龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

電話とスマホと書籍リーダーの画面サイズ(悩み)

2012年09月23日 20時43分49秒 | iPhone&iPad2
auのiPhone5に変えようかと考えて、ふと立ち止まった。

では、docomoのスマホじゃだめなんだろうかと。
昨日友人がXi(クロッシー)の大型(5インチぐらいか?)ディスプレイのスマホを見た。
ギャラクシーというのだろうか。

これならまだ私の目でも電子本が読めるかもしれない、と思った。
(時間の問題で、いずれ7インチのブックリーダーが必要になるのかもしれないが)

正直な話、iPhoneでは4だろうが5だろうが、老眼の始まった私の目では、眼鏡を交換しながらでなければ電子化した書籍が読めないのだ。

確かにiPhone5は縦に長くなったから、拡大して1ページ1画面ではなく、縦位1行を限界まで広げて横スライドしていけば、縦書き文庫本もそれなりには読めるかも知れない。
横書きなら横向きで読む手もある。

でも、どうせキャリアをSoftBankから移るなら、4.8インチとか5インチ(もはや既にこれは果たして電話なのか?という大きさだが)のLTE端末に気合いを入れているdocomoも検討の余地があるんじゃないか、と思い始めてしまったのです。

iPad mini も噂され、電子書籍リーダー(多くが7インチか?)の選択もいよいよこれから来年にかけて本格的になるだろう。

そんな中で、自分自身のスマホの守備範囲をどのあたりにしておくかが、目下の最重要課題になってきた。

ただ、iPhoneとiPadのiCloudのデータ連係とか、分かりやすいインターフェースとか、大きすぎないデザインとか、さまざまにアップルの優位性はあるんだよねぇ。

iPhone5を買うなら、iPhone5とiPad3の間の大きさの、電子書籍リーダーも買わねばならなくなりそう。

5インチスマホだったら、7インチを今年来年あたりはパスできるかもしれないわけで。

いや、悩ましいです。

最近、本の裁断による電子書籍化計画を進めている関係上、iPad持ち歩きが必須になりつつある。
ところが、持っている人は分かると思うが、正直なところiPadはどこでもいつでも持ち歩いて本をさくさく読むには、決定的に重いのである。

片手でiPadをずっと空中に把持しつづけて本を読み切る「腕力」のある人は、あんまりいないんじゃないかな。

しかし、iPhoneでは、ちらっと参照するには十分だが、本を読むには決定的に画面が小さいのだ。
去年だったか、『歌うくじら』(村上龍)をiPhoneで読んだ時は、まだ読めた。
1年のうちに、また老眼が進行したらしい。

そのうち眼鏡を買うか、携帯を買うか、みたいな本末転倒のシーンになだれ込みそうだよ(苦笑)。

ジョブズが断固反対していたとかいう7インチサイズ。
噂になっているiPad miniの大きさは、そのまま電子ブックリーダー7インチ画面の市場だ。

iPhon5 4インチ
大画面スマホ 4.8~5インチ
bookreadr 7インチ
iPad3 9インチ


auのiPhone5予約を取り消してきた(爆笑)

2012年09月23日 17時46分44秒 | iPhone&iPad2
SoftBankの思うツボ、だろうか(笑)。

今日の午後、auのiPhone5の予約をキャンセルしてきた。
理由は3つ。

1,とりあえず、地図が実質バージョンダウンしていて使えないのはどうかと思う。
(別にマップファンを入れてあるので不自由はしないが、批判票を1票いれておこうと思った。)
(少なくてもGoogle Mapが出るまで待ってもいいかと)

2,自分の居住地がプラチナバンドカバー地域になり、以前ほどau回線をうらやまなくても良くなった。
(まだ差はあります。先週末も山間の道路沿いでauだけ電波が入って悔しい思いはしました)

3,旧iPhone4の下取りがSoftBankだと1万ほどになる。
(iPod代わりにそのままBoseのWave Music Systemに繋いでもいいが)


