
12月に入った。12月になると年賀状を書かなければならないと思うと、何となく気が重くなる。
出せば年賀状は返って来る。くるからまた翌年年賀状を出す。その繰り返しで続いてきたように思う。
毎年々、ある種、義務感のようなもので出し続けていたが、今は自分にとっては必須なことだと思う。
年賀状を初めて書いたのは7、8歳の頃、母方の同じ歳の従兄弟に宛てて出したのが最初であろう。
毎年夏休みには母の田舎に行き、1週間も10日も真っ黒になって遊んでいて、大の仲良しだった。
「元気ですか僕も元気です。今年も夏休み遊ぼうね」毎年定型の文章で親に笑われた記憶がある。
それから50数年、その従兄弟とは途絶えることなく年賀状のやり取りが続いている。
結婚し、子供が生まれ、折々の子供の成長や仕事での転居等、毎年の年賀状で消息を知っている。
今は定年して、生まれ故郷の山口県に引っ越し、夫婦2人で暮らしている。
二番目に長いのは高校の友人だろう。卒業以来一度も会っていないが今も変わらず賀状は来る。
彼は外国航路の貨物船の機関士になった。年に何回かしか日本に戻って来れない仕事のようだが、
それでも毎年年賀状は送られてきた。そして十数年前に船舶不況で船を下りたと年賀状で知った。
その後どんな仕事をしているか知らせてこないし近況も書いていない。たぶん引退したのだろう。
従兄弟にしても、この旧友にしても、もし会うことがあれば「おう、久しぶりだな・・・」と話せるだろう。
しかし敢えて逢いたいとは思わない。昔の思い出を壊される感じがするように思うからなのだろう。
自分の脳裏にあるそれぞれの面影は、無邪気に遊んでいた10代そのままの姿で保存されている。
逢えば一気にタイムスリップして現実になってしまう。それは浦島太郎の玉手箱のようなものだろう。
思い出を壊したくない。だから年賀状のやり取りだけでいい。電話で声を聞くのも遠慮したい。
社会人になってからは、年賀状の相手は儀礼的なものが多く、枚数も増えていったように思う。
しかし60歳を越してくると、年々年賀状の枚数は減り、儀礼的なものは徐々に淘汰されて来た。
今は120枚程度の賀状が行き来している、その内10年以上逢っていない人は半数くらいであろう。
もうこの先その人達に逢う事もないだろう。それでも私の方から年賀状を出さなくなることはない。
自分の人生の中でその時々で、遊び、一緒に仕事をし、酒を飲み、そして語らった人たち。
年賀状を貰うことで1年に1度その人のことを思いだし、1年に1度私のことを思い出してくれるだろう。
年賀状の人は私が生きてきた証として、かろうじて細い糸で繋がっている人達だと思うことがある。
年賀状はしだいに遠のいていく人達と、まだ繋がっていることを実感させてくれる手段かもしれない。
出せば年賀状は返って来る。くるからまた翌年年賀状を出す。その繰り返しで続いてきたように思う。
毎年々、ある種、義務感のようなもので出し続けていたが、今は自分にとっては必須なことだと思う。
年賀状を初めて書いたのは7、8歳の頃、母方の同じ歳の従兄弟に宛てて出したのが最初であろう。
毎年夏休みには母の田舎に行き、1週間も10日も真っ黒になって遊んでいて、大の仲良しだった。
「元気ですか僕も元気です。今年も夏休み遊ぼうね」毎年定型の文章で親に笑われた記憶がある。
それから50数年、その従兄弟とは途絶えることなく年賀状のやり取りが続いている。
結婚し、子供が生まれ、折々の子供の成長や仕事での転居等、毎年の年賀状で消息を知っている。
今は定年して、生まれ故郷の山口県に引っ越し、夫婦2人で暮らしている。
二番目に長いのは高校の友人だろう。卒業以来一度も会っていないが今も変わらず賀状は来る。
彼は外国航路の貨物船の機関士になった。年に何回かしか日本に戻って来れない仕事のようだが、
それでも毎年年賀状は送られてきた。そして十数年前に船舶不況で船を下りたと年賀状で知った。
その後どんな仕事をしているか知らせてこないし近況も書いていない。たぶん引退したのだろう。
従兄弟にしても、この旧友にしても、もし会うことがあれば「おう、久しぶりだな・・・」と話せるだろう。
しかし敢えて逢いたいとは思わない。昔の思い出を壊される感じがするように思うからなのだろう。
自分の脳裏にあるそれぞれの面影は、無邪気に遊んでいた10代そのままの姿で保存されている。
逢えば一気にタイムスリップして現実になってしまう。それは浦島太郎の玉手箱のようなものだろう。
思い出を壊したくない。だから年賀状のやり取りだけでいい。電話で声を聞くのも遠慮したい。
社会人になってからは、年賀状の相手は儀礼的なものが多く、枚数も増えていったように思う。
しかし60歳を越してくると、年々年賀状の枚数は減り、儀礼的なものは徐々に淘汰されて来た。
今は120枚程度の賀状が行き来している、その内10年以上逢っていない人は半数くらいであろう。
もうこの先その人達に逢う事もないだろう。それでも私の方から年賀状を出さなくなることはない。
自分の人生の中でその時々で、遊び、一緒に仕事をし、酒を飲み、そして語らった人たち。
年賀状を貰うことで1年に1度その人のことを思いだし、1年に1度私のことを思い出してくれるだろう。
年賀状の人は私が生きてきた証として、かろうじて細い糸で繋がっている人達だと思うことがある。
年賀状はしだいに遠のいていく人達と、まだ繋がっていることを実感させてくれる手段かもしれない。
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