monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその35
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海外にいる日本人たちは武器をもっていないかといえば、
わたしがベースとボーカルを頼まれてやっていたバンド「ケンちゃん」のリーダー谷岡ユキオは拳銃を3丁身に着けていた。脇に1丁、腰に1丁、脚に1丁。それぞれ用途の違うものをわたしに見せびらかして自慢していた。かれはラテンギター奏者でワンボックスカーに仕事用のボーカルアンプ、ラテンギター、譜面立て、などなどをいつも積んでいたのだがある時、アパートの地下駐車場でメキシカンたちが車のドアを開いて盗もうとするのを目撃した。それで車が揺れるとアパートの部屋で寝ていても警報が鳴る仕組みの防犯ブザー装置を装着しておいて待ったのだ。何日かして夜の仕事を終えて就寝中、枕もとのブザーが鳴った。きっと何者かがワンボックスカーをこじ開けようとしているのだ。ピストルをつかんで階段を駆け下りた。メキシカンのワルどもが車に集まって開けようとしていた。ユキオが走ってくるのに気づいて逃げようとした。ユキオは何発もぶっ放した。普段から射撃練習場で拳銃の扱い方は稽古していたのだが残念ながらというか幸いというか、当たらなかった。脅しにはなったらしく以来、メキシカンのワルたちは近寄らなくなったという。当たっていたらどうなったのだろう、と思う。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその34
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ある朝、妻が泣きながら帰ってきた。
息子を保育園に送って行って帰りの歩道上で正面から来るマイケル・ジャクソンに似たかっこいい黒人の若者を不審に感じて避けようとした。しかしそれは人種偏見による人種差別行為にあたるのではないか。それはよくないのではないか。あなたならどうするだろうか。ごく自然にゆきすぎるだろうか。しかし自然には行き過ぎられずすれ違いざまに肩に下げていた30ドル入りのポシェットを引きちぎられたという。追いかけたけれど逃げられたらしい。わたしは朝、2時にクラブのエンターテイナーの仕事を終わって帰宅して眠っていたので起きて警察に連絡したりしたが、やってきた警官は、それで済んでよかったということだった。当時はヒルサイドストラングラーと呼ばれる凶悪連続殺人事件が起こったりして近所の多くの家の窓は格子を取り付け防犯工事していた。格子のない窓を破ってだれかが入ってきて殺害するのだ。銃を規制しても凶器が変化するだけかもしれない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその33
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LAPDの男性署員たちは夜の巡回パトロールのコースを決めていた。毎日同じドーナッツショップで同じ時間に顔を合わせる。
毎日夜12時ぐらいに目をつけている麻薬売人の家にパトカーのヘッドライトを当てる。泳がせていてもいつも見張っていることをわからせるためである。ある日系女性の家にバーバラ・ストレイサンドの歌がうまい白人女性がいるから来てほしいというのでギターを持って夜10時頃友達と訪れるとLAPDの男性署員たちが夜の巡回パトロールにやってきた。毎日その時間にその家にパトロールに来るという。しばらく防犯の話をしてからわたしのギターに気づいてわたしたちに歌を歌えと所望した。それで真夜中のライヴになった。白人女性は追憶を歌いたいというのでギターで伴奏した。驚くほどうまかった。プロの歌手を目指しているらしい。署員たちは喜んでわたしにも歌えと迫る。スリードッグナイトクリーデンスクリヤウオーターなどを咆えるように歌うとびっくりしてもっと静かにウタッテという。羽目を外し過ぎてはいけないと自制したらしい。それでも少しは日頃の凶悪犯たちと対峙する時の厳しいストレスが吹き飛んだら良かった…。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその32
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アメフトや野球、バスケットボールなどを大画面で友達とワイワイ楽しむスポーツラウンジ酒場「燈り」のバーテンダーはLAPD(ロサンジェルス警察)の女性職員が夜バイトでやっていた。それで仲間の女性職員が連れ立って遊びにやってきた。どういうものかわたしの歌うウーマンウーマンが一時大人気になって彼女たちが現れるとリクエストされなくとも歌った。独身女性警察職員たちの心を打つらしかった。そしてある時同僚女性職員をアパートまで送ってやってくれと頼まれて仕事のあと、送って行ったものだった。警察関係とはいえ夜中の2時過ぎまで女性がうろついているとは…。日本では考えられない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその31