以上のことを勘案すると、現状のSoftBankをauに移す面倒なことをするよりは、しばらく様子をみようかと。

そうそう、考えてみたらipadが一台iPhone4にぶら下がっていて、auに変更するとそちらも余計な負担が発生することに気づいたのでした。

iPhone5にすること自体をしばらく様子見すると同時に、auに移るのもちょっと待ってみようかと。
周りの様子を見てからでも遅くないかな。

それから、16Gbyteでもいいかな、とか、黒は塗装がはげやすいとか、いろいろ迷う余地はあるのですね。

結局、予約直前までプランは出さない、ブツの情報は不十分、という中で、「初日で予約200万台突破」というニュースに煽られてしまっていたのでした。iPhone4のホームボタンがいつ壊れるか、っていうところとの兼ね合いもあって、つい浮き足だってしまいました。

壊れたときは壊れたときのこと。

とりあえず、iPhone5フィーバーから少しだけ距離をとって、落ち着いて考えよっと。




週刊読書人9/21「キリスト教から世界が見える」が面白い

2012年09月23日 15時19分48秒 | 大震災の中で
『不思議なキリスト教』の著者の一人橋詰大三郎と、『キリスト教入門』の著者島田裕巳が巻頭対談している。


道具的理性=foxydog的には「理性1」

世界の秩序を思考する理(ことわり)=foxydog的には「理性2」(秩序=神がアプリオリに存在するかどうかはまた別として)

のうち、前者の限界を大震災以降露わに感じ取った私たちが、後者の「理性2」について考え始めるのは、必然性があるというものだろう。

だから、キリスト教にも改めて関心が高まってくるのも納得。
少なくても、私はそういう道筋で、改めて一神教的世界観を参照しておこうという気持ちになっている。

「宗教」を内面化し、「回心」するかどうかは別の話ですが。


結局ムラの掟は前者(「理性1」)に属する。
小さいところで整合性を持たせ、その小さいところをさらに突き詰めていってなんとか解決策を見いだしたり、ある時にはブレイクスルーしたり、「小さな」ところからのイノベーションをもたらしたりさえしてきたのかもしれない。

自民党や民主党の総裁・代表選びを見ていると、そういう意味では「懐かしい」。

しかし、ほんの少し前「原子力ムラ」に批判が集中したというのに、業界内のみに通用する「理性1」をいまだに使い回し、駆使しようとしている政治家の言説には、正直うんざりさせられる。

また、それを批判しようとするとき、それ以上に「定見」を持たず、「間違いを改めるのには素早い」サーフィン型の政治的言説を駆使する政治家に将来を委ねるのも躊躇われる。


結局、学問の業界も、経済の業界も、政治の業界も、その小さな箱庭における整合性を究極的に求める「理性1」に命を賭けてきた。一方、その箱庭的理性1を批判する側もまた、

・原理主義に陥って硬直化する

か、

・理性2(ことわり)を持たずに言説の流動に乗り続ける

か、の二択になってしまっている。


この辺りで、私たちが今ここで拠って立つ世界を可能たらしめ続けている「可能性条件」について、徹底的に見つめ直し、考え続ける世界秩序=ことわりについての粘り強い思考=理性2を求めていきたい、のだ。


「経済成長」という例外的な真空状況、「バブル」というその延長線上の離陸。

それらがしぼんで以後、就職がないから膨大な手間暇のかかる博論に従事する「学問従事者」が登場したように、大震災以後、「理性2」おける根本的な問いを、「理性1」のリミットを超えて探究しえる人材がようやく出てこようとしているようにも思う。

もちろん、キリスト教の理(ことわり)それ自体の中に、答えが容易に発見できるわけではあるまい。

だが、たとえかつて暗黒と呼ばれた中世キリスト教会の「理性」についてであっても、私たちが「理性2」について考える時に必要な参照点が多数存在するのではないか?

