男の子は誰でもだろう、私も子供のころ、街を走っていた路面電車の運転手にあこがれたことがある。
いつも電車の運転席のそばに立って、運転手の一挙手一投足をじいっーと見入っていた。
そんな憧れがあったからであろう、いまでも通勤時に山手線の電車の一番前に乗ることが多い。
軌道の上を深く突き刺さるように進む電車、景色が迫り後方へ流れ飛ぶ、満員のプラットホームの
こぼれそうな人波が危うい、警笛をならし滑り込んでピタリと停まる、そんな光景を見て楽しんでいる。
今日乗った電車は女性が運転していた。見習い期間中なのか隣に年配の職員が乗っている。
ポニーテールの髪を帽子の後ろから出し、白い手袋に、ヒールのない靴、颯爽としてすがすがしい。
女性車掌のアナウンスは時々聞いたことはある。タクシーやバスの運転で女性を見かけることもある。
しかし列車の運転は初めてである。「とうとう、ここまで女性が進出してきたのか」それが感想である。
20数年前であろうか、男女雇用機会均等法というのが出来て、雇用に関する考え方が変わった。
我々が働き始めた頃は女性の深夜残業や早朝出勤は禁止されていたように思う。
棚卸などで残業がある場合など、店長から「女性は10時までに返すように」とお達しがあった。
また、残業時間や休日労働や生理休暇なども、ある種女性保護の立場に立っていたように思う。
それが「男女雇用機会均等法」の施行から、しだいに男女の実質的な区別がなくなっていった。
それは良い部分も悪い部分もあるのだろうが、女性の働く場は確実に広がって行ったように思う。
「会社は社員の募集及び採用につき、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならない」
と言う法律があれば、JRは運転者募集に女性の志願があれば、それを拒否はできないであろう。
性差による社会的な区別や差別はまだまだ残るものの、それも次第になくなっているようである。
考えてみれば電車の運転は男性でなければいけないという理由を探す方が難しいかもしれない。
自動制御された電車、そんなに熟練はいらないのだから女性がやることに何の問題もないであろう。
そういえば以前九州に出張の帰り、下関まで乗った関門海峡の連絡船は若い女性の船長だった。
船乗りと言えば男性という認識があり、その時も今までの自分の常識の古臭さを思ったものである。
しかし、あくまでも雇用の機会が均等ということであって、性差により当然適不適はあるように思う。
看護師や保育園幼稚園の先生などを男性がやってもいいだろう、しかし少し違和感と抵抗がある。
昨日の新聞のコラムに「自衛隊で初めて女性自衛官が護衛艦に配属された」という記事があった。
平和な時代の運航は良いが、いざ戦闘となったとき、はたして大丈夫なのであろうかと思ってしまう。
まあ、女性のプロ野球のピッチャーはご愛敬であるが、しかし実際に火の中に飛び込む消防士や
体力的にハードでなければ務まらない現場の自衛官など、やはり男性の職場のように思うのである。
そう考えることは古臭いのであろう、世の中の変わり様に私もついていけなくなったのかもしれない。
今の世の中、女性の方がはるかに元気がいい。コンサートや美術館に行っても大半が女性である。
習い事や勉強会も女性の為にあるような感じがする、家庭での買い物は女性に権限が移っている。
女性が社会進出するに従って、女性自身の意識も変わってきたようである。しかし男は以前のまま。
反対に女性にあおられ、男性は自分自身を見失っているようにも思えてくる。
先日読んだある女性のブログに書いてあった。
男性は仕事人である前に「男」で在ってほしい。「男」とは、どっしりと構えて、ブレないこと。
それから内なる信念を持ってほしい。それは頑固ということではない。
誤魔化さない、逃げない,、そしていつも身綺麗であれ、そのような願望が書いてあった。
男女に聖域がなくなった現在、男のメンツを保つのは、こんなことこそが重要なのかもしれない。
いつも電車の運転席のそばに立って、運転手の一挙手一投足をじいっーと見入っていた。
そんな憧れがあったからであろう、いまでも通勤時に山手線の電車の一番前に乗ることが多い。
軌道の上を深く突き刺さるように進む電車、景色が迫り後方へ流れ飛ぶ、満員のプラットホームの
こぼれそうな人波が危うい、警笛をならし滑り込んでピタリと停まる、そんな光景を見て楽しんでいる。
今日乗った電車は女性が運転していた。見習い期間中なのか隣に年配の職員が乗っている。
ポニーテールの髪を帽子の後ろから出し、白い手袋に、ヒールのない靴、颯爽としてすがすがしい。
女性車掌のアナウンスは時々聞いたことはある。タクシーやバスの運転で女性を見かけることもある。
しかし列車の運転は初めてである。「とうとう、ここまで女性が進出してきたのか」それが感想である。
20数年前であろうか、男女雇用機会均等法というのが出来て、雇用に関する考え方が変わった。
我々が働き始めた頃は女性の深夜残業や早朝出勤は禁止されていたように思う。
棚卸などで残業がある場合など、店長から「女性は10時までに返すように」とお達しがあった。
また、残業時間や休日労働や生理休暇なども、ある種女性保護の立場に立っていたように思う。
それが「男女雇用機会均等法」の施行から、しだいに男女の実質的な区別がなくなっていった。
それは良い部分も悪い部分もあるのだろうが、女性の働く場は確実に広がって行ったように思う。
「会社は社員の募集及び採用につき、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならない」
と言う法律があれば、JRは運転者募集に女性の志願があれば、それを拒否はできないであろう。
性差による社会的な区別や差別はまだまだ残るものの、それも次第になくなっているようである。
考えてみれば電車の運転は男性でなければいけないという理由を探す方が難しいかもしれない。
自動制御された電車、そんなに熟練はいらないのだから女性がやることに何の問題もないであろう。
そういえば以前九州に出張の帰り、下関まで乗った関門海峡の連絡船は若い女性の船長だった。
船乗りと言えば男性という認識があり、その時も今までの自分の常識の古臭さを思ったものである。
しかし、あくまでも雇用の機会が均等ということであって、性差により当然適不適はあるように思う。
看護師や保育園幼稚園の先生などを男性がやってもいいだろう、しかし少し違和感と抵抗がある。
昨日の新聞のコラムに「自衛隊で初めて女性自衛官が護衛艦に配属された」という記事があった。
平和な時代の運航は良いが、いざ戦闘となったとき、はたして大丈夫なのであろうかと思ってしまう。
まあ、女性のプロ野球のピッチャーはご愛敬であるが、しかし実際に火の中に飛び込む消防士や
体力的にハードでなければ務まらない現場の自衛官など、やはり男性の職場のように思うのである。
そう考えることは古臭いのであろう、世の中の変わり様に私もついていけなくなったのかもしれない。
今の世の中、女性の方がはるかに元気がいい。コンサートや美術館に行っても大半が女性である。
習い事や勉強会も女性の為にあるような感じがする、家庭での買い物は女性に権限が移っている。
女性が社会進出するに従って、女性自身の意識も変わってきたようである。しかし男は以前のまま。
反対に女性にあおられ、男性は自分自身を見失っているようにも思えてくる。
先日読んだある女性のブログに書いてあった。
男性は仕事人である前に「男」で在ってほしい。「男」とは、どっしりと構えて、ブレないこと。
それから内なる信念を持ってほしい。それは頑固ということではない。
誤魔化さない、逃げない,、そしていつも身綺麗であれ、そのような願望が書いてあった。
男女に聖域がなくなった現在、男のメンツを保つのは、こんなことこそが重要なのかもしれない。
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