風月庵だより

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ヒロシマー2

2006-08-07 22:40:56 | Weblog
8月7日(月)晴れ暑し【ヒロシマ-2】

今日も、うだるほど暑い日であった。夜になってまだ少し暑いが、空には十三夜の月が美しい。明日は立秋である。

一昨日は門外漢が音楽について偉そうなことを書いたので、麿我青年に申し訳なかったと気になってならなかった。少しずつでも理解できたら書き直したいと思うので、分からないが故に、的はずれなことを言って平気でいることを、大目にみて頂きお許しを。

夕方、尊敬する僧侶からのお寺の機関誌を落手した。その中に「仏教の本質をいかにわかりやすく表現できるのかという課題を自らに背負って、悪戦苦闘」なさっている、と書かれてあった。それに比べて、私のブログでは年寄りの冷や水であるが、ラップ音楽についてまで厚かましくも持論を展開している。

まことに冷や汗ものである。時々こんな偉そうなことを書いてよいだろうかと、反省しつつ、胃が痛くなるような思いを持ちながら、実はこのブログを書かせていただいていることを告白せざるをえない。もうしばらくお付き合いの程を。

今日は平和への願いについて、皆さんご存じの詩でしょうが、転載させていただきます。
私は今まで読んだり、吉永小百合さんの朗読をお聞きしたりしているにも拘わらず、新たなる涙で今日も読ませていただきました。

「生ましめんかな」      
           栗原貞子

こわれたビルディングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
くらいローソク一本ない地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、
うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりの中でどうし
たらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と云ったのは、さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は
生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま
死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも (今手元に掲載の新聞だけなので、改行は原文に異なる)

この詩のモデルとなった実在の赤ちゃんは、今は六十歳になる小嶋和子さんである。体内被曝はされたけれども、一児の母として元気に生きていらっしゃる。

十三夜の月を探しに外に出てみたら、南寄り東西の真ん中あたりに輝いていた。月は平和な地上にこそふさわしい。レバノンの空の月は今夜輝くのであろうか(時差は7,8時間くらいだろうか)。イラクの空でもこの月をイラクの人々、とともに米兵や他国の兵士たちもどんな気持ちで眺めるのであろうか。戦争を止めない人間は愚か者だ。分かり切っていることを人間はし続けている。

ヒロシマ

2006-08-06 23:55:49 | Weblog

8月6日(日)晴れ暑し【ヒロシマ】

1945年8月6日8時15分。

原爆を投下したエノラ・ゲイはアメリカ人には、平和をもたらせたシンボルのように受け取られていることを知って、非常にショックを覚えた。原爆によって戦争が終結したのだから、と一人のアメリカ人は言っていた。以前観たテレビ番組の一こまである。

今日、広島では平和を祈る式典が各所で行われているようだ。記念公園では秋葉市長が「平和宣言」を訴え、子供の代表が高らかに「いのちの大切さ」について述べてくれた。女生徒の代表は、アメリカ国籍も持つスミス・アンジェレアさん、男生徒代表は、原爆記念館で衝撃を受け自ら立候補したという新谷望君である。

木下あいりちゃんの事件にも触れ、一人の命の大切さを訴え、真の平和は何かを考える言葉だった。また「自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、そうして心を開くことです」「命を大切にし、精一杯生きることを誓います」と二人は平和への願いを述べてくれた。

私の知人は胎内被爆であったが今でも不調に苦しんでいる。原爆の悲惨なことを世界に訴え続けていくことが、唯一の被爆国としてのこの地球での大切な役目であろう。それにしては日本の首相の言葉には力が感じられなかった。エルビスの館に行くのも結構だが、エノラゲイの展示を見に行ってくれたのであろうか。

中国では今でも強い反日教育が施され、韓国からも反日の強い風が吹き、靖国神社の参拝では首脳会談さえそのせいで拒否されているというような日本の置かれた立場。それに対しての対策も真剣にとらず、さらに原爆を投下したアメリカには苦言も呈さないような態度。これでは戦争で犧牲になった人々に対して申し訳ないのではなかろうか。

日本の平和教育は今どのようになされているのか、知りたいところである。長崎や広島の原爆を扱った黒木和夫監督の映画を見せてくれることも、一つの教育手段であろうし、原爆記念館を見学に行くことも考えられるし、被爆者の方の体験を聞かせて貰うことも考えられるし、いろいろな方法が有ると思うが、日本全国の学校で取り組んで貰いたいと思う。既になさっていたとしたらお許しを。ただ「8月6日」のことを20人の若者に尋ねたらただの一人も知らなかった、という例もありますので。