「キリスト教から世界が見える」というのは、そういうことで「も」あるだろう。

正直いうと、島田裕巳の「キリスト教入門」(扶桑社新書)自体よりも、この週刊読書人の対談の方が面白かったのですがね。

☆「理性2」を、日本の震災に合わせて「理性1」の中で道具的に「利用」しようというということではない。
☆それじゃキリスト教を日本的「理性1」が再度消費するって話で終わってしまう。
☆「世界」の裂け目=差異という暴力の現れと、どう向き合うか(「理性2」)、っていう話です。



三谷幸喜の『short cut』が日本民間放送連盟賞を受賞。

2012年09月22日 08時27分58秒 | インポート
三谷幸喜×中井貴一×鈴木京香『short cut』というwowowのテレビドラマが、日本民間放送連盟賞を受賞した。

素晴らしい!

三谷幸喜が変態的に追求してきた舞台的時間と映画的時間のせめぎ合いが、一つの達成を果たした作品だと思います。

『HR』『ラヂオの時間』など、TVや映画でも、芝居の中のようにリアルタイムで進行するような「劇」の描写にこだわってきた。

しかし、舞台の劇場TV中継が異常な「眠さ」をもたらすように、舞台の中に流れている時間と、映像の中で流れる時間は違う。

鈴木京香や小泉今日子が舞台でみせるヒドさと、映像作品における輝きの落差、の中にもそれは見て取れる。
鈴木京香が野田芝居に出たときの存在感のなさ、小泉今日子が小林聡美と共演したときの小林聡美の凄さ、そういうのを見ただけでも映像作品と舞台は全く違った生き物だと分かる。

最近みた高倉健のインタビューで、彼が映像の一回性を言っていた。
『short cut』で提示されている「時間」の問題と響き合っているかもしれない。

たぶん三谷幸喜はそういうことを全部分かっていて、なお「時間性」の越境を試みる。
もちろん、一本うどん(一食分全く切れ目のないうどん)として作られたドラマだから凄いってだけの話じゃなくてね。

、『short cut』、ぜひお薦めです。ちょっと大きめのレンタル屋さんにはあるんじゃないかな。

よろしかったらメディア日記もご覧下さい。

三谷幸喜『shor tcut』を観た。2012.06.21 Thursday 00:22
http://blog.foxydog.pepper.jp/?search=%BB%B0%C3%AB%B9%AC%B4%EE

そうはいうものの、クイズ番組は隆盛を極めてる

2012年09月21日 22時25分31秒 | 評論
クイズ番組は、一頃のカルトな感じや博覧強記の称揚という「頂点」系のものから、誰でもが分かる可能性のある「常識」に近い出題になってきている。

よく分からないけれど、視聴率が取れるのは極端に出題難度が先鋭化した深夜番組的なものが主流でなくなっているのは分かる。
そして、クイズ番組の中でも「おばか」なのか「インテリ」なのかのざっくりとした分類が既に確立していたりもして、それも一時期のように超絶「無知売り」ではなく、「普通」を中心としてゆるやかな広がりの分布をみせているように見えるのは気のせいか。

だが、だからこそ昨夜はクイズタイムショックスペシャルを2時間も見てしまったのだと思う。

つまり、

「ああ、そう、それ、そういえば聞いたことがある」

的な出題の範囲を超えない微妙な匙加減と、こちらの50代半ばにおける確実な記憶へのアクセス困難の「開始」とが、絶妙にシンクロしてしまったのだ。

「かつてはこれが瞬間的に出てきたのになあ」

という思い。

おそらくそれは、必ずしも「ボケ準備」の始まりたる50歳代だけがそういう感慨にふけるのではないのだろう。

「学校」を終えた者、年齢的にいえば15歳~17歳の記憶力黄金期を過ぎた者たちすべてが、この「ノスタルジックな」感じを味わうことができる。

「知るわけないだろ、こんなの」

という問題が続く番組ジャンルとは別の、浅くなでる感覚、とでもいえばいいだろうか。

職場の親しい同僚の名前が突然言えなくなる症候群にかかり始めた(これ、けっこうびびりますよ)私としては、覚えていた昔を思い出させるクイズ、というのは、「浸る」のに最適なぬるま湯だったのかもしれませぬ。

一昨日、職場を出る前にコーヒーカップを洗おうとして流しの前に立ったら、持っていたのがボールペンだったことに気づいて愕然。

これは病気じゃないんだろうか?
一度暇になったら問診ぐらいしてもらおう。

「デーモン閣下、ノーバンで始球式、活を入れる」

「デーモン閣下、ノーパンで始球式、カツを入れる」

と読んでしまう自分。たぶん「カツを入れる」という表現がなければ
始球式=ノーバウンド
という連想が出来たはず。

でも、「デーモン閣下」が始球式でカツをいれるのだから、何かへんてこりんなパフォーマンスをするのだろう、という文脈読解が動き、「ノーパン」になってしまったらしい。

性的な「言いまつがい」が優先になって、「そんなことあるわきゃないだろう」=常識=抑圧が弱くなり始めているのか?

