先日本屋で曽野綾子の「老いの才覚」という新書が目に留まった。 「曽野綾子」、クリスチャンの
女流作家である。略歴に1931年生まれと書いてあるから79歳である。 79歳なら充分に年寄り
である。「老いの才覚」とは何か?彼女の経験知からのものであろうと思う。今後自分が年を重ね
て行く上で何を心がけておかなければいけないのか?、そんなことを思い、読んでみることにした。
以下、本の抜粋である。
老齢になって身につける「老人性」に大きく二つある。一つは利己的になること、もう一つは忍耐が
なくなってくることである。自分を若々しく保ちたいなら、まず利己心を改め忍耐力を養うことである。
若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人である。
最近の年寄りは「老人だから、○○してもらって当たり前」と思っている人が多い。「高齢である」と
いうことは「若年である」ということと同じ一つの状態を示しているだけにすぎない。それは善でも無く、
悪でも無く、資格でも功績でも無い。
老いの基本は「自立」と「自律」である。自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること、自分の
才覚で生きることである。そして少なくても生きようと希 (こいねが)うことである。老人といえども
強く生きなくてはならない。歯を食いしばってでも、自分のことは自分でする。それは別にみじめな
ことでははなく、誰にも与えられた人間共通の運命なのである。
愛情というのは、手を出すことよりむしろ見守ること、「してもらう」という立場は意外と当人に幸せを
与えないものである。してもらうことを期待していると、ついつい不満が募ってつい愚痴がでてくる。
老人の愚痴は他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもない。
どんなに大変だろうと「自分でやる」、自分でやるという自己の誇りほど快いものはない。それから
できるだけ若い世代に負担を掛けさせないようにしようと思うのが当然のスタンスである。そして、
仕方なしに人に何かやってもらう時は、対価を払う心構えが必要である。
老年は一つ一つできないことを諦め、捨てて行く時代なのである。執着や俗念と闘って人間の運命
を静かに受容することは、理性とも勇気とも密接な関係があるはずである。諦めとか、禁欲とかいう
行為は晩年を迎えた人間にとって素晴らしく高度な精神の課題だと私は思うのである。
人間は別離でも、病気でも、死でも一人で耐えるほかないのである。一口でいえば老年の仕事は
孤独に耐えること。そして孤独だけがもたらす時間の中で自分はどういう人間で、どういうふうに生
きて来て、それにどういう意味があったのか?それを発見し死ぬのが人生の目的のような気がする。
孤独は決して人にとって本質的に慰められるものではないのであろう。たしかに友人や家族は心を
かなり賑やかにはしてくれるが、本当の孤独というものは友にも親にも配偶者にも救ってもらえない。
歳をとると、一緒に遊べる友達がだんだん減ってくる。だからちょっと喫茶店へ入って本を読んだり、
一人で映画を見に行ったり、と一人で遊ぶ癖をつけていた方がいい。人生は旅だから、一人旅が
できないのは象徴的な意味で困ったことになる。一人で計画を立て、一人で時刻表をみて切符を
買って、自分で確認しながら実行に移す、そして刻々と変わる景色を楽しみ、出会いを楽しむ。
一人で考え、一人で行動し、一人でも楽しめる、そんなことに慣れてくれば老年も楽しくなる。
その人の生涯が豊かであったかどうかは、その人がどれだけこの世で「会ったか」によって図られる。
人にだけではなく、自然や出来事やもっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのである。
何も見ず、誰にも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きて
いなかったのではないか、という気さえするのである。
だから老年にも「こんなに面白いことがあるのか」と思うような体験をしてほしいし、いくつになっても
「出会い」を求め続けて欲しいと思うのである。 どんなことにも意味を見いだし、人生をおもしがる。
人間というものは、どんな状況も足場にしなくてはならない。孤独なら孤独でそれをスタンドポイント
にして、自分がおもしろいと思うことをやって 行くしかないのである。
時には徳のある老人がいる。「徳性を有する」とはどういうことか、規定することは難しいのであるが、