世界の平和の為に日本には責任があると思う。一人一人あらためて考えたい事だと思い今日一日を送らせてもらった。

ラップー野村麿我さんへ

2006-08-05 18:36:59 | Weblog
8月5日(土)晴れ暑し【ラップ-野村麿我さんへ】

今日も暑い。今日は渋滞の環八を運転してご供養のお手伝いを勤めてきた。お家でのご供養の後、焼けるような墓所のお参りを共に勤めたが、あまりに暑い。そこでその家のお墓の周りに打ち水を勧めた。墓所一面に打ち水をしたら、焼けるような暑さのお墓にヒンヤリとした涼しい風が吹いてくれた。

さてお墓とラップと続くと、心霊現象のラップ現象かと思う人もいるかもしれない。そうではなく音楽のラップについて今日は書かせていただきたい。この門外漢が現代音楽についての勉強をちょっとさせていただく縁があったので、一くさり論じて?みる。

一ヶ月ほど前のご法事で、合掌の姿の美しい若者に出会った。彼は野村麿我というミュージッシャンである。いつか彼のCDを聴いて感想を書く約束をしていたので、今日はそれを果たしたい。

その前に一言。私のCDコレクションの中には尾崎豊(1965~1992)の『十七歳の地図』がある。私はこの中の「十七歳の地図」と「僕が僕であるために」は特に好きである。彼が苦しい青春の心を歌い上げていてくれたお陰で、どれほど多くの若者たちが救われていたことだろうか、と私は思う。彼の墓標には「生きることそれは日々を告白してゆくことだろう-放熱への証」と刻まれている。おそらくドラッグによる事故死であろうが、惜しまれる死であった。

若者は、同じ目線の、同じ苦しみを持った心の叫びを共有しあいたいのだと思う。彼の歌を歌うだけでそれぞれの傷が癒されていたのだと思う。どんなに大人たちが一杯の愛を注いでも、尾崎豊ほどには癒すことはできなかったろう。しかし時は流れて、たった今の若者にはどんな共有の音楽があるのだろうか。

現代の音楽を聴く機会がこの頃はなかったのであるが、麿我さんと一緒にたまたま尾崎豊の墓所もお参りしたのだが、彼のCDを聴かせて貰った。『FRIENDS』(唄:Variety Various and キングコング梶原)というタイトルのCDで、収録されている曲は「FRIENDS」「under the rain "interlude(間奏曲)"」「Sensitive」「Hands up」
の三曲(四曲)である。

ラップ(rap)はもともと黒人音楽の一ジャンルであり、1960年代頃にアメリカで生まれたようである。ゴスペルが教会の中だとしたら、差別に苦しむ人たちの街中での叫びであろう。社会への風刺や理不尽なことへの怒りもこめられたエネルギーから自然に生み出された音楽だろう。キング牧師やマルコムXの黒人の人たちの自由を願う祈りも、ラップが助けていただろう。想像するに難しい言葉よりも、分かりやすい言葉が使われていたのではなかろうか。

その音楽ジャンルを導入してこの『FRIENDS』も構成されている。「FRIENDS」の歌詞はその題も示すように、私にも付いていけそうである。
「いつもいつもThanks my Friends ありがとう Dear my Friends ずっと僕らはFriends僕らはFriends 」というくだりは私にも分かる。若い人たちにはよく理解でき、楽しめる曲だと思う。

しかしこの年寄りにはやっぱり言葉についていくのになかなか大変な努力がいる。やっぱり年寄りの冷や水かな。若者たちのセンスになかなか追いつけそうもない。許されよ。そこで年寄りからの願いを一言。年寄りにも分かるラップを聴かせてもらえないかということ。ラップ自体に対しての拒否反応は決してないつもりなのだが。しかし私のセンスでは分からないのは、恋愛に対しての瑞々しい感覚が欠如しているからかもしれないね。

私にはどうもラップとスキャットの違いもよく分からないのだが、ラップには魂の内なる叫びがあってほしいと思う。それは年寄りにも分かるはずだと思っている。人間としての内なる叫び。社会に対しても。自分に対しても。友に対しても。世界に対しても。自然に対しても。空に対しても。雲に対しても。

いつか麿我さんのラップ論を聞かせてもらえれば有り難いです。この年寄りは何も分からないくせに厚かましくも一言を述べているのだから。やはり人生を賭けて音楽に生きている人の言葉を聞かせて貰いたいと思っています。

脇の話ですが、グループ名は誰もが覚えるには、少し難しすぎるように思うのですが。CDを買うとき発音に苦労しました。

ヴォイス・トレーニングにしても、アメリカのラップの勉強にしても、いろんな地道な努力を重ね、できうる限りの努力をしてさらに素敵な音楽を聴かせて貰えることを楽しみにしています。君の素直な合掌の姿の中に、いきいきとした瞳の輝きに、魅力的なマスクに、なによりその甘いだけでない力強い声に、さらなる活躍を期待しています。若者を信じられるということの幸せを君にみることができるのです。精進を祈っています。