物事の「本質が見えてきた」感じがあると同時に、無意識がちらちらと、常識の抑圧の代わりに意識の側に信号を送ってくる。
そんなことがあるのかもしれない。

つまり、理性1→理性2へ、という動きは、どこかで意識されている「常識」の抑圧が、次第に弱まって、その代わりに構造化された無意識に「理性2」が接触を試みているというか、無意識が「理性2」に近づいてきているというか、そういう感じもないではない。

与太話にもならないだろうか(苦笑)。

ノスタルジックなクイズ番組は、緩やかな「常識」の連帯が、黄昏懐旧的にとても気持ちいいのではないか、という暴論でした。


井上光晴は、一日250ページは本を読むっていってたけど、

2012年09月21日 00時09分04秒 | 評論

本を一冊も読まずに寝てしまった夜は、その日1日を無駄にしてしまったような気がする。
特に今日のようにテレビのクイズ番組スペシャルなどを茫然と眺めてズルズル過ごしてしまったりするとかなりへこむ。
別に本など読んでも読まなくても構わない、という時期は過ぎた。
何をやっても勉強になる、というのは若いうちの話だ。
正直なことを言えば、50歳を過ぎてから全く新しいことに手を染めるのはそれはそれとして物凄く大事なんどけれど、でも50歳を過ぎているということは、何か自分の確固とした専門的領域があるという前提での「新しいことにチャレンジ」でなければなるまい。

悪いけれど、覚えも悪い体力も衰えたドシロウトの仕事は、それだけでは尊敬を生まない。

愛嬌がなければただの邪魔だ。

繰り返すが、それが悪いというのではない。ただ、自分の使い方を間違えてると本当に辛いことになる、という話しである。

自分の使い方として、常に頭を動かし続けているために、読書が私の場合欠かせないのだ。

考えることはほとんど忘れてしまうのが常だ。

とくに最近その傾向が強い。だから、考えたことはブログに書き出しておくようになった。
外部に痕跡があれば、自分自身も他者としてたどり直せるからだ。

さっきも、
「デーモン閣下、ノーパンで始球式に活を入れる」

とか読んじゃう「解像度」だからさあ。

一番信用できないのが自分。
細かいところの風景はもうボケはじめている。だから、今のうちに「全体性」のありようを記憶に刻んでいかねばならない。そのためには、「読む」こと、がどうしても必要なのだ。

かつては知識を得るために、思考の道具立てを手に入れるために、あるいは暇つぶしとして、楽しみとして、謎を味わうために、読書を楽しんでいた。

今はただ、世界と出会いたい、と思うばかりだ。


先輩、山田耕一郎の訃報をきいて

2012年09月20日 23時05分16秒 | 大震災の中で
尊敬していた先輩の訃報を聞いた。

普段会うことはなくても、私なんかよりもずっと高い能力を駆使し、どこか遠いところで世界を支えて頑張ってくれている……

勝手にそんな風に決めつけて自分は隅の方で遊んでいればよい……

そんな妄想の中で甘えられる人はそう多くない。

何かの折にふと、彼ならばどう読んでくれるだろうか、と考えてしまうような、「想像上の読者」の一人だった。

意見が合った、というのとは違う。
「文学的」な趣味もだいぶ違っていたし、政治的な振る舞いという意味では遠く離れてもいた。

でも、たとえば大澤真幸の『ナショナリズムの由来』を紹介したときは、「おい、長えな、これ」とかいいながらしっかり買って読んでくれていたし、逆に、廊下でふとすれ違うときに「この本おもしれえぞ」といって『直筆でよむ坊ちゃん』を紹介してくれたりした。

