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94/06/04 解かれた封印から赤い色を頼りに、隔り世から鬼が来る…
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2011年は再出発の年でそのために境界の封印は解かれた。
隔り世とこの世との境が通りやすくなり鬼たちがアクセスしやすくなったのだ。
吉田等だけではなくこの世の行く末に関心をもつ魂たちがわたしたちとともにこの星のより良き未来を開こうとしている。
吉田等はそのことを報せにやってきたのだろう。
fumio
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TONY YOSHIDAすなわち吉田等は1989年に壁画を完成してすぐ路上暴力によって死したという。かれが深酒をして前後不覚の状態で喧嘩になって殴り殺されたのならその時かれは肉体を離れても自分が死んだとは気づかなかっただろう。さまよいながら49日かかって隔り世に入り自分の死を受け入れるのに時間がかかったことだろう。そして2011年の今年死後22年も経過してやっと動けるようになったのだ。今回は転生を選ばずわたしたちとともに未来の子供たちのために地球存続を目指すのだろう。とはいっても霊が現世に直接に手を下すことは禁止されているのでサジェストするなりなんなりでそれとなく守護する形をとりそうだ。
fumio
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わたしのホームページやブログの読者に、あなたはなにものですか。というメールをもらうことがある。
宗教家でも霊能者でもない。ただの歌うたいだけど世俗的な欲望が少ないので神霊がアクセスして利用しやすいらしい。
利用するために首の骨を折ったり、脳内出血を起こしていらない部分を削ったのだろう。
人は死ねば終わりと思っているがそうでもないらしい。吉田等のように死んでからも友達に自分の作品を自慢したいという欲望があったのは面白い。
かれの遺作である壁画「FLIGHT OF ANGEL」は東西を代表する子供たちが日本風の襖を開いて光の世界に飛び立とうとしている構図だがそれはわたしの歌「わかりあえる日まで」と同じコンセプトである。この世界を良くしたいという願望があるようだ。そう、かれもまたこれからともに夜明けのために働く同志なのだ。
そうだね。吉田君。一緒にがんばろう。
fumio
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吉田等がまだなにか求めているようなので働いていたブルックスから検索するとロサンジェルス市の壁画サイトがヒットした。
するとトニー・ヨシダという名前の人がこんな壁画を描いていた。そういえばかれはヒトシはアメリカ人が呼びにくいのでトニーと名乗っていたということを思い出した。
この壁画の名前は“Flight of the Angel”でShozo Katagiri, Michael Clemente, Gaijin Fujita, Marcel Menard and David Salamonという人々に手伝ってもらって1989年に完成している。
縦550cm横 1066cmの大きさのアクリル壁画で場所はリトルトーキョーの3番街の現代ビルのクロッカーストリートに面した壁。日々リトルトーキョーを訪れる人々はかれの作品と対面しているのだ。なるほどこれが吉田等の代表作なのだ。
そしてTONY YOSHIDAをクリックすると
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Biographical Information
Born in Japan, Yoshida was a set designer as well as a muralist. He died shortly after completing his SPARC mural, a victim of street violence.