幻-禅僧の遺偈

2006-08-02 23:58:04 | Weblog
8月2日(水)晴れ【幻-禅僧の遺偈】

中世の禅僧に関する本を読んでいたら、遺偈が目に飛び込んできた。そんな印象の遺偈である。遺偈の意味をご存じの方も、このブログをお読み下さっているとは思うが、その遺偈を紹介する前に少し遺偈の説明をさせて頂きたい。

遺偈とは禅僧が臨終にあたって、後に残す偈頌である。その禅僧の悟りの境界などを表した辞世のことばであるが、四句の絶句の形が多い。高僧に限らず、禅僧の葬儀には今はほとんど遺偈が張り出されている。

何時死が訪れるか分からないので、正月の二日には書いておくものだと、私は師匠から言われたが、まだ書けてはいない。遺偈を作れないままにこの修行の日々は空しく過ぎてしまうのだろうか。

さて私が今日は、鮮やかなカウンターパンチを見たような遺偈は次のような遺偈である。(見た、という表現は恐縮ながら、この真理自体は已に理解はしているのだが。もしこの境界が私にあったとしたら、私の場合はブログを書き続けることはできないだろう。私が本当にはこのカウンターパンチを食らっていないから、世俗の気が多く、出家しきっていないから、私の場合はブログを書いているのだとご了承下さい。)

幻而来幻      幻、幻より来り、
幻而去幻      幻、幻に去る。
幻無幻根      幻に幻根無く、
幻人幻幻      幻人、幻に幻たり。

 
これは太源宗真禅師(?~1371)の遺偈である。太源は總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師(1268~1325)の弟子である峨山紹碩禅師(1275~1365)の弟子である。太源禅師が活躍した時代は、北条氏が滅亡し、足利尊氏と対立した後醍醐天皇が吉野に入ってしまった南北朝の時代である。戦乱による世の移ろいの惨さや空しさを目の当たりにした時代である。

一切を幻と受けとめるに肯(ウケガ)い易い時代でもあるが、それは何時の時代でも同じことで、これは真理そのものである。「幻」を「空」と置き換えることもできよう。一切はどこまでも幻きり、空きり、それ以外ありえないのである。それだけなのである。

この「わたし」という幻もまた幻に去る、それだけのことである。幻身といえば分かりやすいかもしれない。

中国の宋の時代の禅僧、宏智正覚禅師(1091~1157)の遺偈は

夢幻空華     夢幻空華(ムゲンクウゲ)
六十七年     六十七年
白鳥没煙     白鳥は煙に没し
秋水天連     秋水天に連なる


夢幻空華(あるように見えたが、実は幻。空華は目の病で目に仮に映った、実際には存在しないもの)のこの身、六十七年(の生涯を終わる。)次に白鳥も煙も秋水(秋の頃の清澄な川の流れ)も一枚(一つ)になった世界の消息(ようす)を詠んでいる。幻のこの身もそこに一枚になりきっていく、と読み解くこともできよう。


私の師匠、余語翠巌禅師(1912~1996)の遺偈は
任運日月    任運日月(ニンウンジツゲツ)
随縁誑人    縁に随い人を誑(タブラ)かす
真如不昧    真如不昧(シンニョフマイ)
行脚永新    行脚(アンギャ)永(トコシナ)えに新たなり


師匠のこの遺偈が張り出されたとき、少し驚いた。悠々とした日頃の師匠が髣髴としてくるような師匠の詩偈があったので、それが遺偈かと思っていた。やはり高僧と云われる方は、遙かに遠くを行脚されていると思った。一切情緒的なはからいの入らない世界である。*真如不昧は真如(根源的実相)は昧(クラマ)さない。「昧(クラマ)すことができない」ではない。可能不可能を越えた絶対のありよう。

今、研究している器之為璠禅師(1404~1467)という禅僧の遺偈は残念ながら残されていない。

今日は亀田興毅というボクサーが世界チャンピオンになった。一ラウンドからダウンしたし、四ラウンドか五ラウンドで、もう一回ダウンしたのでどうなるかと思ったが、判定勝ちで勝利を勝ちとった。努力の賜物であろう。負けたファン・ランダエタ選手も勝っていた試合だと思う。甲乙付けがたい試合であった。

海で溺れて亡くなった、ボクサーのタコちゃんのことを突然思い出した。友達と言うほどではないが、よく出会った知り合いである。このブログをお読みの方で知っている人がいてくれたら嬉しいが。額の前でねじった髪型が懐かしい。さて彼ならばこの試合の判定をなんと言っただろうか。

こんな日に遺偈について書くのもどうかと思うが、彼の快挙については多くのブログで紹介されるであろうから、私が見たカウンターパンチかアッパーカットならぬ遺偈をご紹介した。

短い語の中に真理を表す偈が作れるような境涯にまでなれるか、やはり努力にかかっている思う。若いボクサーの血の滲むようなトレーニングに学ぶことは多い。しかしこの私、方向違いの努力をしてはいまいか。反省し、精進し、反省し、精進して、やがて………幻は幻………に去るのみ。