いのですが、後半、自分で一番気になったところだけを挙げておきます。

1、寄付文化の未熟さについて
寄付は、どこかの団体が集めて「公平」に被災地に配るのではなく、各個人がどこかの個人に個別に自由にできるのがいいと思います。
しかし、個別に寄付することになると、ある意味で差別が生まれます。
すごく寄付をあつめる自治体があったかと思うと、そうでない自治体も出てくるでしょう。日本人はそういうのを嫌う。しかし、僕はその方が寄付をというものの本来性に近い」(東)
「何かを選び、境界線を引くからこそ責任が発生する。すべてに開かれている無限責任というのは、本当は無責任です。」(東)

2、やっぱり先ほどのヒュームの話をで、偏った共感から始めるということですね。カントからヒュームへ。
しかし、貴重なフィクションとしてのカント主義も並立させておく。(千葉)

3、公平な共感を追求したら、共感そのものが失われています。(東)
「一般意志」を、みなの意志を均した総和である「全体意志」と区別して、「差異の和」としている。(東)

4、ファシズム批判は、ファシズムへの欲望が実際に生々しくあることを認めた上で、その凝りをほぐすというか、別の仕方にむけたり分散させたりすることでなければ実践的ではない(千葉)

いろいろ面白い。ある意味でとても切ないけれど。

師匠(國分功一郎センセ)がツイートしていた『一般意志2.0』についてのことば、「政治なんて、切ないんですよ。」が心に沁みるなあ。

千葉氏とは違った意味で、東浩紀の主張には同意しえないところがある。
境界線を区切って主体の有限責任を立ち上げるような場所で、私は発言していない。
むしろ強いられた自覚の方が上回った場所「福島」で考え、発話している。
だから、土地に生きることをある種「聖なる痕跡」のように受け止めてしまっている。

したがって、「後から考えると」というような見立ての説明的「論理」を倫理に対して用いることはしない。
(まあ、「敢えて」神様が「ある」側に立つってだけの違いかもしれませんが)

だが、だからといって、東浩紀が見ているセカイの「もの」性とか、「功利主義的」なスタンスによって見えてくるセカイ像を、考慮せずにモノを考えるとこともできない。

東浩紀の示す「政治的」なスタンスを考慮せすに、「今」語られる言説を思考することができない、ということだ。

千葉さんの話の方が腑に落ちるところはあるけれど、ともあれ、部分的な接続と切断(千葉)について、ヒュームを介してもう少し考えていかねば。千葉さんが言っているように、「認識論」じゃない「社会実践的」哲学としてのヒュームを。

対談の後半をよむ前にちょっと休憩。

2012年09月30日 12時34分52秒 | 大震災の中で
國分功一郎×千葉雅也の対談「様々なドゥルーズ」で、後半二人が早分かりとして、究極的に一元論を取るのか二元論を取るのかっていう話を(たしか千葉さんの方から)振っていた記憶がある。

『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(メモ4)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?search=%C6%F3%B8%B5%CF%C0

ドゥルーズを「全てを発生と見る」欲望一元論(國分:笑)<無限の直感知=スピノザ的>からみるか、
ドゥルーズを<共約不可能性=ライプニッツ的>の側から二元論的=実践的に捉えるのか。

そのことと、東が対談の後半で、
「世界は功利主義的にしか動いていない。カント主義的な倫理はなんていうのは、本当は存在するわけがないと思っています。しかし、人は自分たちの行動原理を自分たちで内省したときに、それがあるかのように錯覚してしまう。つまり、人間同士、お互いに尊重しあっているのかもしれないと思ってしまう。それは判断のバグみたいなものです。お互いに利己的に振舞っているのに、遡行的に振り返ると、カント主義的な原理があるように見える。そうやって人間は宗教とかを作る。
というわけで、僕は神とか宗教とかは基本的に錯覚だと思っていますが、しかしだからといってそれを尊重しなくていいとは思わないんです。(中略)なぜならその錯覚だとで人はまた動いたりもするからです。そこではもはや錯覚は単なる錯覚はではない。現実の力を持つ。」
といっているところと響いてくるような。「倫理」の問題でもありますね。
そういう意味でもヒューム、読まねばならない。



