atプラス12のこの二人の対談、とっても面白いのですが、後半、自分で一番気になったところだけを挙げておきます。
1、寄付文化の未熟さについて
寄付は、どこかの団体が集めて「公平」に被災地に配るのではなく、各個人がどこかの個人に個別に自由にできるのがいいと思います。
しかし、個別に寄付することになると、ある意味で差別が生まれます。
すごく寄付をあつめる自治体があったかと思うと、そうでない自治体も出てくるでしょう。日本人はそういうのを嫌う。しかし、僕はその方が寄付をというものの本来性に近い」(東)
「何かを選び、境界線を引くからこそ責任が発生する。すべてに開かれている無限責任というのは、本当は無責任です。」(東)
2、やっぱり先ほどのヒュームの話をで、偏った共感から始めるということですね。カントからヒュームへ。
しかし、貴重なフィクションとしてのカント主義も並立させておく。(千葉)
3、公平な共感を追求したら、共感そのものが失われています。(東)
「一般意志」を、みなの意志を均した総和である「全体意志」と区別して、「差異の和」としている。(東)
4、ファシズム批判は、ファシズムへの欲望が実際に生々しくあることを認めた上で、その凝りをほぐすというか、別の仕方にむけたり分散させたりすることでなければ実践的ではない(千葉)
いろいろ面白い。ある意味でとても切ないけれど。
師匠(國分功一郎センセ)がツイートしていた『一般意志2.0』についてのことば、「政治なんて、切ないんですよ。」が心に沁みるなあ。
千葉氏とは違った意味で、東浩紀の主張には同意しえないところがある。
境界線を区切って主体の有限責任を立ち上げるような場所で、私は発言していない。
むしろ強いられた自覚の方が上回った場所「福島」で考え、発話している。
だから、土地に生きることをある種「聖なる痕跡」のように受け止めてしまっている。
したがって、「後から考えると」というような見立ての説明的「論理」を倫理に対して用いることはしない。
(まあ、「敢えて」神様が「ある」側に立つってだけの違いかもしれませんが)
だが、だからといって、東浩紀が見ているセカイの「もの」性とか、「功利主義的」なスタンスによって見えてくるセカイ像を、考慮せずにモノを考えるとこともできない。
東浩紀の示す「政治的」なスタンスを考慮せすに、「今」語られる言説を思考することができない、ということだ。
千葉さんの話の方が腑に落ちるところはあるけれど、ともあれ、部分的な接続と切断(千葉)について、ヒュームを介してもう少し考えていかねば。千葉さんが言っているように、「認識論」じゃない「社会実践的」哲学としてのヒュームを。
1、寄付文化の未熟さについて
寄付は、どこかの団体が集めて「公平」に被災地に配るのではなく、各個人がどこかの個人に個別に自由にできるのがいいと思います。
しかし、個別に寄付することになると、ある意味で差別が生まれます。
すごく寄付をあつめる自治体があったかと思うと、そうでない自治体も出てくるでしょう。日本人はそういうのを嫌う。しかし、僕はその方が寄付をというものの本来性に近い」(東)
「何かを選び、境界線を引くからこそ責任が発生する。すべてに開かれている無限責任というのは、本当は無責任です。」(東)
2、やっぱり先ほどのヒュームの話をで、偏った共感から始めるということですね。カントからヒュームへ。
しかし、貴重なフィクションとしてのカント主義も並立させておく。(千葉)
3、公平な共感を追求したら、共感そのものが失われています。(東)
「一般意志」を、みなの意志を均した総和である「全体意志」と区別して、「差異の和」としている。(東)
4、ファシズム批判は、ファシズムへの欲望が実際に生々しくあることを認めた上で、その凝りをほぐすというか、別の仕方にむけたり分散させたりすることでなければ実践的ではない(千葉)
いろいろ面白い。ある意味でとても切ないけれど。
師匠(國分功一郎センセ)がツイートしていた『一般意志2.0』についてのことば、「政治なんて、切ないんですよ。」が心に沁みるなあ。
千葉氏とは違った意味で、東浩紀の主張には同意しえないところがある。
境界線を区切って主体の有限責任を立ち上げるような場所で、私は発言していない。
むしろ強いられた自覚の方が上回った場所「福島」で考え、発話している。
だから、土地に生きることをある種「聖なる痕跡」のように受け止めてしまっている。
したがって、「後から考えると」というような見立ての説明的「論理」を倫理に対して用いることはしない。
(まあ、「敢えて」神様が「ある」側に立つってだけの違いかもしれませんが)
だが、だからといって、東浩紀が見ているセカイの「もの」性とか、「功利主義的」なスタンスによって見えてくるセカイ像を、考慮せずにモノを考えるとこともできない。
東浩紀の示す「政治的」なスタンスを考慮せすに、「今」語られる言説を思考することができない、ということだ。
千葉さんの話の方が腑に落ちるところはあるけれど、ともあれ、部分的な接続と切断(千葉)について、ヒュームを介してもう少し考えていかねば。千葉さんが言っているように、「認識論」じゃない「社会実践的」哲学としてのヒュームを。