一つの目安はどんなことにも意味を見出し、どれだけ人生をおもしろがれるかということだろうと思う。
通常、年を重ねた人は、世間の事柄を分析することと、その奥にあるひそかな理由を推測することに
長けてくるのである。だから簡単には怒れなくなる。しかし最近、分別盛りの中年や老年の中にも、
直ぐ怒る人が増えてきたような気がして仕方がない。そういう年寄りはたぶん自分の立場や見方だけ
に絶大な信用をおく幼児性が残っているのだろう。銘々が自分の生き方と好みをきちんと確立し、
人と同じではないことにたじろがず、自分と違う人を拒否せず、そしてどんな相手にも、どんな生き方
にも、どんな瞬間にも、どんな運命にも、意味を見つける。これはもう芸術家のようなものである。
死は願わしいことではないが必ずやってくる。願わしくないことを超えるには、それから目をそらさして
はいけない。死は確固としたその人の未来だから、死を考えるということは前向きな姿勢なのです。
明日、自分の身になにが起こるか判らない。今日は歩けて、ご飯が食べられたけれど、明日は口
がきけなくなるかもしれない、目が見えなくなるかもれない。明日の保証はないと覚悟する。これが
老年の身だしなみなのである。常に過去にあった、いいこと楽しかったことをよく記憶しておいて、
いつもその実感 とともに生きればいい。これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでも
良いということである。
老年は一日一日弱り、病気がちになるという絶対の運命を背負っている。いわば負け戦みたいなの
である。もうそろそろ死んでも良い年なのだから、自由に穏やかな気分でいよう。人生はどこで どう
なるかわからないから、そういう気持ちはいつも待ったほうがいいと思う。人間はいくつになっても
死の前日までも生き直すことができる。最後の一瞬まで、そのひとが生きて来た意味の答えは出な
いかもしれないのであるから。
一生の間に、ともかく雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活をできたのなら、
そのひとの人生は基本的に「成功だった」と思う。もしその家に風呂やトイレがあり、健康を害する
ほどの暑さや寒さから守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身につけて暮らす
ことができ、毎日美味しい食事をとり、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療をうけられるような
生活 ができたなら、その人の人生は地球レベルでも「かなり幸運」なのである。もしその人が、自分
の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り人生の一部を選ぶことができ、自由に
旅行をし、 好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、好意をうけたら、
もうそれだけで、その人の人生は文句なしに「大成功」だったと言えるのではないだろうか。
本を読み終わって感じることがある。
年を取ってくるとくると体も精神も柔軟性がなくなってくるように思う。昔の同僚に会って話すとそれが
よくわかる。「あの管ではだめだ!」「あの鳩山はとんでもない奴だ!」「海老蔵はへたくそなくせに、
自分を過信しすぎている。あんな奴は歌舞伎界から追放すべきだ」「今のテレビはくだらない番組が
多すぎる。どこもかしこも安いお笑いタレントを使って、」「今の連中は携帯やパソコンにたよりすぎる
から漢字も書けない、・・」「中国は・・・」「北朝鮮は・・・」「日本人は・・・」「今の若い奴は・・・」等々、
世の中や相手を批判することで、自分が上に立っているような優越感を得、自分の意見が際立ち
注目を集めると思うのであろう。しかしそれは錯覚で、往々にして思惑とは反対になる場合が多い。
聞いている方は聞き辛いし、それはただマスコミの論調に乗っているだけで、なんら生産的ではなく、
世の中の変化を理解しようともしないし、受け入れようともしない年寄りの特徴のように思うのである。
私自身も無自覚に年を重ねていけば、世間に対して不満タラタラの年寄りになって行くのであろう。
今は幸い現役で、社会の変化を肌で感じ、回りに若い人がいるから、そういうことから免れている。
しかしいずれリタイアして、本に書いてあるように「孤独」の世界に生きるようになるだろう。その時の
為の「自立」と「自律」、今から意識しておかねばならないように思っている。