atプラス12の対談<東浩紀×千葉雅也>その1

2012年09月30日 11時59分50秒 | 大震災の中で
atプラスという雑誌の12号の特集「日本思想のユーティリティ」で。

東浩紀と千葉雅也が対談している。

いくつか興味深い論点があるのでメモがわりに。

1、東が別のところで國分功一郎と対談していて出てきた「これからの哲学はでかい話をしなければならない、スケールの大きい人類史的な話をしなくてはいけない」というところを千葉がインフラクリティーク(インフラのの揺れによって批評する立場がゆさぶられる)というところから共感しているというポイント。

2、中沢新一が、大震災以後にもかかわらず、『カイエ・ソバージュ』と同じスタンスで書いている『日本の大転換』はいかんのではないか、という視点。つまり、「人間と動物の混交のような神話的想像力』はよくて西洋のモダニズムの自意識の空回りは自然の贈与的関係から疎外されていてよくない」という大まかな中沢新一のスタンスの変わらなさに対する不満足、ですね。

3、それにたいして東が言い続けている「動物化」は、消費社会の徹底と動物的な欲望の噴出を一致させた視点だ、ということ。
近代消費社会にたいして、反消費社会としての自然あるいは動物という見方はしないってスタンスです。これは東も千葉も共有。

4、「ポストモダン左翼」は哲学はじゃなくて道徳だ。(東)。

5、旧来の「道徳」は特定の価値観の押し付けだったが、他者のさまざまな特異性を尊重しようとするのが「倫理」。しかし尊重すべき特性を際限なく細かく考える「べし」では、それがオブセッション(強迫観念的ってことか?)になってしまっている(千葉)。

6、ドゥルーズ的倫理は、レヴィナス的な無限責任論ではないはず。部分的な接続と切断を考えようということ。無限責任は取りきれない。むしろ「責任の有限性」もしくは「有限責任を考えること」の重要性。(千葉)

7、問題は、無限責任と無責任主義の間。

8、人間の資源には限りがあるから、全てに応答することはできない(東)それを「エクリチュール」ということばで示したデリダはやはり慧眼だった。(東)


この辺りまでが議論の前提です。

ふむふむ、って感じですね。

面白いです。これだけでも「atプラス12」の購入価値ありかと。


11/3(Sat.)13:30~あさのあつこ講演会(ラトブ6F)にて

2012年09月30日 11時29分37秒 | インポート
あさのあつこさんの講演会が、11月3日(土曜)13時30分より
いわき駅前ラトブ6Fで開かれます。
申込みは下記まで往復ハガキで。

〒970-8026いわき市平字田町120いわき総合図書館
0246ー22ー5552

『バッテリー』があまりにも有名ですが、『夜叉桜』とか、時代小説もいいんですよねえ。


独立研究者 森田真生(独立研究者)のこと

2012年09月30日 11時22分45秒 | 大震災の中で
27歳の独立研究者、森田真生のことが書いてあった。

「これだっ!」

と思わず叫んでいた。
才能ある若手の数学者が、事情があって大学にいかず(いけず?)、「在野」(懐かしい言葉だ)で研究をしているだけのこと、と見てしまう人は今はもうそんなにいないんじゃないかな。

たとえばこういうことば。

「科学や数学って、知をどんどん広げて未知を覆い尽くすことではなくて、知の柔軟性や可動域を広げて動き回れるようにすることなんです。一方で優れた科学やアートなの存在感をありありと立ち上げて、その境界のインターフェースが燃え上がるのが知の喜びの根っこだと思うんです」

深く共感する人は、「今」はもうたくさんいるはずだ。

計算可能な数のみではなく、計算という方法ではアクセスできない計算不可能数が、数直線(世界)を支えているという話の中に「も」、私がスピノザを読み始めて「そこだ!」と感じたことの輪郭の手触りがある。

