龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分功一郎と一ノ瀬正樹、もしくは「である」と「べき」の間について

2022年01月10日 08時00分00秒 | 大震災の中で
先日、「しあわせのための『福島差別』論」批判をここにアップした。未完の草稿だから突っ込みどころ満載かもしれないが、まあ現状の立ち位置の確認にはなったかな、という程度のところか。

さて、それをかいているときに知人と前掲書の批判を酒飲みしていながら、 
一ノ瀬批判は当然として分かる(と知人)けど、國分さんはどうなの?
『原子力時代の哲学』も釈然としなかったし、高橋哲哉氏の退官時のイベントでもいわゆる反原発の運動について國分さんはかなり否定的なこと入ってたけど

という話をされた。

気になっていたところだし、極めて微妙な話でもあるので、その時ははっきりと論評することができなかった。 

実は、一ノ瀬正樹氏も國分功一郎氏も、哲学者として原発事故に向き合うという姿勢を明らかにしているという点では共通している。

反原発ドクトリン(教理)の原発は廃炉すべきだという「べき」から距離を取って哲学者としての立場から、まず「である」というところを突き詰めようとしている、といえばいいだろうか。

一ノ瀬正樹氏は反原発ドクトリンに「凝り固まっ」て氏を御用学者呼ばわりする人々を哲学的訓練を経ていない不幸な無知のヒトとして切り捨て、自らは「原因と結果の迷宮」に回帰していく。

それに対して、國分功一郎氏は、神様の話を持ち出して(核分裂とか核融合を直接扱おうとする)無媒介的エネルギーを求める原発がダメだ、、辞めるべきだ、という中沢新一氏に対して「ほとんど」「政治的には」「それでよい」としつつ、國分氏自身としてはその「べき」論に対して保留を表明する。


おそらく、2人の政治的立場は大きく異なっている。しかし同時により大きな枠組みで見るとき、どちらも「反原発ドクトリン」を振りかざして活動する人々とは別の次元で思考をしようとする姿勢においては選ぶところがない。

知人は
『だからさ原子力時代の哲学』響かねえんだよなあ』
と言って、とりあえずの会話は終わった。

私は國分功一郎ファンではあるけれど、当然ながら原発事故以後、死ぬまで

「悪いことは言わないから原発は止めておけ」

派である。ブログでも、SNSでもそう流し続けている。さてでは、この先日批判したばかりの一ノ瀬正樹氏と國分功一郎氏の違いはどこ(か)にあるのだろうか?

とりあえず原発事故以後に発せられるコトバには、科学的な水準と政治的な水準、哲学的な水準と表現的な水準、理性的な水準と感情的な水準などなど、様々な水準が層のように重なって、それが交わらないままちょうど描画ソフトのレイヤーのように重ね合わせられている。
全体を見通す言葉など望むべくもない。
そんな中で、一ノ瀬正樹と國分功一郎の共通性と差異は、私の中では放っておけない問題だ。以下、このことについて少し続けてみたい。