monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその21

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 わたしの妻となることになったこの女性は日本で教習所に通って自動車運転免許証を取得していた。運転免許はこの国では身分証明書として頻繁に必要になるから、わたしごときが人に教えるのはおこがましいけれど米国の運転免許取得のためにと、日本とのルールの違いの認識や安全確認の重要性を力説してしばらく稽古につき合った。すると78点で合格した。運転もうまいといわれたという。良かったことは良かったけれどなんだか気が抜けた。当たり前だけどわたしの場合ほど心配することはなかったらしい。
 わたしたちは結婚式場を探した。どこがいいかさっぱりわからなかった。日本人の牧師さんがやっている教会に頼んでみようかと相談してセントメアリーという教会を訪ねた。しかし信徒さんでなければだめです、と期待は虚しくあっさり断られた。それでイエローページを調べて日本の芸能人がよく結婚しにやってくるという ガラスの教会を見つけた。そこは寄付金(ドーネーション)を納めれば良いということだった。電話すると土日の寄付金が一番高くて金曜日が割安だったので1978年2月17日(金)に決めた。結婚記念日はそんな経済的理由で決まった。
 そのランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapelは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) がなんと日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計したものだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその20

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やがて当然のようにマリポサ通りのアパートを借りてふたりで暮らし始めた。
 そのうち、ふたりが結婚することは学校中の衆知の事実のようになった。ある日、クラスにふたりで帰ってくると突然先生も生徒もみんなでサプライズ!コングラチュレーションズと叫ぶ。サプライズパーティが始まったのだ。贈り物やカンパの金を渡され、なにか歌えと所望される。それで「♪恋が計算通りにできるなら、こんな女(男)に惚れたりしなかった。あれこれ迷ってそろばん 弾き、それでもやっぱりこいつに決めた~」と日本語だったけれどふたりで自作の歌を披露した。今にして思えばあのイスラエル軍パイロット出身の男はキューピッドだった。名前はもう忘れてしまったが今頃どこでどうしていることだろう。わたしたちの名前も忘れてしまっただろうか。そう、縁結びの神は海外出張して多くの糸の中からふたりを選り分けて結んでくれたのだ…。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその19
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 「今度入った日本娘きれいだぞ、フミオ、」イスラエル軍のパイロットだった生徒がある日、ニヤニヤする。その娘はわたしの後ろの席に座った。それが一生の伴侶との邂逅の瞬間だった。今もそのとき覗いた瞳の輝きを鮮やかに覚えている。いろいろ学校のことや英語のことを尋ねてくる。わたしは隣に移動する。妹夫婦の結婚式に喚ばれて式に出席したのだがせっかくアメリカに来たのだからしばらく滞在して英語を覚えたいから入学したという。授業が終わるとサンタモニカのアパートへ車で送った。サンタモニカ方面の道はヘビー・トラフィックで慣れていないので運転初心者のわたしにはとてもこわかった。
 それから現在までかの女は毎日、わたしとともに過ごすことになった。 昼休みには車で食べに出た。一番頻繁に通ったのは学校に近かったラ・ブレア・タールピッツ にある美術館博物館群のひとつLAカウンテイ・ミュージアム のカフェテラスだった。その頃まだアメリカには余裕があってそれらの施設の入場料はタダだった。画学生たちが名作の前で何時間も模倣している。世界最高級の美術品をじっくりゆっくり堪能できた。そのカフェテラスのサラダは一人前をふたりで食べても食べきれないほどの量があった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその18
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色々な人々がわさわさ来るうちにある日、沖縄人が集まる店の女性オーナーがやってきて自分の店でエンターテイナーをやってくれないかと頼む。
店のステージで琉球舞踊や蛇皮線音楽のパフォーマンスをしているのだけどお客さんがあまり来ないのであなたに頼みたい。ペイは店が苦しいから30ドルしか出せないけれどお願い、という。わたしはエンターテイナーの相場とかも知らないし、生活ができれば良かったのでOKした。その店はLAPD(ロサンジェルス警察)のそばにあって沖縄語で「あしび」といった。日本語で「遊び」の意味だという。店には特別に沖縄や琉球の雰囲気はなかった。お客さんも沖縄人ばかりというわけではなく一般の店と変わらなかった。従業員たちも若い女性が多いので洋楽中心に演奏できた。ビートルズが好きなので
「オール・マイ・ラヴィング」
を歌ってほしいとリクエストされたりした。ビートルズはわたしにとって基本なのでリクエストがあればうれしかった。そんなこんなで従業員たちには評判が良かった。そのうちハリウッドの「蝶」という店で働いてほしいとオファーされた。その地区はアダルトシアターが多くてペイは50ドルで日本人のお客さんが多かった。頼まれるとなんでもOKして生活が安定してきた。一般の仕事の最低賃金がまだ時間あたり2ドルの時代でエンターテイナーは特別に恵まれていたのだった。
fumio





