風月庵だより

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法を識る者は懼る

2008-05-01 17:15:39 | Weblog
5月1日(木)晴れ【法を識る者は懼る】

『従容録』の研究会で、次のような言葉に出会った。「識法者懼。法を識る者は懼おそる)」という言葉である。『従容録』二十六則「仰山指雪」の頌の著語に出てきた。「掟を心得ている者は常に小心である。まともな人間は自らを慎むものだ」(『禅語辞典』182頁)というような意味である。この語は『碧巖録』の10則頌の評唱にも出てくるので、圜悟克勤えんごこくごん(1063~1125)あたりがはじめて使った語か、もしくは中国の古典に使われている語かもしれない。

堅い話はこのくらいにして、この語に出会って少なからず思うところがあったので、そのことを書こうと思う。当ブログに、最近思いがけずポルトガル在住のある人からコメントをいただいた。以前当ブログに書いた「天井桟敷の人々」という紹介のログの中にこの方のお名前を書かせて頂いたことがある。私が若い頃にお会いした方であるが、青目海さんというお名前の方である。このお名前が印象的でもあり、記憶していたのだが、青目さんのほうは私のことは覚えてはいらっしゃらないようである。そのときすでに尼僧であれば、きっと記憶に残ったであろうが。

青目さん曰く、よく飲んでいる頃のことで、あまり記憶がないということである。青目さんだけではなく、私も若いころはよく飲んだ。どうしてあれほどに飲めたのかは、信じられないほどだが、一升くらいは一晩に飲んだこともあった。年中飲んでいて、なぜあれほどに飲んだのか、今は全くそんなことは関係ないようなすました顔をしているので、我ながら想像もできないほどである。

青目さんからコメントをいただいたので、その頃のことを、急に思い出したのである。あの頃は泣いたり、笑ったり、いろいろな感情の起伏があり、日々にもいろいろな変化が、たしかにあった。いろいろな出来事があった。先というものを見えなかったし、人生のなんたるかも皆目分からなかった。多くのことに無知であった。自分が自分によって振り回されて、年中悩んでいた。やはりあの頃を青春というのであろうと、自分の過ぎてきた時間を振り返ってそう思う。

今は全く違う時間の過ごし方をしているが、あの頃の自分があったから、今がある、と受けとめている。あの頃の五里霧中の毎日があったからこそ、今のこの私が、とりあえず「此処に在り」といえるだろう。およそ、しとやかな、清らかなイメージの尼僧さんとはかけ離れている。

ということで、過ぎ去りし日の自分をも肯定はしているが、今は「法を識る者は懼る」というような生活をしているといえようか。自分にとっては、坐禅をして、先人の教えを学び、お経を誦えて生きているこの生活に守られている観がある。かれこれ20年以上続けているが、紆余曲折あり、右往左往しつつも、なんとなくこの道を歩いていこう、という灯がある。

仏法を、学べば学ぶほどに、自分を学んでいる。面白い流れに入ったと思っている。それで「法を識る者は懼る」の語に深く感じ入ったので、ちょっと若い頃の話を披瀝させてもらった次第です。

*似た言葉で「独慎(独り慎む)」という語があるが、こちらの方は、すました感じがあってちょっと私には苦手だが、「懼る」というほうは、小心者の私にとっては、受け入れられる感じがする。


*青目海さんも楽しいブログを書かれています。ポルトガル便り~ヨーロッパ偏見(ひんがら)日記