昔買ったことがあるはずなんだけれど、本棚を無くしてだいぶになるのでもはや探しようもないので、ふと読みたくなって図書館から借りてきた。
題名通りラカンの入門書である。
フロイトの「子どもたち」による精神分析という業界における政治とラカンの関係、メラニー・ジェイムズクラインとの関わりなど、伝記的な部分もあるが、大文字の他者とか対象a、無意識は言語として構造化されているとか、おなじみの?説明が分かりやすく書かれていて、復習するのに好適である。
全く最初に読むのは少し敷居がたかいかなあ。まあでも、面倒くさいラカンの早わかりとしては間違いなく頼りになる。
トリヴィアルな学問的差違にこだわらず、禅、統合失調症の症例、ヴィトゲンシュタイン、デカルトのような既知のものと対比しながらラカンの概念を説明してくれるので、とてもありがたい。
この本を読みながら、スピノザのことを考えている。ラカンには、(21世紀には失われた)、20世紀におけるパラノイア的な自己の根源・根拠を求めようとする狂おしいまでの傾向性があった。
しかし、21世紀は明らかに自閉系の時代であり、自閉系の課題はむしろ、構造化されることなくたった一人で世界の中にあることだ。それは孤独ではない。
おそらく、今を生きる人々の「孤独」について語る言葉は、20世紀的なノスタルジーに回帰していくのかもしれない、とすら思う。
もちろん、ラカンの語るコトバは、私たちが言語=思考を続ける限り重要でありつづけることは間違いない。
スピノザは、世界=自然=神とみる。そこに外部はない。
ラカンはたどり着けない根源を求め、言語によって他者の欲望を内面化するシステムを提示してくれる。
たどり着けない外部=他者からの→自己像、という形で、本当には触れることが出来ないものを析出することにより自己を何とか作りだす。
それに対してスピノザは、端的に「自由」は無知からくる、と言い放ってしまう。世界は必然だ、と言い切る。
もちろんスピノザは17世紀の哲学者だから、無意識概念もなければ言語についての哲学的分析とも無縁だった。だから、当然ラカンをそこに直接重ねて考えるわけにはいかない。
しかし、
デカルトの
cogito ergo sum
(私は考える 故に私は存在する)
と、それに対するスピノザの書き換え(補足注釈?)
ego sum cogitans
(私は考えつつ存在している)
の関係は、私と私の関係が異なった捉え方をされている、という印象を持っている。
その隙間に、ラカンの影を見ることはあながちムチャでもないだろう。
スピノザの言っていることが「非人間的」な無茶振りなのか、それともラカンのパラノイア的な自己への思考からの解放なのか、あるいは……
そんなことを考えてみるのも楽しい。
いずれにしても「自己」とか「自由」とか「意志」とかを手放しで自分の手にすることはもうないのだろう。
それでよい。それがよい。
年寄りになるとスピノザ好きが増えるんだよねえ、と知り合いのアレントを専門とする哲学者が言っていた。
なんだか悟りとか救いとかに近い話になりそうでイヤだけど(笑)
このあたり、もう少しはっきりしないままうろうろしてみたいと思っている。
とりあえず、チャレンジしてみる価値はありそうな一冊です。