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その頃、ホールドアップ事件が多発していた。店のドアが突然開いて、脅しにエンターテイナーの頭上に一発発砲する。
ピストルを突き付けられると対応がむづかしい。あなたならどうするだろうか。LAPDのそばにあったスポーツラウンジ酒場「燈り」のマスター、ステイーヴ氏は武闘派で犯罪抑止効果のためにカウンターの下にでっかい拳銃をわざと見えるように置いていた。いつでもホールドアップに対処できるということだった。ところがある日、「フミオちゃん、昨日ヤラレタ。売上を持って外に出たとたん後ろから首にピストルを突き付けられた。」と残念がっていた。登録済みの銃は50ドルぐらいで登録していない銃は裏の組織で10倍ぐらい。そんな銃が犯罪に使用されるのだった。憲法修正2条で自衛のための武器の所持は認められている国なのでクラブの経営者は気を抜けない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその30
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宮下フミオの自宅、カールトンウエイスタジオをわたしが初めて訪れたその日、ショーケン、ジュリーのダブルボーカルバンド「ピッグ」やミッキー・カーチスの世界ツアーバンド「サムライ」、ガロの「学生街の喫茶店」「太陽にほえろ」「ガンダーラ」などでドラムを叩いた原田裕臣(ユージン)が宮下家での居候生活を打ち切って日本に帰って行った。楽器用ジェラルミンケースを記念に中島茂男に譲ってくれたのでマイク、ドラムマシン、フェイズシフター、ファズ、オーバードライブ、テープエコーマシンなどエフェクター類を入れて運ぶのにずいぶん役立った。世界的にデイスコが流行った頃、わたしと中島のふたり一緒にエンターテイナーとして入っている白龍飯店(インペリアルドラゴン)でデイスコダンスパーテイを開催したいというオファーがあった。インペリアルドラゴンは台湾系の店でチャイナ美人ホステス全員わたしたちのファンだったので英語のポップソング主体でパフォーマンスできた。女性マネージャーはオーナーの娘で気が強くて中島が交渉してもこちらの話を半分も聞いてくれなかった。普段の仕事ではドラムマシンでリズムを刻むのだがデイスコダンスならドラムマシンというわけにはゆかない。本物のドラムスでなければかっこよく客とまともに踊れない。ところが頼むべきドラムスのユージンは日本に帰ったので困った。それでもペイが150ドルと良かったのでダンスパーテイを引き受けてドラムスは本職ではないけれど一応叩くことができる宮下フミオに白羽の矢を立ててドラムを頼んだのだった。わたしはベースを弾きながら「ホールドオン」「エボニーアイズ」「プラウドメリー」「カントリーロード」「ウーマンウーマン」「ホテルカリフォルニア」などなど踊れそうなアメリカンヒットナンバーをなんでもかんでも歌った。チークダンス用に思い出のグリーングラス」マイウエイなどを歌った。白龍飯店(インペリアルドラゴン)はデイスコパーテイのたびに大盛況だったので大騒ぎのうちに大家族で食事をしたあとぱっと消える、食い逃げなどの被害によく遭っていた。女性マネージャーがまたやられたと悔しがっていた。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその29
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 そうこうするうちに宮下文夫にどこかの町のコンヴェンションセンターでのライヴの話しが入った。
そのライヴで使用するアンプの話しになった時、「島ちゃんがヤマハの初期のギターアンプをもっているから喚ぶ」と宮下が言った。島ちゃんとは本名、島健 で、ミッキーカーチスのバンドで渡米してそのままアメリカに滞在し、チック・コリアやジャズトランペッター、アル・ヴィズッティーのバンドに参加しているピアノ及び、キーボードプレィヤーだった。やってきた島は「昔、ギタープレィヤーだったからそのギターアンプをもっているんだ」と言っていた。それが現在日本でプロデューサーとして活躍してレコード大賞曲ツナミのストリングスアレンジなども行うことになる島の若き日の姿だった。
そのようにして「宮下のシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたし山下のベース、」という布陣のツアーバンドが始動したのだった。金儲けではないので出演料はなくパフォーマンスを行うこと自体が目的だった。ライヴ会場のコンヴェンションセンターに入ると次々にパフォーマンスが始まる。やはりアメリカはカントリーミュージックの国で、土地柄か他のバンドはほとんどカントリーバンドだった。その中で宮下文夫のバンドの演奏はかなり異質だっただろう。受けたのかどうかよくわからなかったけれど夜のクラブや酒場ではないアメリカの一般民衆の息吹に触れる経験ができて面白かった。アメリカツアーは各地のカントリークラブ、宗教施設、大学、アーケード、人の集まる所なら呼ばれるとどこででも演奏したが出演料を要求することはない。宗教の形ではなく人々と音楽で一体化してスピリチュアルな時間と空間を共有することが目的だった。日々の生活に要する費用は夜のクラブや結婚式その他のパーテイなどのイベントの演奏で捻出した。