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という略歴が出てきた。かれは日本生まれの壁画デザイナーで壁画を完成してすぐ路上暴力によって死したということである。
吉田君わかったよ、この壁画を見てほしかったんだね。自慢の作品だったんだ。こんな立派な仕事を遺していたんだね。
きみの作風がよくでているいい作品だよ。ありがとう、教えてくれて…。じゃあ、また。
fumio
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昨日の吉田等の写真は1979年7月4日の時点のもので口髭を生やし髪を後ろで束ねていた。
その頃は梁山伯のような芸術家集団仲間とともに暮らしていた。そこで各種のドラッグ類を使用して絵を描いていたのだが、ある時、かれはアパートに転居した。わたしたち夫婦を招(よ)んで壁に飾った多くの曼荼羅画を見せてくれた。そして次に会った時にはデザイン会社に入社したと言っていた。ある絵画コンテストで優勝してブルックスというデパートのアートデザイン部門に雇われたのだ。その時はかれも髪を切り口髭も剃っていた。さっぱりした会社員という風情だった。ドラッグ類も絶って仕事に打ち込んでいるようだった。芸術家はやるべきことが終わると未練なく夭折してしまうけれどかれの場合はやるべきことが終わっていなかったように思われる。あのまま生きながらえていればきっと立派な仕事を遺したことだろう。合掌。
fumio
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曼荼羅画家、吉田等の消息を尋ねるコメントがついたのでかれの写真を掲載しておく。
かれだけを撮った写真はないので息子の一歳の誕生パーテイに集まってくれた仲間たちとの写真から吉田の顔だけをトリム。
かれの死はわたしが日本に帰国したあとロサンジェルスの仲間から報らされた。酒癖が悪いとは聞いていたがわたし自身がからまれたことはなくメキシカンたちに酒の上のイザコザで殴り殺されたと聞くと不思議な気がした。わたしにはいつもいい人だったから。米国での出来事なのでかれの情報はそれで途絶えた。命日も知らず時折かれの描いた曼荼羅を思い出すだけだったが今年やっとかれの意識のアクセスによって絵を数点わたしのブログに紹介して多くの人々の眼にかれの才能が触れる機会ができてうれしかった。吉田君、きみのかかわった人々がきみの行く末を知ってくれることがきみの望みだったんだね。わたしにアクセスしてくれた意味がやっとわかったよ。それじゃ、また。
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移転後、スタジオを整備していて久しぶりにレコードを聴こうとするとレコードプレーヤーについていたオルトフォンカートリッジの針が引越時に取れてなくなっていたのでネットでシュアーのM44Gカートリッジを注文した。
昨日届いたので取り付けようとすると抜いた白のシールド線が切れていたのでハンダ付けした。小さいボルトとナットがうまく締まらず取り付けに思いのほか時間がかかった。雑音が出るので調べるとアースのようでアースにつなぐと雑音はやんだ。米国ではオルトフォンに人気があったのでオルトフォンを使用していたのだがシュアーのカートリッジの音もすばらしい。ソニーのスピーカーでも島健も使用していたプロスタジオの小スピーカーの定番AURATONEスピーカーで聞いても高音質だった。これでやっとレコードをまともな音質で聴けるようになった。めでたしめでたし。
fumio
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十一という数が鍵であり再出発を意味するのであれば2月11日の建国記念日、神武天皇即位の日から日本は始まったということはどういうことなのか。
その頃は末子相続の時代で神武(伊波礼彦)天皇は日向の末子相続人の熊野楠日と玉依姫のもうけた末子で相続人だったので 大和の大王ニギハヤヒの末娘相続人の御歳(伊須気依姫)と大和で娶(めあわ)せられ養子に入ったのだった。
つまり日本はすでに大和の大王、饒速日(ニギハヤヒ)によって始まっていたのだが、神武はその末娘相続人である御歳と結婚して日向出雲の統一日本として再出発したのである。それが十一の数の意味するところであった。
fumio
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今日から9月。20011年もここまで進むとこの年の意味がわかるような気がする。やはり十一という数がキーになっているようである。
この数は「士」であり「土」。見える人には見える鍵である。
2と11が並ぶ2月11日の建国記念日は神武天皇即位の日として「紀元節」という祝日だった。この日から日本は始まった。
そして時は流れてあらゆる面で行き詰まってきた今年の3月11日には大震災と津波によってこれまで滞っていた物事が決着し再スタートを切ることになった。世界の脱原発の動きは一気に進んだ。
アラブ・アフリカでは独裁体制がネットによる民主化運動によって崩壊しつつある。わたしの身にもそれは起こり前の地での生活が突然終わり新しい地での生活が始まった。なにかの計画の一部に組み入れられているらしい。
fumio
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