女流作家である。略歴に1931年生まれと書いてあるから79歳である。 79歳なら充分に年寄り
である。「老いの才覚」とは何か?彼女の経験知からのものであろうと思う。今後自分が年を重ね
て行く上で何を心がけておかなければいけないのか?、そんなことを思い、読んでみることにした。
以下、本の抜粋である。
老齢になって身につける「老人性」に大きく二つある。一つは利己的になること、もう一つは忍耐が
なくなってくることである。自分を若々しく保ちたいなら、まず利己心を改め忍耐力を養うことである。
若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人である。
最近の年寄りは「老人だから、○○してもらって当たり前」と思っている人が多い。「高齢である」と
いうことは「若年である」ということと同じ一つの状態を示しているだけにすぎない。それは善でも無く、
悪でも無く、資格でも功績でも無い。
老いの基本は「自立」と「自律」である。自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること、自分の
才覚で生きることである。そして少なくても生きようと希 (こいねが)うことである。老人といえども
強く生きなくてはならない。歯を食いしばってでも、自分のことは自分でする。それは別にみじめな
ことでははなく、誰にも与えられた人間共通の運命なのである。
愛情というのは、手を出すことよりむしろ見守ること、「してもらう」という立場は意外と当人に幸せを
与えないものである。してもらうことを期待していると、ついつい不満が募ってつい愚痴がでてくる。
老人の愚痴は他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもない。
どんなに大変だろうと「自分でやる」、自分でやるという自己の誇りほど快いものはない。それから
できるだけ若い世代に負担を掛けさせないようにしようと思うのが当然のスタンスである。そして、
仕方なしに人に何かやってもらう時は、対価を払う心構えが必要である。
老年は一つ一つできないことを諦め、捨てて行く時代なのである。執着や俗念と闘って人間の運命
を静かに受容することは、理性とも勇気とも密接な関係があるはずである。諦めとか、禁欲とかいう
行為は晩年を迎えた人間にとって素晴らしく高度な精神の課題だと私は思うのである。
人間は別離でも、病気でも、死でも一人で耐えるほかないのである。一口でいえば老年の仕事は
孤独に耐えること。そして孤独だけがもたらす時間の中で自分はどういう人間で、どういうふうに生
きて来て、それにどういう意味があったのか?それを発見し死ぬのが人生の目的のような気がする。
孤独は決して人にとって本質的に慰められるものではないのであろう。たしかに友人や家族は心を
かなり賑やかにはしてくれるが、本当の孤独というものは友にも親にも配偶者にも救ってもらえない。
歳をとると、一緒に遊べる友達がだんだん減ってくる。だからちょっと喫茶店へ入って本を読んだり、
一人で映画を見に行ったり、と一人で遊ぶ癖をつけていた方がいい。人生は旅だから、一人旅が
できないのは象徴的な意味で困ったことになる。一人で計画を立て、一人で時刻表をみて切符を
買って、自分で確認しながら実行に移す、そして刻々と変わる景色を楽しみ、出会いを楽しむ。
一人で考え、一人で行動し、一人でも楽しめる、そんなことに慣れてくれば老年も楽しくなる。
その人の生涯が豊かであったかどうかは、その人がどれだけこの世で「会ったか」によって図られる。
人にだけではなく、自然や出来事やもっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのである。
何も見ず、誰にも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きて
いなかったのではないか、という気さえするのである。
だから老年にも「こんなに面白いことがあるのか」と思うような体験をしてほしいし、いくつになっても
「出会い」を求め続けて欲しいと思うのである。 どんなことにも意味を見いだし、人生をおもしがる。
人間というものは、どんな状況も足場にしなくてはならない。孤独なら孤独でそれをスタンドポイント
にして、自分がおもしろいと思うことをやって 行くしかないのである。
時には徳のある老人がいる。「徳性を有する」とはどういうことか、規定することは難しいのであるが、
一つの目安はどんなことにも意味を見出し、どれだけ人生をおもしろがれるかということだろうと思う。