そんなある日、宮下文夫が「今度、30才になるから改名する」と言い出した。日本にいる母親が、これまでは文夫で良かったけれど30才からは字画がもっと多いほうがいい、と言ってきたという。それで姓名判断で「富実夫」に決まったのであった。こうしてわたしたちの名前はずいぶん似た字面になった。だれがfumio miyashitaとfumio yamashita、 宮下富実夫と山下富美雄、こんな同じような名前をもつふたりを中島茂男という中の島を介して同じ時期に同じ場所に招き、同じ仕事をさせる計画を立てたのだろう。のちにわたしの誕生日(2月6日)が宮下富実夫の命日(2月6日)となることもすべて経綸(しくみ)であったのだろうか…。それはただの思い過ごしだろうか。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその28
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それでもそれを愛と呼べるのだろうか…。
 古い表現だがまるで万力で締め付けられるような気がした。
 背中から突然羽交い締めにあったのだ。頭の中ではジャック・ポットのようにつぎつぎにそんな冗談をしそうな友の顔が回転した。そのジャック。・ポットはついに止まって特定の像を結ぶことがなかった。わたしはふりほどこうともがいたがどうにもならない。相手の顔を覗こうとしたが見えない。時刻はそろそろ午前三時過ぎである。
 仕事が二時に終わって楽器類を片づけて店を出たのが二時半頃。ハーバー・フリーウェイからサンタモニカ・フリーウェイに乗り換える頃、おかしいなと感じた。後ろについていた車が離れない。不気味なものを感じた。スピードをあげていつものランプ(降り口)に達した。フリーウェイを降りるとさっきの車はついてこなかった。安心して家の前に停車した。後ろの座席に置いたギターを取りだそうとした、そのときだった。だれかが突然わたしを後ろから羽交い締めしたのである。フリーウエイを降りてからもきちんとつけられていたのだ。こうなれば必死で戦うしかない。友だちの可能性を捨ててむちゃくちゃに暴れた。やっと相手の腕がゆるんだ。そのすきに回転して向き直る。対峙すると相手は見知らぬ白人であることがわかった。その頃、連続強姦魔事件が取りざたされていて後ろからわたしの長髪を見て女性と勘違いして襲ってきたのかと思った。白人はおまえはキムじゃないのか、とわけのわからないことをいいながら逃げて行った。それから一晩中探照灯をかざすLAPD(ロサンジェルス市警)のヘリコプターがわたしのうちの上を飛び回っていた。だれかが電話したらしい。翌日、隣のアパートの住人に二階から見ていたけれどよく助かったね、うちの子供にもカンフーを教えてくれ、と頼まれた。わたしはカンフーは知らない、と断ったものだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその27
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1984年に製作された「カラテキッド(The Karate Kid)」邦題「 ベスト・キッド」という映画が世界的にヒットしたことがある。息子は空手が習いたい、と言いだし、映画で実際に指導していたのは寸止めではない出村先生の流派だったけれど近くのピコ通りにあった沖縄小林流空手道場に入門した。試合を見に行くと出村先生の流派のほうが優勢だった。
するとしばらくして前作のヒットを受けて続編「The Moment of Truth Part II(The Karate Kid, Part II)」邦題「ベスト・キッド2」が製作されるという噂が流れその作品に出演する本物のカラテキッドたちのオーデションがあるということだった。未成年なのでオーデションを受けるにはまず写真を持っていってどこかの芸能事務所に所属しなければならなかった。学校の成績がオールB以上という制限もあった。息子を連れていったオーデション会場には市内の多くの道場から少年たちが集まった。べつに空手を披露して見せるわけではなく、見かけで選び息子の通う道場で通ったのは息子だけだった。撮影の日に行くと午前中は撮影所の一角に別に設けられた部屋で補修授業を受けさせられた。そうしてハリウッドの映画界は学校に出られない子供達の学業が遅れないようにサポートしていたのである。やっと出番が来ると助監督が指揮して沖縄に似せたセットの坂道を歩かせた。ついていったわたしたち夫婦もその他大勢のエキストラとしてセットをうろうろと歩いた。空手道場の場面はなく一日中祭りのような雰囲気の中で歩いただけだった。撮影が終わると主役のダニエル ・ラルフ・マッチオが「おまえたち空手がんばれよ」と子供達に声をかけて車に乗り込んで帰っていった。子供が出演する映画は親も付ききりで大変なことがよくわかった。沖縄県人祭りで会ったパット・モリタは「アイ・ネヴァー・ラーンド・カラテ」とわたしに笑いかけた。
