龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読み始めた『ひらがな日本美術史』はまずもって日本の宗教の話

2020年01月20日 20時32分29秒 | メディア日記




読み始めた
橋本治『ひらがな日本美術史』
は、まずもって日本の宗教(仏教美術)からの話だった。今日はなんと宗教づいている日なのだろうか。

縄文土器には神様というか宗教的なものがあるけど、埴輪にはそーゆーものはなくて、子どものように平和だって指摘にはちょっとびっくり。
弥生では政治は誰かがやってくれるから、庶民は平和になったんだね、ってのはさすが橋本治っぽい。つい加藤周一を並べて考えちゃう。日本文化は「此岸的」だ、という加藤の指摘と、この、弥生の埴輪分析とは、橋本ひねりがくわわっているけれど、どこかで関連しているように思う。

この先神道の話や源氏物語の話と、先を読んでいかないとまだわからないけれど。

しずれにしても一筋縄ではいきませんね、橋本治ワールドは。


今日は読み出すばかりで読み終わらないが

2020年01月20日 16時45分50秒 | メディア日記
繋がってしまうのだからしかたがない。本日
『〈日本哲学〉入門講座 西田幾多郎と和辻哲郎』
にまで手をかけてしまった。

取りあえず図書館から借りていて読まねばならないのは
『浄土系思想論』鈴木大拙
『宗教的経験の諸相』W.ジェイムズ
二冊なのだが、どうしても読書は同時展開になりがちだ。
1/24(木)までに取りあえずこの二冊にメドをつけねば……。

『浄土系思想論』鈴木大拙を読み出す。

2020年01月20日 16時20分59秒 | 大震災の中で
『正法眼蔵随聞記』と平行して、
鈴木大拙『浄土系思想論』
を読み出した。『正法~』が自力系禅の教えとすればだとすれば、こっちは明らかに他力的「大乗系」の教えになる(のだろう)高校で教わった範囲だけど。あれ、でもどっちかっていうと、浄土宗というより、浄土真宗なのかな?絶対他力は後者だとならったような。
でも、実は法然さんと親鸞さんの違いをはっきり分かってない。

まあ、いいや(笑)おいおい見えてくるでしょう。

最初に読みだしたところでは、彼岸と此岸の「一如」がポイントになりそうだ。極楽と娑婆は1つではない。2つでもない。
「一如」なのだそうだ。
道元と違って脱力系なのかと、いっしゅん思うが、これはこれで、分別を越えて「霊性」を発揮しなければならないというのだから簡単に分かるというわけには行かないのだろう。というか「分かる/分からない」ではない次元に行く、という意味では道元さんと似ている面もあるのかしら(仏教だから当然?いやいやまだよくわからない)。

そこのところの「ジャンプ」をする前の此岸的準備運動の道具立てが違っていそうだが。

こうなると日蓮系も覗いてみたいが、こちらはいろいろありすぎてとりあえずお正月明けのぼんやりした頭ではまかない切れなさそうだ。
今年前半の課題ホッブズ『リヴァイアサン』に取り組む前の準備運動の一環かな。


『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗の使い方

2020年01月20日 15時52分21秒 | メディア日記
年末に読んだ『絵を見る技術』秋田早麻子はとても面白かった。

だが、今本棚を整理していて出てきたこの本、
『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗(宝島新書)
も極めて便利だ。約15 分で通読できた。それはつまり、どこかで断片的にきいたことのある時代区分、絵画のカテゴリーや技法、作者などの知識をキレイに流し込んでくれる本だからだ。

一枚一枚の絵と向き合うには
『絵を見る技術』
が役に立つ、というか必須アイテムだ。
他方!今まで見聞きしてきた体験の整理には
『一時間でわかる西洋美術史』
が圧倒的に便利である。
どちらも間違いなく素人の役に立つと思います。

『正法眼蔵随聞記』を読み出す。

2020年01月20日 14時26分17秒 | メディア日記
道元の言行を書き留めた弟子の懐弉が書き留めたとされる本、『正法眼蔵随聞記』を読み始めた。
これは読み終わることのない本だろうが、色々興味深い。