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カリフォルニアサンシャインその17
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エンターテイナーの仕事のペイは一晩50ドルだった。店が終るとオーナーのロイさんがチェックに50ドルと書き込んでくれた。翌日銀行で換金する。日本では給料を小切手でもらったことがないので変な気がした。こんな紙に金額とサインをしてあるだけで通貨に変わるのかと、ちょっと不安になりながら朝一番に銀行に出向いた。しかし銀行に金がまだ振り込まれていないという。それで振り込まれるのを待った。それでやっと初めてのペイが通貨になったのだった。
レストラン「栄菊」のナイトクラブにエンターテイナーが入ったらしいという噂を聞きつけて多くの人々がやってきた。
わたしは蝶ネクタイをしてなるべくそれらしい格好でエンターテイナーらしく振舞った。主にスタンダードナンバーを選んで演奏した。すると、やがて引き抜き合戦が始まった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその16
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その頃、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」は新人芸能人の登竜門として人気で運のいい出場者はレコードデビューしてビルボードHot100に入ってゴングショー出身歌手として人気になった。歌、ダンス、ジョーク漫談など審査員の前で様々な芸を披露して競う。パフォーマンスが良くないか、あるいは面白くないと途中で判断されるとその時点で合図されてゴングを鳴らされて打ち切られる。その時の出場者の愕然とする反応がなんとも面白くて人気があったのだ。最後までゴングが鳴らされないとジューシー・モーガンなど4人の辛口、軽口の人気審査員たちがおもむろに点数札を上げてその点数の合計でその週の優勝者が決まる。賞金は500ドルでわたしの通ったLA HIGH(ロサンジェルス高校)外国人英語教育プログラムの同級生たちはみんなゴングショーのファンで、フミオも出演しろ、と勧める。この番組に日本人が出演するのは見たことなかったけれど貧乏留学生のわたしにとって500ドルは大金でもし賞金がとれればこの国で何か月か暮らせると思って応募することにした。わたしが応募した日のサンセット通りのNBCのオーディション会場にはスターを夢見る夥しい応募者がやってきて控え室はごった返して殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りやパフォーマンスの稽古していた。そのオーデイションの空気は神経質でピリピリしていた。集まったシンガー達はスターを目指すだけあってさすがにみんな感心するほど歌がうまかった。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて師と仰ぐレイ・チャールズのジョージア・オン・マイ・マインドを歌った。第1次選考に通って数日後、第2次選考に喚ばれて行くと今度は人が少なく、歌ってみせるとキーボード奏者が音合わせしてどういうふうにギターを弾くかとかオーケストラのキーの打ち合わせなどをしてOKが出て誓約書を渡された。本番の時、オーディションと同じ服装で出ることなど、こまごまとあってバラエテイなのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。 放送には7秒ルールというのがあってライヴ放送でも7秒間遅らせて放送するのだと学校の先生が言っていた。それで突然の放送禁止用語にも対処できるし電波ジャックにもその7秒で対処するということだった。放送業界は表面上楽しそうでいて、いつも神経をとがらせているのだなあと感心したものだった。
本番で「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌う時「フミオ・フロム・トーキョー」と紹介されて、京都出身なので「キョートなのに」と思った。日本といえばトーキョーと言うのが決まり文句のようだった。
歌っている途中、司会も兼ねていた名プロデューサー、Chuck Barris(チャック・バリス)が女性と踊ってみせて、最後までゴングは鳴らされなかった。点数は審査員全員8点の札を上げてコメントは「ナイスバラード」だった。日本的発音の言葉の訛りで途中で打ち切られなくてホッとした。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその15

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 経済的にいよいよ逼迫して早くなんとかしなくてはならない。そんなとき、10thアベニューの学生寮のようになった家に転がり込んできた女子学生が夜、日本人街(リトル・トーキョー)の日本食レストランでアルバイトを始めてその店のピアノバーでエンターティナーを探しているという。早速、GTOにギター、譜面その他を積んでその店に向かった。店を探して夜のリトル・トーキョーをグルグル廻っていると不審車両と思われたらしくLAPD(ロサンジェルス警察)のオートバイに停められた。わけを言うとその店の場所を教えてくれた。店のオーナーは女性ピアニストを探していたのだがオーナーにギターの弾き語りをしてみせると仕方ないと思われたのか採用された。夜9時から朝2時まで演奏する。それが米国での初めての仕事だった。オーナーの意向は女性ピアニスト好みだったがわたしの演奏はバーテンダーやスシ職人など従業員には評判が良かった。その店は「栄菊」といって「子連れ狼」で有名な若山富三郎がオーナーのロイさんと仲が良かったのでアメリカにヴァケーション休暇に来ると寄るという話だった。芸能事務所の関係で日本の有名ジャニーズ系男性アイドルグループもやってきた。ある時見かけも態度もかっこいいバーテンダーが立派な特製オーデオ装置を備えたワンボックスワゴンにわたしを連れ込み「天国への階段」を練習しているのでギターでバックの演奏してくれと迫る。ハードロックのボーカリストになるのが夢のようだった。女性ロックボーカリストになろうとして長い夜を何度も練習しに来る女性もいた。わたしを含めてみんなそれぞれの夢にむかってさまざまにもがきながら進んでいた。その世界で成功するにはよほどの運と実力が必要なのだけどみんな途中であきらめてしまう。ネヴァー・ギヴ・アップ!
fumio