そのころのアメリカは子供の誘拐が流行っていて物騒だった。ミルクのパッケージに「ミッシング・チルドレン」として行方不明の子供たちの写真が印刷されていつも市民の情報を求めていた。それで親たちは自衛のためにキンダーガートゥンや小学校に子供を送り迎えしていた。わたしたちも息子の幼稚園小学校時代、送り迎えしていた。空手道場は小学校二年の子供が歩いて通うにはガラが悪い地区なのでその道場にも車で送っていった。映画「カラテキッド」の影響で道場は盛況だった。地区のせいかラテン系の生徒が多かった。そしてつぎにコリアン系が多く、黒人の生徒はひとりだった。わたしはいつも窓から稽古風景を見学していた。するとだんだんかれらの勢力図が見えてきた。先生のいうことをなかなかきかないラテン系のリーダーがいてみんなをしきっていた。どこにでも悪ガキはいる。
ある日、そのラテン系の生徒に練習をまかせて先生が休んだことがあった。わたしがいつものように息子を連れて行くとかれはみんなで遊び始めた。空手ではなくレスリングのようにつかみ合いして投げ合うのだ。わたしを子供の送迎をする甘いただの「親ばか」とみなしてべつに目の前で遊ぼうが平気だったらしい。
先生のいないのをいいことにわたしはその日初めてその道場に上がり、道着を貸してもらった。十数年ぶりに帯を締めてみんなにかかってこさせた。本気でつぎからつぎにつかみかかってくる生徒たちを全部柔道でひょいひょいと投げると、かれらはどうして歯が立たないのか不思議がっていた。わたしは中学高校と6年間柔道をやっただけだが日本でなんらかの武道の修業をした人にとってそんなことは不思議ではない。海外にいる日本人をみかけで判断するとえらい目にあう。かれらはサムライの魂をもって海外で活躍しているのだから。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその26
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 そんなある日、中島茂男は宮下文夫のバンドのライヴでギターを弾くから見に来てくれという。そのバンドはベースがロシア系白人でキーボードが黒人の混成バンドだった。その黒人はのちに喜多嶋舞の父、喜多嶋修のライヴでもキーボードを弾いていた。固定メンバーではなくその時その時でセッションメンバーとして集めるようだった。宮下は空手の形などを取り入れた東洋的な動作をして歌っていた。集中力がすごくて観客を惹きつける妖しい魅力を発していた。それは普通のロックバンドの範疇に入らない音だった。一緒に出るバンドはアメリカらしいハードロックやポップロックが多く宮下文夫のバンドは異彩を放っていた。それはアメリカツアーの一環だったらしい。のちにわたしもベースプレイヤーとして参加することになるのである。
fumio


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 カリフォルニアサンシャインその26
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中島茂男とふたりで仕事を始めた数軒のクラブでわたしと中島がアコースティックとエレクトリックのギターで一緒に演奏していると、ギターでオカズを入れたりする時、互いのフレーズがかぶることがよくあった。それで中島がわたしにアコースティックギターのかわりにベースを弾いたらどうか、と提案した。わたしはなるほどと思って次の日、楽器は古いほうが木の質が良いので中古楽器を探して日本の雑誌でもオールドギターの聖地として紹介されているサンセット通りの質、古道具店(pawn shop)をまわった。さすが世界のロックの中心地、何軒かまわるうちに目当てのロックベースの定番、 フェンダー・プレシジョン・ベースの状態がいいものがあった。すぐ購入して帰って一日中、教則本と首っ引きで基本的な弾きかたを覚えてその夜の仕事に使った。言い出しっぺの中島は演奏するそれぞれの曲のコードフィーリングが強まり曲想が深くなることに驚いていた。しっかりしたベースの上に構築する音楽は生きてくる。やはり何事も支えが大切であることを思い知った。突然クラブ「エンカウンター(邂逅)」で無理矢理のように邂逅させられて組み合わされて始めたバンドがやっとプロらしい本物の音を出し始めたのであった。ベースの重要性はよほど感性が優れているか実際に使用してみないとわからないものである。ベースは基音を弾くので弾きながら歌を歌うと声が安定するのだ。そんなわけでわたしは以来ベース弾きのボーカルになったのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその25
