monologue
夜明けに向けて
 




一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ
    黄泉の壺を手にすることなかれ
    英知は黄泉にも等しく与えられ
    神の御業に等しく映り その対を
    成す様に 定められたからである

一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも
    影が呼んでいると 常に
    心に止めおく様に
    天秤の左右 どちらかが重くなった時に
    真に求めている者の名を
    知るということを覚えておく様に

「光の黙示録」より

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「三四三」宇宙がなぜバランスを失っているいるのかの説明が古事記「黄泉國」の条の最後に記されていた。
最後其妹伊邪那美命、身自追來焉。
爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、
伊邪那美命言、「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞-殺千頭」。
爾伊邪那岐命詔、「愛我那迩妹命、汝爲然者、吾一日立千五百産屋」。
是以一日必千人死、一日必千五百人生也。
故、號其伊邪那美命謂黄泉津大神。


最後に伊邪那美命が、追って來たとき千引の石で塞がれた黄泉比良坂でその石を挟んで二人が向かいあって立って、伊邪那美命は「愛しき我が夫よ、此のようなことを為すのであれば、汝の国の人草を一日千人絞殺する」と言い、伊邪那岐命は「愛としい我妻よ、汝が爲すならば。私は一日に千五百の産屋立てる。」といわれた。これをもって一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生れるようになった。それで伊邪那美命は黄泉津大神と名付けられたということである。これは一見ドラマの感動的シーンのようである。

 しかしながらこのとき、イザナミは黄泉を司るものとして一日に千人黄泉に来させると宣言していたのであった。イザナギはそれにこたえて現世を司るものとして千五百人誕生させるという。なんと五百人も多いのである。これでは死を支点にした「三四三」の天秤が現世に傾くのだ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」千人に対しては千人。「黄泉の裁きを侵すことなかれ、黄泉の壺を手にすることなかれ」
fumio

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