彼に教えてもらった本で印象深かったのは平出隆『遊歩のグラフィスム』だった。

ベンヤミンと正岡子規は、それをきっかけとして読み直すようになった。

そういう先輩を失うのは辛い。
たとえもう、そんな風にさりげなく会話を交わす機会などないとしても、どこかで元気に活躍していてほしかった。

元福島県立橘高校校長 山田耕一郎。

ガンを患いながら震災後の相馬の地で教育長を引き受け、復興に尽力されていた、と聞いている。
そういう社会に関わって行く身振りは、私にはとても縁遠いものだし、彼があえて何かを語ろうとしないときにむしろ「政治」を感じたりもした。

そして、個人的にそう親しくしたわけでもない。
彼が退職し、上司でなくなってから一度泊りがけで飲み、話をしただけだ。

でも、それらの距離と違和も含めて貴重な先輩だった。

ご冥福を祈る。



萱野稔人『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』のこと

2012年09月19日 23時33分04秒 | 大震災の中で
この本、『国家とは何か』の中学生向け版なんですが、「名著」だと思います。

週末「スピノザ入門講座」で、國分先生も、萱野さんの国家の定義を、(スピノザ的な)発生的定義の典型的な例として挙げてました。

「国家とは暴力を独占する共同体の運動だ」(by 萱野稔人)

友人のブログにもこんな記事が。
「考えるネコ、走るイヌ」
「暴力はいけないことだと誰もがいうけれど」 萱野稔人著 (河出書房新社)を読んで
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/diary/201209170000/



softbankのiPhone5もテザリング対応……だって。

2012年09月19日 23時22分39秒 | iPhone&iPad2
週末、意を決して au のiPhone5を予約してきた。

そしたらいつものSoftBankの後出しじゃんけ攻撃?(笑)で、下取り含めるとSoftBankの方がとりあえず安い状況に。

もちろん切磋琢磨の企業努力は歓迎すべきところです。
でも、迷う。

auの繋がりの良さとテザリング無料に惹かれて決めたんだけど……悩ましい。

メールアドレスとか変えるの実は面倒だしねえ。

docomo,SoftBank,イーモバイルと試してみたのだから、auも体験してみようかな。


iPhone4のボタンの二度押しが利かなくなっている状況がなければ、もっとゆったり構えられるんだけどなあ。
渾身の力を込めたベストタイミングの二度押しにしか反応しなくなってる(^^;)。






iPhone5のゴタゴタに参戦中……

2012年09月14日 21時41分27秒 | ガジェット
iPhone5のリリース情報を見たら、どうしてもau版が欲しくなった。

元々iPhoneにはルーターとして使える機能(テザリング)があるのに、通信料増大による回線負担を危惧してか、softbankはそれを認めていない。

今回au版iPhone5は、その機能が使えるようになる。
しかも2年間無料で付けるという。

現状、SoftBank版iPhone4を2年間使い倒し、もはや割賦も支払い完了。

メールアドレスの変更だけが問題といえば問題だが、今、さまざまなソフトやsns、クラウドなどのサービスに登録してあったi.softbank.jpのiPhone専用メールアドレスを、各所から引き揚げている。

SoftBankの回線状態には泣かされてきたし、替え時だろう。

ただ、問題もある。

SoftBankのiPhone用データ通信は、データ量無制限なのに対し、auは7Gを超えると月末まで速度制限がつく。
テザリングを駆使してipadもiPhoneもPCも、と使い倒すと、月の後半は低速ネット、ということになりかねない。

速度低下を回避するためには、2G毎に2000円以上追加料金が発生する(これは払わないと思う)。

勿論今までの使い方なら普通7Gは使わない。
しかし、これからはLTEになって高速になり、動画もダウンロードしていくだろうから、けっこう悩みどころだ。

最初から回線がいまいちのSoftBankで完全定額にするか(サービス期間中はね、という微妙な言い方をショップのおじさんはしていました。完全定額はいつまでやるんかいね、SoftBankは)、より安定した回線のauで、使い倒して後半遅くなってもいいか。

