コナトゥスの説明の辺りから難しくなってしまって、木島泰三氏の敷いた道筋をまだ十分に理解できてはいない。
実際、私は今まで「コナトゥス」を「より良く生きる努力」といった風に理解していた。<志向性を持った力>が内在しているってイメージといっていいだろうか。この本の主張するスピノザは、その「コナトゥス」にともすれば忍び込んでくる「目的論的」な因果関係の先取りを徹底的に潰していく。
つまり、著者の言うコナトゥスはあくまで自己に固執する努力と、行為へと向かう力であって、何か「より良き」目的を持っていたりしないのだ。
え、じゃあ人間の「生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ」とちょっと思ってしまうが、冷静に考えてくならば、この著者の主張は、かなり説得力があるようにも思えてくる。
目的を持ち、そこに向かって働きかける力、というイメージは、結果から原因を導き出す倒錯を招く、という指摘はなーんとなく分かる。
自由意志の否定と必然の肯定が、運命論を招き寄せるというのも、分かるような気もする。つまり、自由意志の否定が、不思議なことに、何か一つの結果を必然的にもたらしてしまうというニヒリスティックな運命論を招いてしまう危険に対して、スピノザの姿勢は十分に対抗できるのではないか、ということでもある。
必然と偶然の関係についての言葉の使い方も、もう少し自分で練習・訓練しないとまだ整理できない。
それでも、「あれかし」と祈ることが、目的から逆に現実を規定しようとすることではない、ということは分かるつもりだ。
今ある現実こそが唯一の現実だというこの著作におけるスピノザ像においては、「可能」の意味も当然変わってくる。
スピノザを読むにはOSを変えないといけない、という意味が、よく分かる。
もう少し整理しつつ、考えてみる必要があるけれど、
「全ては神の本姓の必然性により今あるごとく決定されている」
というスピノザの思想は、悲観的運命論とは全く別の「自由」と「力」に手が届くのではないか、という予感を持つ。
十分に頭が働かないのでそれをまだクリアに書けないのがもどかしいけれど。
目的を徹底的に排除した必然は、ある種の偶然とも呼べるのか。
哲学は、概念を捉え直しながら構築していくものだから、その辺りがついていけないんだろうと思う。
けれど、興味深い。