〔エピローグ〕
地には這いずりまわる者の音が満ち、
天には炎が満ちる。
オメガはアルファであり、点であり線であることを
その黄金の火柱の中に、人々は見いだすだろう。
自分たちの望み、願うものがこの中にあるのかを
翼を切り取られた者たちは、考えるだろう。
火を吹く楕円には解答は無い。
線を描く卵にも、解答は無い。
解答は地を這う者の中にある。
現実と呼んでいる夢の中から、砂金を探すように目を凝らし
耳を澄まし、声を大にして探せ。
これより先に舟を見つける手だては無い。
現実に目を凝らすと「現実」とは
王(タマ)がヒトアシに目をのっけて見ている実であることがわかる。
すなわち、われわれの霊(たま)が人としてこの世に降りて見ている夢なのだ。
耳を澄まし心に浮かぶのは「聖」という字。
この字は耳と呈がくっついている。
呈はよく通ることで神の声が耳によく通る人のことを聖という。
「聲」を大きくしてよく見ると、声と耳とハと又の組み合わせである。
聖(せい、しょう)と同じ音の聲(せい、しょう)は通じるものがある。
舟をどうしても見つけなければいけない大切なものような書き方をされてい
る。フネと訓で読むからピンとこない。シュウやセンと音で読む。
その次の「手だてはない」という表現も手の音、シュがヒントになっている。
そう、手だてはシュ立てということ。すなわち、主が立つということなのだ。
そうすると舟も音「シュウ」から主の音に通じる。つまり、われらの真の主を見つけるということである。シュウの音で辿ると終、祝、秋などに関連し一旦終わりの秋(とき)を迎えること。
現実の「現」は王と見る。「主」を「見」つける、と読める。
主の上のゝはひとつだが舟に乗っているチョンは二つである。
これは「母」の二つのチョンにも通ずる。
毋(なかれ)はよく似ている字であるがこちらは女が犯されるのを拒止する意という。
それゆえチョンが入っていない。
父も二つのチョンから発した交(かい)の字である。
この二つのチョンの特定がわれわれに委ねられているようだ。
父も母もその源を辿れば伊奘諾尊伊奘冉尊両神の二つのチョンから発する。
「これより先に」というのも「先」は之(ゆく)とヒトアシを合わせた文字で先に行った主ということを指している。
それが素盞鳴尊であり、饒速日尊であるのだろう。
以上をまとめると伊奘諾尊伊奘冉尊両神から発して先に行った主を見つけ
一旦終わりの秋(とき)を祝い、新たな現実の主を立てようということである。
fumio
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