あるいは、iPhoneの3Gを止め、ガラケーに戻し、イーモバイルのWi-Fiルーターを購入して、

iPad&ガラケー&Wi-Fiルーター

という手もある。
速度はともあれ、コスト的にはおそらくこれが圧倒的に安い(はず)。

むむむ、悩ましい。
第一先端のスマートフォン(iPhone)から、絶滅危惧種のガラケーに戻せるのか。

そうなったら、ガラケー&ルーター&iPhone(sim抜きWi-Fi専用)といつも3つ持ち歩くことになる。

いかにもスマートじゃない(笑)。

でもなあ。Wi-Fi版iPadに書籍をたくさん入れたので、これを常時持ち出すことになる。
家の中だけでiPadを持ち出さないのなら、別に外はiPhoneでネットをすればいい、と割り切れる。

しかし、持ち出すとなれば、iPhoneの小さい画面じゃなく、iPadの大きな画面を使いたいのが人情。
そうなると、iPhoneだけのデータ通信のために今更5000円を支払うのもバカバカしくなる。

実にどーでもいいが、悩ましい堂々巡りだ(笑)






「理性1」から「理性2」へ

2012年09月11日 00時13分21秒 | 大震災の中で
9/7にここでこう書いた。

引用開始------------------------
>人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?
>そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?

>整備された社会システム、共同体とインフラの中で、
>無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、
>生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、
>このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。

>「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。
引用終了-------------------------

この「無意識」についてちょっとだけ考えたことをメモとして付け加えておく。

私たちは日常生活を営む時、意識しないで物事をうまく手順通りに運ぶ能力を持っている。
たとえ「意識」が多少飛んでいたとしても、手は動いている、ということもよくある。
体が自動的に反応する、というやつだ。

アスペルガーの知人に聞いたりすると、そのあたりの「自然さ」=「無意識」がよく分からないという。
「全てが異なって感じられるんだよね」
というのだ。
そういえば、千葉-國分の「様々なドゥルーズ」でライプニッツの説明のとき、シャワーの例を千葉さんが出していたように記憶している。
「シャワーを『シャワー』じゃなくて水のツブというか一本一本の束として<痛み>を感じてしまう人がいる」
という話だった。そっちはモナド論に行くんだけれど、日常生活の「無意識」という比喩(無意識はベタの字義通りなら、意識されざる領域だから、普通「無意識に」というのは比喩として用いられることが圧倒的に多いはず)も、
「そういうふうにできている」
と意識の中でまるめてあって、改めて取り立てて考えなければ「自動的に」進行していくものとして扱われるもの、が普通「無意識」と呼ばれるのではないか。

本当?の「深層」にある「無意識」は定義上意識によっては触れ得ないものなわけだから。

ここでの無意識は、

環境と自己の間にあるある種の安定した自明性

を仮に「無意識に」と言っていることになろう。

環境世界と生命としての個体である人間は、動物のように環境に埋没して生きるばかりでなく、自ら深くその「環境1」にコミットし、個人レベルではなく社会レベル、あるいは象徴的なレベルにおいても「環境」を作り上げ、それをある程度継続的安定的に「環境2」として生命としての個とフィードバックしながら多層な「現実」として、自明の「自然2」を作り上げ、かつその中で継続反復した営みを続けること自体が、その自明性をさらに確固としたものにしていくわけだ。

しかし、当然のことながら、それはある瞬間に「亀裂」が走る。

普段意識的に考える「理性」というのは、自明なものと化した「自然2」のレベルの基盤上で、私たちに与えられた「理性」だ。
いちいち地面から全てのものを立ち上げ直し、人間の意図を忖度しなおしていては、とても文明的な生活はできない。

話を戻すが、アスペルガーの知人は、そこにつまづく。普通の人がある種の自明性を持って相互に承認すべき関係性によって支えられた「自然2」の基盤を、彼は共有しない。
だから、いつも行為や表情、言葉もいくぶんかはぎこちないものであり続ける。

