『海をあげる』上間陽子
を読んだ。著者についてはこちらを参照されたい。
彼女の厳しく優しく切なく苦しく、そして力に満ちたコトバを全身で感じる。そういう受け取り方以外にないエッセイだ。
今ここにいる自分のコトバの根っ子を問われていると感じる。
それはこのエッセイのコトバが、自らその汲み上げられてくる根っ子の場所に対して、瞳を一瞬も逸らしていないからだ。その場所から湧いて出る、あるいは絞り出される静かなコトバたちに、わたし(わたしたち)は向き合うよりほかにない。
ああでも、「ほかにない」、というと強制された感じになってしまうなあ。
そうではないのです。
この本が書かれたことに感謝せずにはいられない。と同時に、上間陽子の仕事から目が離せない、とも感じる。わたしが、私自身のコトバの根っ子のことを突き詰めて考えなければならないのだ、というところに立たされる。
強制や受動ではなく、私の中からこのエッセイのコトバに、呼応しなければ、というコトバが出てこようとするのだ。
だが、それは容易なことではない。厳しい、とは、そういう意味だ。
上間陽子のコトバは厳しく優しく静かでなにかに満ちている。
それは単なる力、ではない。
次はこの人の
『裸足で逃げる』を読まねばなるまい。