中世神学の神様はこの世を去って久しいけれど、それは繰り返し要請されなければならない、と思う。

たとえばこういう場所で。

「まず要素があり、その要素の集合として全体ができると考えるのではなく、まず全体があり、その関係性のネットワークが、個々の対象のアイデンティティを決めているのだ、と考えることはできないでしょうか。これが『圏論』と呼ばれる数学の基本的な思想です」

この「全体」=神様がある(いる)のかどうか、という話では必ずしもないのだけれど、その境界線の近傍に立って、向こう側に瞳を凝らし、耳を澄ますことが、絶対に「今」必要なのだと感じる。

だから、
「そこだ!」
と思うわけで。

AERAの10/1号、とりいそぎお薦めです。


それは「幽霊の言葉」といってもいいかもしれない。

2012年09月30日 01時14分11秒 | 大震災の中で
オブセッションに与えられたヴォイスは、ある意味で

「幽霊の言葉」
「幽霊の声」

かもしれない。
映画『バッファロー'66』
的な妄想が、現実に「震災」や「事故」として起こってしまったとき、人はそれに対してどんな言葉を持ち得るのか。

むしろ、その世界の裂け目を前にして、自分達の言葉こそが「幽霊の言葉」なのかもしれない、と逆立した世界の感触というか、パースペクティヴを持ってしまうのではないか、という思いがきざす。

絶望の壁に「絵」を描く、と石川淳は安部公房の小説を評したが、何か、そこからもう一段さらに得体のしれないものに追い越されようとしている「恐ろしさ」を感じる、とでもいえばいいだろうか。

だから、道具的理性では役に立たないのだ。

世界の不条理を見つめる「理」+「性」が必要だ。

「理性1」から「理性2」へ。

言葉の源泉をたどり直す旅。
それは風景を言葉で作り直すこと。


obsessionにvoiceを与える(レイモンド・カーヴァーの言葉)

2012年09月30日 01時08分06秒 | 大震災の中で
老教授が、いつもの年末の泊まりがけの酒飲みのとき、

「obsessionにvoiceを与える」

という言葉が好きだ、と教えてくれたことがある。

レイモンド・カーヴァーの言だと言っていたようだが、なにせこちらも酔っ払っていたから定かではない。

……っと、ネットはこういうときに便利だ。

レイモンド・カーヴァー傑作選より
http://booklog.jp/quote/132368

引用開始
「良くも悪くも、僕は本能的な作家なんだ。僕はプログラムをこしらえたり、あるいはこれこれしかじかのテーマに適した話をみつけてくるというような作家じゃない。僕にはいくつかのオブセッションがあって、僕はそいつに『ヴォイス』を与えようとしているんだ」
引用終了

だそうです。

妄想に形を与えるってことか?

大間原発再開に反対するという現実に対する意見の表明も、ある意味では「オブセッションにヴォイスを与える」みたいなことと、他人のそら似程度には似ているのかもしれない。

しかし、もちろん、政治や行政の政策に関わることは、フィクションの中での行為とは訳が違う。

村上春樹のコメントが扱いにくいのもそこだ。だって、あの村上春樹なんだから。

大江健三郎の政治コメントは、別に大丈夫。大江健三郎だもの、と思っていればよかった。
でも、村上春樹の政治コメントはそうはいかない。

それは、実は、震災以後、自分自身が置かれた「状況」について言葉を発せずにはいられなくなった、という私自身の事情にも深く関わっている。

村上春樹のコメントと、自分のブログのコメントを並べて論じるのは正気の沙汰とも思われないが(笑)、課題それ自体としては、そういう「正気の沙汰とも思われない」言説状況だったりもするわけで、だから本当に困ってもいる。

それでも、言葉を発し続ける以外に選択肢はない。
少なくても自分は、思い定めた。

ブログでだけ書き散らしていればいいのかどうか、も含めて、考えかつ行動していかねばなるまい。



大間原発建設再開に反対する。

2012年09月30日 00時42分07秒 | 大震災の中で
震災直後の夏、下北半島をドライブした。
まだ季節が早いというので、大間漁港ちかくで食べたマグロは水揚げされたばかり、というわけにはいかなかった。
でも、マグロの心臓の焼き物をほおばったり、海鮮丼でお腹を満たしたりしたあと、そこからほど近い大間原発の建設現場の脇を通り、下北の深くて濃い自然の中を巡って帰って来た。