だが、それは学習可能だ。
繰り返し、「同じ」であることを何度も何度も確認しなければならないけれど。
日常の中では、彼のその「全てが違って見える」ことは、明らかにハンディキャップだ。
だが、その自明性に対する納得の不在は、私たちの意識=理性が、結構脆弱な「自明性」の上に営まれていることを示してくれる。

だから、マインドブラインドネスを抱えたそのアスペルガーの知人は、私にとっては幾分か「神様」に近い存在だ。

もちろんそんなことを言われても本人は迷惑なだけだ。
本人は「普通になりてえよ」というだけの話。
当然だ。

だが、私たちの「理性」は、与えられた環境に生きる自己にとっての最適解を求めるためだけに機能しているわけではない。
そういうことを指し示してくれてもいるのではないか。

「同じ」「無意識」に対応する程度の自明性にあぐらをかいた「理性1」は、せいぜい原子力村を作ったり、総裁選を有利に戦ったりする「最適化」しかできない。

他方、亀裂を見たことによって発動する「理性」は、決定的な差異を抱えつつその「差異」にのみ込まれて、逆に亀裂へと同一化する危険=「狂気」と区別がつきにくくもなる。

自明性を前提とした「理性」は自明性が危機を迎えたとき、優れていればいるほど「エリートパニック」を起こしていざというとき役に立たない。

「反省的意識」

は大切だけれど、無限遡行や無限反転(いわゆる舞城王太郎的にいえば「ぐるぐる大魔神」ですね)はよろしくない。

だから、「神の存在証明」とかを読んだり、スピノザの周囲をウロウロしたりする羽目に陥っているのだろう。
私が勝手に『哲学原論』から拾ってきたホッブズの決めゼリフ「動物と数学者以外は、全て人間の欲望の現れにすぎない」っていうのに惹かれるのも、そこに関わる。

動物は、人間の営みの中で擬似的に自明とされた「自然2」なんて意に介さない。
数学者は、前提に基づいてあり得べきことを徹底的になぞるだけだ。
それ以外は、「政治」だろう、というのはホッブズのスタンスか。
スピノザも、そう遠くない場所に立っていたのかもしれない。未完だがスピノザも国家論を書いている。

個人的にはスピノザの国家論と、ホッブズの国家論を比較するのが今年の後半のもう一つの課題だ。

それもこの、「理性」と「無意識」のあたりの関係に関わっている。

自明性に支えられたオートマチックな行為性という意味での無意識に見合った程度の理性を「理性1」と仮に呼ぶ。

とすれば、震災以後、その裂け目と向き合うときに立ち現れるモノを「理性2」と呼んでみたい、ということだろうか。

人は環境に見合った「理性」を持つのだとするなら、環境という可能性条件に見合った「必然」を生きる「理性」の輪郭を、なぞってみたいのだ。


メディア日記に伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』感想をアップ。

2012年09月10日 21時04分04秒 | インポート
メディア日記龍の尾亭に、伊藤計劃(+円城塔)『屍者の帝国』の感想を書きました。

こちらも参照してください。
メディア日記龍の尾亭 『屍者の帝国』

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980388

面白い。
パロディといえば全面パロディみたいな雰囲気を漂わせ、しかも登場人物達がそれを「演じきる」感覚は、語り方として抜群に上手い設定だと感じます。

盛り込まれたアイディアもSFファンならずとも楽しめる要素が満載。満載過ぎてこちらが消化しきれないのか、作品がもたついているのか、ちょっと判断に迷うところがありましたが(再読してゆっくり味わいながらその辺りはもう一度)。

私は本当にこういうお話が大好きです。
辻村深月の「語り」に惹かれた、と昨日書いたけれど、この伊藤計劃的(要素なんだか円城塔的要素なんだか分かりませんが)な「語り」もまた、非常に魅力的です。

語られ方と素材が、響き合ってるし、そこをきちんと読者に優れた身振りで示してくれる作品たち。
景気が悪いとか雇用が心配とか、年金がダメダメとか、いろいろ心配事は多くなってきているこの10年20年だけれど、口はばったい横町のご隠居さん的に放言させてもらえば、「文化的」には断然面白いものが湧いて出てきていると思う。