例えば、

岩波文庫版P31「たとひ、発病して死すべくとも、なほただこれを修くべし病ひ無ふして修せずらこの身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり」

とかいう過激さはとてもついていけないしやりたいとも思わないが、ある種の「清々しさ」すら覚える。

あるいは、師匠は弟子が座禅で寝ていたらぶん殴って拳が折れるほど戒める、それを自分の権力行使の為でなく行うことをよくよく思慮せよ、といったところもビビビびっくりだし、それが「私的な権力行使」にならない保証がどこにあるんだよー、と突っ込みどころ満載なのだが、にもかかわらず、そうか、道元さん、道とはそう言うものか、と納得する。

さらに、訴訟のために一筆書き書いてもらいたい、という人がいたら、厭わずに書いてやることだ、、というのもちょっとビックリだった。世捨て人はそーゆーことに関わらないのかと普通思うところだが、あくまで優しく接してやれ、とのこと。ただ、無理難題を依頼者が言っているときは、その以降を汲んだ上でなお「適切に処理されたい」と書くことも忘れずに、と付け加える。

この厳しさと慈悲の振れ幅が、読んでいてちょっと愉しくなってくるのだ。
修行僧への師匠の鉄拳制裁は、ある種の極端な事例(何せ弟子も支障も世を捨てて修行してる身の上ですからね)であって、なんちゃらヨットスクールとかどこぞの社長さんとか、能力開発講座とかにそのままこの精神を流用されちゃあかなわない。

修行における外化された他者の有り様を、どう描くか、というのは常に大きな課題だろうし、「只管打坐」的禅宗では、修行においてはこーゆーことにもなるって話なのでもあろう。
とてもベタでは読めないが、ネタとしてはいろいろ興味は尽きない。

子猫を奪い合う者に対して師匠が猫を一刀両断するって法話もメチャクチャだし、猫好きはこれだけで禅宗嫌いになるかもしれないけれど、その故事についての道元の答えもふるっている。
一刀両断ではなく、一刀一段であるべきで、猫をぶった切った高僧は、いくら仏法の教えとはいえやっぱり罪を背負ってるよね、と道元は解説している。

「変な理屈捏ねてんじゃねえぞ!座禅だ座禅だおらおらー」

というばかりではなく、夜の講話でこういうことも話してくれるお坊さんはいいな。

ある意味、論語とかプラトンのソクラテス系の話とかと似ている対話編だよね。
厳しくて、「ナンジャコリャ?」とも思うけれど、興味深くもある。
まだ第一(第六まである)しか読了していないけど、十分に面白い。
自分は絶対禅の修行僧になろうと思わないけれど、このテキストを読むのは、あり。
興味深いです。

ただ、木田元かな、解説で書いてある、道元が徹底して拒否した「方便」を駆使している側の宗派のテキストも(もしあるなら)読んでみたい。ただ、そっち系はテキストそのものが「方便of方便」になりかねず、タイトかつソリッドに書いてはくれなそうで、「はてな??」になってしまいかねないかも、だね。

何に膝を屈するのか、何を絶対的な精神の柱とするのか、そんなことを考えてしまう。
そこで、道元が言う「行履」の重要性を思う。
師匠が弟子をただ殴ったら暴行だ。今の世の中なら単なる犯罪にすぎない。
ただ、「先達の行履(あんり=禅僧の日常一切の起居動作)」を重視しつつ修行に励む、という方向性に、理屈だけではない「コモンセンスセンサー」のようなモノを感じもするのだ。

どのみち一筋縄ではいかない道元だし、随聞記は随聞に過ぎないともいえよう。家中で曹洞宗を抜けて無宗門になった我が家としては、いまや無関係でもあるし、厳しい修行などチャンチャラおかしい、とも思う。

でも、そのストイックな姿勢は何か傍らに一度立ってみて、
P25「コモンセンス傍ら事を云ふやうにしてこしら」えてみる異議はあるかも。

関心のある方にはオススメです。でも、こういうのを座右の銘にされて部下に語るような人にはよんでほしくないけどね。

ストイシズムは所詮自らに課する(戯れのもしくは演技の)強制でなければならない。