繰り返す。
大間原発の建設再開は、悪いことはいわないから止めておいた方がいい。

理由はたった一つ。
お金で買えないものを失うことになるからだ。

経済行為としては、過疎地にプラントを誘致するのは自治体として地方振興を考えればむしろ常道かもしれない。
だが、その土地それ自体をそこに住み、生活し、自分たちの「生」が根付いてきた長い年月を失いかねない「取引」は、割に合わないのではないか?

原発プラントがなければ経済が回らないから、どのみちそこに住めなくなるんだ、という言い分もおそらく切実な生活からの声だろう。

しかし。

どうせ出稼ぎや身売りや戦争に人出を供出しつづけてきた貧しい田舎ならば、原発プラントに頼ってそこで「豊か」に住めるうちは住んでおけばいいではないか、という開き直りは、「切実の生活」からの声とは似て非なるものだ、ということを人はもう少し真剣に考えておいた方がいいと、思う。

その切実な声、と開き直りの間には、小さく見えるかもしれないけれど、確実に「隙間」がある。

そしてその「隙間」は実は、東日本大震災が私たちに指し示した「人為=&≠自然」の「裂け目」と、細い糸で確実に繋がっているのだ。

人は学ぶ。
どんな状況であっても、学びながら生きてきた。
大震災とそれに伴う原発事故から何を学ぶか、は、これからの時代がじっくり時間をかけて吟味していくべき課題だ。

だから私は、余計なお世話としてではなく、田舎の福島に今住み続け、田舎の青森を愛する一人として、

悪いことは言わないから大間原発の建設再開は止めておけ

と発信しつづける。

小名浜港にようやく北海道からのさんまが70トン水揚げされた。
去年の春以前だったら、話題にも上らない埋め草のエピソードだろう。

しかし、今はとても切実な話題だ。

近海の魚の水揚げがいつになったらできるのやら、見当もつかない。
おそらく、かつての水準に戻ることがあるとしても、私はそれまで生きてはいないかもしれない。
それは、産業としても雇用としても大きな損失だが、そういうベタでソロバンに乗るか乗らないかだけではなく、私たちの「豊かな生」にとって決定的な打撃だ。

「植民地的」システムの中で田舎の経済が回ってきたことは事実だし、その「中毒性」を十分知っていても、それをのみ込んで地方のお金を回さねばならなかった地方自治体の「政治」を笑うことはできまい。「中央」のシステムは、どこでもいい「金で転ぶ田舎」を(戦略や意図を持たずに!)探し求め続けている。

萱野稔人が指摘するように、国家には戦術はあっても明確な「意図」や「戦略」は必ずしも存在しない。

そういう意味では、国家の「行為は」暴力占有とそれに伴う経済の集中を、共同体の自動運動として続けて行く、と見るべきかもしれない。

だから、「田舎も恩恵を受けただろう」という話では済まないのだ。
その毒を飲むことを自治体に強いているのは、暴力簒奪装置でもあり、経済集中装置でもある国家のシステムだから。

ただ、いざ一度こういう「裂け目」が走ると、この装置はもはやうまく機能しつづけられない。

私たちはそれを東電福島第一原発の事故で知った。

だから、何事もなかったかのように、以前の原発誘致システムに大間が乗るのはお薦めできないのだ。

「既に認可した原発の建設を経済産業省は止めるものではない」
というのは、相変わらずの枝野発言の「正しさ」を示しているが、その「ただしさ」のみでいつまでも「世界」は回っていくわけではない。そのシステムだけが経済活動の基本的可能性条件でもない。