通常、年を重ねた人は、世間の事柄を分析することと、その奥にあるひそかな理由を推測することに
長けてくるのである。だから簡単には怒れなくなる。しかし最近、分別盛りの中年や老年の中にも、
直ぐ怒る人が増えてきたような気がして仕方がない。そういう年寄りはたぶん自分の立場や見方だけ
に絶大な信用をおく幼児性が残っているのだろう。銘々が自分の生き方と好みをきちんと確立し、
人と同じではないことにたじろがず、自分と違う人を拒否せず、そしてどんな相手にも、どんな生き方
にも、どんな瞬間にも、どんな運命にも、意味を見つける。これはもう芸術家のようなものである。
死は願わしいことではないが必ずやってくる。願わしくないことを超えるには、それから目をそらさして
はいけない。死は確固としたその人の未来だから、死を考えるということは前向きな姿勢なのです。
明日、自分の身になにが起こるか判らない。今日は歩けて、ご飯が食べられたけれど、明日は口
がきけなくなるかもしれない、目が見えなくなるかもれない。明日の保証はないと覚悟する。これが
老年の身だしなみなのである。常に過去にあった、いいこと楽しかったことをよく記憶しておいて、
いつもその実感 とともに生きればいい。これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでも
良いということである。
老年は一日一日弱り、病気がちになるという絶対の運命を背負っている。いわば負け戦みたいなの
である。もうそろそろ死んでも良い年なのだから、自由に穏やかな気分でいよう。人生はどこで どう
なるかわからないから、そういう気持ちはいつも待ったほうがいいと思う。人間はいくつになっても
死の前日までも生き直すことができる。最後の一瞬まで、そのひとが生きて来た意味の答えは出な
いかもしれないのであるから。
一生の間に、ともかく雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活をできたのなら、
そのひとの人生は基本的に「成功だった」と思う。もしその家に風呂やトイレがあり、健康を害する
ほどの暑さや寒さから守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身につけて暮らす
ことができ、毎日美味しい食事をとり、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療をうけられるような
生活 ができたなら、その人の人生は地球レベルでも「かなり幸運」なのである。もしその人が、自分
の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り人生の一部を選ぶことができ、自由に
旅行をし、 好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、好意をうけたら、
もうそれだけで、その人の人生は文句なしに「大成功」だったと言えるのではないだろうか。
本を読み終わって感じることがある。
年を取ってくるとくると体も精神も柔軟性がなくなってくるように思う。昔の同僚に会って話すとそれが
よくわかる。「あの管ではだめだ!」「あの鳩山はとんでもない奴だ!」「海老蔵はへたくそなくせに、
自分を過信しすぎている。あんな奴は歌舞伎界から追放すべきだ」「今のテレビはくだらない番組が
多すぎる。どこもかしこも安いお笑いタレントを使って、」「今の連中は携帯やパソコンにたよりすぎる
から漢字も書けない、・・」「中国は・・・」「北朝鮮は・・・」「日本人は・・・」「今の若い奴は・・・」等々、
世の中や相手を批判することで、自分が上に立っているような優越感を得、自分の意見が際立ち
注目を集めると思うのであろう。しかしそれは錯覚で、往々にして思惑とは反対になる場合が多い。
聞いている方は聞き辛いし、それはただマスコミの論調に乗っているだけで、なんら生産的ではなく、
世の中の変化を理解しようともしないし、受け入れようともしない年寄りの特徴のように思うのである。
私自身も無自覚に年を重ねていけば、世間に対して不満タラタラの年寄りになって行くのであろう。
今は幸い現役で、社会の変化を肌で感じ、回りに若い人がいるから、そういうことから免れている。
しかしいずれリタイアして、本に書いてあるように「孤独」の世界に生きるようになるだろう。その時の
為の「自立」と「自律」、今から意識しておかねばならないように思っている。
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