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 中島茂男は淡谷のり子が審査委員長を務めたロサンジェルスでの「海外のど自慢大会」でフォークの歌を歌って優勝したこともあったがそれでもLA(ロサンジェルス)の音楽関係ではなかなかいい仕事がなく、外に立っていると銃を構えた男たちが射ってきて頭の上のガラスに弾丸の穴があくようなリッカーストア(酒屋)の店員をしたりしていた。あまりいい環境とはいえない地区である。それで大型クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー募集のオーデションを受けたのであった。
昔、60年代後半から70年代初頭にかけてヤング720(ヤングセブンツウーオウ)という若者向け番組があった。今記憶している司会者は「関口宏、松山英太郎、竹脇無我、由美かおる、小川知子、大原麗子、吉沢京子、岡崎友紀 、黒澤久雄、目黒祐樹」 といった当時売り出しの若者たちだった。ヤング朝食会というトークコーナーには横尾忠則など当時を代表する新進気鋭の芸術家たちがでていた。グループサウンズブームのはしりのころで多くの若手バンドが出演していた。今も憶えているのはゴールデンカップス と改名する前の横浜のバンド「グループ アンド アイ」の演奏で日本のバンドと思えないリズム・アンド・ブルース・フィーリングをもっていて素晴らしかった。当時、若者であったわたしたちはこの番組によって時代の息吹を感じたものだ。
SFの相棒となる、中島茂男は日本時代、この番組に出演したりするミュージシャンだった。渡米後、ミュージシャン仲間だった泉谷しげるや井上陽水、山本コータロー、モップスの星勝 らが訪ねてゆくようになる。
鈴木ヒロミツが役者に転進して出身バンド「モップス」をおろそかにするようになってギターの星勝は「月光仮面の歌」を自分で歌ったりしたがアレンジを本格的に勉強して井上陽水のアレンジを担当することになって自分のアコースティックギターを中島茂男に貸しておいてロサンジェルスで仕事をする時、そのギターを使ってアレンジするようになったのである。それでわたしはホテルにそのギターを運んだものだった。
fumio



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クラブ「エンカウンター」の支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してその開催したエンターテイナーオーデションはさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈して日頃顔を合わせることのない他のエンターテイナーと知り合ったりしてコンテスト独特のある種の高揚感に包まれて楽しかった。その様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したりしてアナウンサーが番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ギタリストは大型高級クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー選考の選択肢にあまり入ってなかったようでほとんどのギター奏者がふるい落とされた結果そのオーデションに奇跡的にたったふたりだけ受かったギター奏者は、エレキギターの中島茂男とアコースティックギターのわたしだけだったが大繁盛していた当の「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれるとすぐにふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにした。それである日、中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していると、ヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。それが宮の下と山の下のフミオと中を取持つ中の島で構成されるバンドSFの始まりだった。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその23
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「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」
という映画が1977年11月に公開された。翌年、その題名にちなんだような「エンカウンター(Encounter)」という日系の大型クラブがロサンジェルスのダウンタウンに開店するのでエンターティナーのオーディションがあるという噂が流れた。行くと多くのミュージシャンが集まっていた。
ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。当時エンターテイナーとして活躍していたロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストが集まって覇を競った。さながら天下一ミュージシャンコンテストのようだった。ピアニストが多くギターではレコード大賞を獲得した「シクラメンのかほり」を弾き語りする人が多かった。順番にパフォーマンスをしてゆき、わたしも順番が来ると「シクラメンのかほり」をギターで弾き語りした。支配人は一週間分のエンターティナーを選考してそれぞれに曜日をあてがった。選ばれたのはやはりほとんどがピアニストだった。日本でレコードを出している歌手もいた。結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれという。エンターティナーが二人でやるというのは聞いたことがない変な話しだったけれどバンドの入っている雰囲気がして店が華やぎ演奏が豪華になる。開店してしばらく店は大盛況だった。客が帰ったあと多くのホステスたちがチップの取り分争いでつかみ合いするのを目のあたりにして驚いたりしたものだった。
けれどしばらくすると客足は遠のきなぜかあっけなくそのクラブはつぶれてしまったのである。それでヒゲの男、中島茂男(シゲさん)とふたり一緒に仕事を探すことにした。ふたりで仕事する方が楽しかったから。何軒もまわり広めの店に二人でひとり分のペイで数軒の店に入った。それでなんとか食ってゆけることになった。あの「エンカウンター」、つまり「邂逅」という名前のクラブはわたしたちを巡り合わせるために一瞬だけ存在した店であった。あの支配人が一緒にやれなどと奇矯なことを言わなければ「SF」というプロジェクトは生まれなかったのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその22

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そのころ、GTOのラジエターから水が漏れてオーバーヒートすることが多くなってしばらく走るとすぐ停まるようになったのでフォード社のピントーという中古コンパクトカーを手に入れた。
 1978年1月の小雨降る日、授業が終わってオリンピック通りを東に走ってウェスターン通りとの交差点の信号が黄色になって左にターンしているとき、信号が変わる前に渡ろうとスピードをあげて突っ込んできた車と衝突した。フォード・ピントーは数回回転して止まった。わたしたちは少しの間気絶していた。やはり左折が問題だったようだ。
 バス停で待っていた人々が一斉に集まってきて介抱してくれる。それはほとんどがアフリカ系アメリカ人(黒人)だった。身動きできずボーとしたまま、ただ親切な人たちだと感謝した。救急車がやってきて運び込まれたUSCジェネラルホスピタルで診察を受ける。わたしたちは額をフロントガラスにぶつけ、わたしは額に入った割れたガラスの破片をとってもらい、妊娠4ヶ月目だった妻は目の上が膨れたが、他に異常がなく安心した。
 翌日、ジャンク・ヤードに車を見に行くと完全にクラッシュして使いものにならないことがわかった。トランクの中にあったギターその他の仕事道具を調べるとだれかがすでに持っていってしまっていた。日本語の譜面まで盗らなくても、と思った。妻は身につけていた財布をとられていた。車の中を何度探しても見つからなかった。だれかが介抱しているふりをしてとったらしい。そのころのわたしたちは気絶している間も気を抜けない、ということをまだ知らなかった。

とりあえず仕事に車がいるのでわたしは急いでドイツの大衆車メーカー、オペル社のアストラ・クーペの中古車を購入した。結局その車をこまめに修理したり手入れして日本に帰国するまで使用することになった。わたしは夜は弾き語り、昼は学校という生活を続けた。そのころふたりで居住したマリポサ通りのアパートにはそれほど長くは住まなかったのだがそれでもいろいろなことがあった。隣の若い黒人が麻薬でおかしくなって窓から飛び降りようと自殺しかけて取り押さえられたり、煙がどこからか流れてきて火事騒ぎで避難したり、駐車場に駐車しておいたGTOのイグニションキーホールのシリンダー部分が工具で外されていたり、そのあたりでは人が見ていないとなるとなんとか車を盗もうとするらしかった。

 そうこうするうちに結婚式が近づく。ブーケ・トスのためのブーケを注文して当日取りに行く約束した。事故でぶつけて腫れた妻の目の上のたんこぶは日を追ってだんだん小さくなって血が下りてきて目のまわりを黒くしてきた。濃いシャドウのようになった。
 当日は金曜ということで先生も生徒もほとんど出席できない。家族も親戚もいない、ただ数人の友達だけの前で執り行うシンプルな結婚式だった。意味がわからない神父さんの言葉をオウム返しに唱える。神父さんは苦笑いしながら祝福する。それでも神の前で永久を誓い正式に結ばれたのだ。なにもないただふたりの出発だった。
 あの日、わたしたちに降り注いだカリフォルニア・サンシャイン は今もふたりの心に輝き続けている。序章、了。
fumio




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