私たちは、そういう「裂け目」の近傍に立っている。
おそらくは、幽霊が見える場所に。

限定された現状システムの内部における「経済合理性」は「理性1」の範囲内に止まる。
そこでは原発事故は「想定外」だったり、単に回避すべき、あるいは(驚くべきことに)単に計算にいれるべき「要素」でしかあり得ない。
だから、それに対する危惧は、むしろ幽霊のように見える。

だが、裂け目の近傍に立って世界をその闇を通して「も」見ようとすれば、「理性1」の範囲内、道具的理性の範囲内でだけものごとを考えて済ませるわけにはいくまい。

これは、単なる環境保護とか自然保護とか、人間の生きる権利とかいう話ではない。

世界と向き合う「理性」の問題で「も」あるのだ。

もう一度繰り返す。
悪いことは言わないから、大間原発再開は止めておいた方がいい。

「悪いことは言わないから」
というのは、本当に余計なお世話的「横やり権力」の言葉に過ぎないだろうか。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。

幽霊の放つかすかな言葉もまた、きっとそんなところから、そんな風に聞こえてくるんじゃないかな。



今日(9/29)の朝日新聞3面に村上春樹が寄稿。

2012年09月30日 00時16分51秒 | 大震災の中で
サイトは有料なので、むしろ9/29朝刊の朝日新聞を直接読むのが便利かもしれません。

村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」
http://www.asahi.com/culture/update/0928/TKY201209270753.html

かつて、村上春樹が最初『アンダーグラウンド』(オウム真理教の地下鉄サリン事件被害者へのインタビューを集めた本)を書いた時、大きな違和感を抱いた。
間違っているのではないか、とさえ言いもし、書きもした。

私の中に、そんなことを貴方(村上春樹)に求めてはいない、という気持ちがあったことも事実だ。

村上春樹という有名小説家が、オウム真理教というカルト集団の犯罪行為に対して「そんなことをしてはいけない」というメッセージを送ったところで何の意味があるのだろう、と思った。

私がその時村上春樹の本に抱いたのは、むしろ怒りに近い感情だったかもしれない。

小説家が小説の言葉以外で「勝負」しはじめたら、それこそ学者が文化人になったときのような錯誤を犯す、そんな危惧もあったろう。

今でもその違和感が全くなくなったわけではない。
だが、イスラエルの文学賞受賞のときや、今回のことを見ていると、彼が敢えて現実にコミットし、村上春樹という「有名人」がコメントする行為にも、意味はあるのかもしれない、とも感じ始めている。

「村上春樹」は、形にならない(しない)ドーナツの穴のような空虚の近傍に立ち、その何もなさ、にのみ込まれずにのぞき込みつつ、あるいは背中や脇にその感触を確かめつつ、言葉を紡いでいく「職人」の仕事に与えられる名前のようなものだ。

そのエンジンが作動するなら、いつだってそのコメントを聴いておく価値はある。

そう思う。

敢えてそこで語らねばならない、と、村上春樹という人が考えたことは、認めねばならない。

作家は、単に作品を作り出す「機能」ではないわけだしね。
現場作業員の言葉は、いつだって「言葉にならない言葉」だ。

だが、その現場作業員の一人である小説家だって、言葉はある。
いや、虚構作品を作り出す職人だって、人間だってだけの話。

もちろんそれがメディアに「ノーベル賞候補作家」の言葉として流通してしまう気持ち悪さが全くなくなっているわけではないにしても、だ。

封じ込めることはできない。それがたとえ小説家の言葉であっても!語られねばならない言葉ならば、ね。

メディア(媒体)の問題とか、流通の仕方とか、受容・消費のされ方とか、今「ことば」はほんとうに大変なことになってもいる。

山で穴を掘って、全てを遮断したいと思うことも多い。
いや、むしろ毎日そう思っている。

でも、もうそういう訳にはいかない、のだ。
村上春樹のコメントを読んでいて、ある種の「既視感」を覚えていた。
『アンダーグラウンド』から15年。

国家とは何か。権力とは何か。
フィクションとはどんな役割を果たしているのか。

「国民作家」村上春樹のコメントを、自分自身がどう扱うのか、答えの容易に出ない問いを問われている。