今回は越生線の西大家から西武新宿線の入曽駅までである。今までは田園風景が広がる中を歩いていたが、坂戸市から日高市、狭山市と移ってきて次第に民家が多くなり、工場や配送センターが点在するようになってきた。鎌倉街道も幹線道路に接触する頻度が高くなり車が多くなると、昔し道を歩いているという楽しさはなくなり、ただ街中を歩いていているという感覚になってくる。そういう気分も1日中どんよりした曇り空で、晴れやかさがなかったことも影響しているのかもしれない。
東武越生線 西大家駅
平成22年建立の新しい馬頭観音
古い馬頭観音
あちこちが削られ破損の大きさがわかる
鎌倉街道案内板
水は澄んでいる
この当りは送電の鉄塔が林立する
東京電力変電所
一直線の道
境橋
女影踏切
JR川越線
霞野神社
村社の諏訪神社が前身。明治43年に女影村と中沢村の
白髭神社をはじめ12社を合祀して、現在の社名に改称した
境内を掃除する地元の人
女影ヶ原古戦場跡
鎌倉幕府最後の執権、北条高時の遺児・時行が
起こした「中先代の乱」の初戦が行われた地
無人販売店 どれも100円
わら束は2束100円
鎌倉街道上道碑
国道299号線との交差点は鎌倉街道交差点
圏央道の陸橋
このあたりから狭山工業団地
智光山公園
東京ドーム11個分の広大な敷地の総合公園
大日本印刷の狭山工場
影隠地蔵
木曽義仲は嫡子・義高を人質に差し出して、源頼朝と和睦し
頼朝は娘・大姫と義高を婚約させた。しかし平和は続かず
義仲は頼朝に討たれる。義高の命も狙われ、大姫の計らいで
逃げる道中、この地蔵の影に隠れて、追っ手から逃れたという。
鎌倉街道が右側
新富士見橋
入間川
河川敷には台風の痕跡が残る
清水八幡宮
影隠地蔵で難を逃れた源義高だったが、結局は入間川の川原で斬殺される。
悲しんだ北条時子は壮麗な神社を建立し、義高を祀ったという。
応永9年(1402)の大洪水で流失。後年石の祠が見つかり現在の地に建立。
徳林寺
徳林寺 観音堂
元弘3年(1333)、鎌倉攻めの本陣を置いた新田義貞が
守護神を安置する堂舎を建てたのが始まり。
八幡神社
土地の神を鎮めるために埋めたと考えられる「砂破利のつぼ」が
大正12年に出土。その製作年代から、室町時代には創建したと
思われる。伝承では新田義貞が鎌倉攻めで戦勝祈願し、そう後も
篤く信仰し、一時は「新田の八幡宮」と称されたという。
新田義貞駒繋の松
西武新宿線 狭山市駅
駅の構内を渡る
県道50号
コーセー狭山工場
茶畑
野々宮神社
社伝によると、奈良時代に朝廷の命で創建され、祭神の倭姫命を奉斎とする
とともに、入間路(古代の官道)の警戒と七曲井の管理を担ったという。
七曲井
当時はまだ竪堀り井戸を掘る技術がなく、すり鉢状に
掘り下げていることから、平安中期のものと思われる。
不老川
入間野神社
建久2年(1191)に国井神社として創建されたと伝わり、水の神、井戸の神と
崇められた。明治44年に水野地区の浅間神社と合祀。南入曽の「入る」と
水野の「野」、そして神社の敷地が2地区の間に立つことから「間」を選び
現在の「入間野」神社となった。
金剛院
創立年代は不祥ながら、天文2年(1533)に中興し、
慶安2年(1649)には徳川家光から十石の朱印状を得ている
入曽駅前通り
西武新宿線 入曽駅
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