5月12日(火)曇り【福岡、龍國寺拝登 その1】
(先週7日と8日に、飛行機に乗って、福岡に行って参りました。福岡上空です。)
(龍國寺の開創は建仁3年〈1203〉です。開基は平重盛ー極楽寺殿小松内大臣平重盛浄蓮大居士ーです。実際の開基さんは原田種直なので創建功徳主となっています。鎌倉時代の源氏の世になってから、平氏一族の菩提を弔うために創建されたのは、なぜかと言いますと、種直の奥方が重盛の養女だったからです。
重盛の奥方、娘の千姫、福姫等一族は、原田氏を頼りに逃れてきて、山中に隠れ住みましたが、遂には源氏方の手にかかって殺害されてしまったのです。
源平の合戦では、当然ながら種直は平氏方につきましたので、平家が破れてから、種直は鎌倉に13年間幽閉されていました。しかし、弟の原田種成は源氏方でしたので、命乞いをしてもらい、許されて高祖に戻ってこられたようです。龍國寺を建立した年と同じ建仁3年に高祖山に館を構えました。創建当時は小松山極楽寺。御開山は徹慶智玄大和尚〈法相宗〉)
(中興開基足利義満ー鹿苑院殿天山道義大居士。至徳元年〈1384〉。再中興は原田親種〈実際はその親の隆種、戦乱で亡くなった息子親種の菩提のために、金龍寺8世本室智源大和尚を招いて再々興しました。〉このとき萬歳山龍國寺と改めました。
開基家の原田氏は、戦国時代には大内氏と手を組んでいましたが、大内氏滅亡後は大友氏の傘下に入ったり、大友氏が島津氏との戦いに敗れると小早川隆景の傘下に入ったり、加藤清正の与力になったりしていますので、龍國寺にもその影響はあったのではないでしょうか。私が研究しています器之為璠禅師は大内氏が開基のお寺や、また大内氏を滅亡させた陶氏が開基のお寺の住職をしていますので、このあたりの歴史にも興味があります。
龍國寺も火災(なぜか祝融といいます)にあったりしていますが、いくたの変遷を経て、現在にいたっています。明治37年から大正元年までは曹洞宗認可僧堂でした。
現在のご住職は31世甘蔗和成老師です。)
(先週7日と8日に、飛行機に乗って、福岡に行って参りました。福岡上空です。)
(龍國寺の開創は建仁3年〈1203〉です。開基は平重盛ー極楽寺殿小松内大臣平重盛浄蓮大居士ーです。実際の開基さんは原田種直なので創建功徳主となっています。鎌倉時代の源氏の世になってから、平氏一族の菩提を弔うために創建されたのは、なぜかと言いますと、種直の奥方が重盛の養女だったからです。
重盛の奥方、娘の千姫、福姫等一族は、原田氏を頼りに逃れてきて、山中に隠れ住みましたが、遂には源氏方の手にかかって殺害されてしまったのです。
源平の合戦では、当然ながら種直は平氏方につきましたので、平家が破れてから、種直は鎌倉に13年間幽閉されていました。しかし、弟の原田種成は源氏方でしたので、命乞いをしてもらい、許されて高祖に戻ってこられたようです。龍國寺を建立した年と同じ建仁3年に高祖山に館を構えました。創建当時は小松山極楽寺。御開山は徹慶智玄大和尚〈法相宗〉)
(中興開基足利義満ー鹿苑院殿天山道義大居士。至徳元年〈1384〉。再中興は原田親種〈実際はその親の隆種、戦乱で亡くなった息子親種の菩提のために、金龍寺8世本室智源大和尚を招いて再々興しました。〉このとき萬歳山龍國寺と改めました。
開基家の原田氏は、戦国時代には大内氏と手を組んでいましたが、大内氏滅亡後は大友氏の傘下に入ったり、大友氏が島津氏との戦いに敗れると小早川隆景の傘下に入ったり、加藤清正の与力になったりしていますので、龍國寺にもその影響はあったのではないでしょうか。私が研究しています器之為璠禅師は大内氏が開基のお寺や、また大内氏を滅亡させた陶氏が開基のお寺の住職をしていますので、このあたりの歴史にも興味があります。
龍國寺も火災(なぜか祝融といいます)にあったりしていますが、いくたの変遷を経て、現在にいたっています。明治37年から大正元年までは曹洞宗認可僧堂でした。
現在のご住職は31世甘蔗和成老師です。)