本を読む目の力と体力さえあれば、老後は安泰かもしれない。
そういう意味では、伊藤計劃の早すぎる死(まだ作家としてのキャリアは始まったばかりだったというのに!)は、惜しんでも惜しみきれない。

そして、この作品を未完として埋もれさせずに出版まで持ってきて下さった全ての人に感謝です。

大傑作という完成度は感じません。でも、このアイディア満載状態のお話は、私たちがこの後ずっと、ここから(ちょうど「菌株」のように?)想像を膨らませていく苗床として、抜群の「力」を持っています。

少なくても私はそう思います。



週刊読書人8/31の辻村深月インタビューが良かった。

2012年09月10日 01時25分01秒 | 評論
たまたま
辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)
を読む前に、週刊読書人8/31号の8ページに辻村深月直木賞受賞インタビューが載っていた。
なかなか興味深い内容だった。

インタビュアー側の質問文が長くて、微妙に「誘導解説風」だったのはご愛敬か(笑)。

私が読んだのは
『冷たい校舎の時は止まる(上下)』
『名前探しの放課後(上下)』
いずれも講談社文庫の2作品のみ。
今回がようやく3作目だが、どの作品もほぼ一気読みさせられてしまった。
作品の主人公が必ずしも人物ではなく、むしろ作品の主人公は「語り」だからだろう、と思った。

大学一年生の頃、井原西鶴が大好きだった。たいして意味も分からず、あの文章が気持ちよかった。
卒論は石川淳、それもあの文体に惹かれたからだ。

この辻村深月も、「語り」の作家だとつくづく思う。

「語る」ことは一見何かを伝えようとしているかのように見えるけれど、必ずしも伝わっているのはその「何か」だけではないし、その「何か」を伝えるためだけならば、小説なぞ書かなくてもよいし、読まなくても一向差し支えはない。

だが、その「語り」はついつい耳をそばだてて何度でも聞き入ってしまうだろう。

久しぶりに、そういう作家と出会った。

「人為の裂け目に立ち現れる自然」について(2)

2012年09月07日 18時10分58秒 | インポート
「人為のリミットにおいて、その裂け目から圧倒的な自然が顔を出す」

ということについてもう少し書いておく。

八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』には

「日本人は普通、(中略)理性の働きが先にあって、それによって理性の限界に気付くとき、理性の限界を超えた神に対する信仰が生まれる」

とある。ここで
「人為の裂け目に立ち現れる自然」
とは、決してそういう日本人の常識の意味ではない。

むしろ方向が逆だ。

人為の裂け目から立ち現れる自然と向き合う時、初めて理性が発動するのではないか?

この一年半ほど、ずっとそこにこだわり続けている。

そういう種類の理性を、「生の可能性条件」の側からつきつけられているのではないか?

そういう思いを抱えている、といってもいい。

意識が発動し、自分の意志を確かめて考え、発信しようと考え始めたのは、確かに大震災以後のことである。

整備された社会システム、共同体とインフラの中で、無意識にこの生活が続くと錯覚していた震災以前の時が終わり、生存の基盤が裂け目を見せ、揺らいだところから思考を立ち上げようとすれば、このときこそ理性に依拠しなけれはなるまい。

「生の可能性条件=生きる基盤」の揺らぎに対する畏れ抜きに、理性的な判断はむしろ不可能なんじゃないかな。

恐れの分析にも関わることだけれど、1,動物的な恐怖、2,存在論的な恐怖とは別のこの恐怖は、実は虚構化された第二の自然つまり社会的な環境(擬似自然といってもいい)を当然のこととして無意識に生きてしまっていた私たちが、様々な水準の生の基盤を一挙に失ったことによって、あられもないナマの世界と向き合ったことによる畏怖とみていいだろう。

人為/自然、正気/狂気
という区分が有効ではなく、
意識/無意識の二項対立が混乱してしまうようなあられもない世界の相貌。
大げさでなく私たちが見たのはそういう種類のモノだ。

そこから立ち上がる「理性」については、その瞳を凝らすための訓練が必要なのだ。