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カリフォルニアサンシャインその14
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そろそろ、車を購入しようと思った。この街ロサンジェルスは世界で一番広いことで有名なので仕事をするには車が必要だった。日本語新聞「羅府新報」の売買欄で「中古車売りたし」を見て車に詳しい友達と何カ所か廻った。見かけは良くとも走るうちにハンドルがちょっとずれたりするものは事故車のようでやめて最終的にポンティアックGTOを450ドルで買った。なぜならロニーとディトナスのGTO という曲が好きだったから。それは以前サーフィンミュージックとともに流行したホット・ロッド音楽で、米国のバイク界を席巻したリトル・ホンダ と並ぶ名曲だった。残念ながらリトル・ホンダのほうは社名が入っているのでNHKではあまり流れない。わたしには車の善し悪しは判断できないのでそんなことで決めたのだ。とにかくこれで車が手に入った。スピードは出さずよたよた、あるいはヨロヨロという感じで毎日稽古し慣れるとやっと学校まで走った。
fumio


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「カリフォルニアサンシャイン」その13
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 やがてアダルトスクールの主要メンバーであったイランからの留学生達はいつのまにか姿を消し気が付くと本国イランでは親米強硬路線パーレビ政権が倒された。イランイスラム革命と呼ばれる革命が勃発したのだ。あの留学生達も新政権樹立に働いたのだろう。残念なのは革命後振り子の反動のようにあまりにもナショナリズムが強くなりすぎたことだった。あの思慮深げな人物のような指導者が中枢になってコントロールすることができなかったのかもしれない。
fumio

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「カリフォルニアサンシャイン」その12
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クラスの構成はイラン50パーセント、ラテン系30パーセント、日本10パーセント、その他10パーセントといったところだった。雑多な人種が混じり合いそれぞれの目的のために英語を学んでいた。一大勢力のイラン人が常にワイワイ発言し日本人はおとなしかった。ラテン系は冗談好きでわたしに「ジョソイ・ロコ」と言えという。わたしがそういうと大喜びした。それは「ぼくは頭がおかしい」という意味だった。当たってはいるけれど言え、といっておいて言ったからといって、バカにして囃すのは子供みたいだった。それぞれに民族性が違うことを知ることができて良かった。あるとき隣の席のアルゼンチン娘が「男のものは日本語でどう言うの」と
訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。かの女はのちに米国永住権を得るために日系人ではなく中国系アメリカ人と結婚したからあの日本語はかの女の語彙に入らず忘れ去られてしまったことだろう。残念なようなそうでもないような、どうでもいいような…。


 日本人は大学に入るための英語力アップが目的の人が多く正しい英語を話そうとする。議論も考えてから喋るので口が重かった。他の民族は文法的に合っていようが合っていまいがお構いなしにとにかく喋りまくるので上達が早かった。イラン人たちはみんな大声で意見を述べ合うのだがその中にも思慮深げな人物はいて、みんなが騒いだあと静かに締めのようなことをいう。そして他民族の代表のようにわたしにも意見を訊く。わたしは部外者としての意見を述べた。かれらはチェスが好きで昼休みも休み時間も集まって楽しんでいた。チャンピオンらしいヒゲの男が脇を通ろうとするわたしを見とがめてチェスをしようと誘う。他民族代表としてわたしをチェスという知的競技に誘っているようだった。わたしは日本将棋は好きだったがチェスはあまりやったことがなくどうせ歯が立たないから断った。勝負するのなら勝てないにしてもいい勝負ぐらいにはしたかったから。
 そしてある日「ボビー・フィッシャーのチェス必勝法」という本を図書館で借りて帰った。何日か真剣に勉強してチェックメイト(詰み)のテクニックや基本定跡を覚えて、昼休みに集まって騒いでいるチェス好きのそばに素知らぬ顔で近づいた。やはり一通り対戦相手に勝ったクラスのチャンピオンが手持ち無沙汰になってわたしを誘うので仕方なさそうに受けて立った。油断していたらしく局面は覚えた定跡通り進み、チャンピオンは不思議そうに自分のキングを倒した。かれはボビー・フィッシャーに負けたようなものだった。申し訳ないような気がした。いくら強くても自信過剰で定跡にはまるといけない。
fumo

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「カリフォルニアサンシャイン」その11
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逃げるようにしてハリウッドヒルをあとにして落ち着いたのは西南区の黒人が多い地区だった。夜、5人ほどの同居仲間に挨拶してステレオをセットしてラジオをつけた。するとラジオの音をかき消すようにヘリコプターの音が聞こえる。みんなで飛び出して探照灯が照らし人が集まっている方へ走る。すると発砲音がして通りの黒人が倒れた。パトカーが集まってきて警官が倒れた黒人の死を確かめていた。夜の捜査線のひとつの結末らしかった。路上に溢れた血液を見て、このあたりでは夜飛び出すと危ないことに気づいた。
翌日には路上の血液はもうきれいに洗い浄められて事件を思わせるものはなくなっていた。噂では昨夜の事件は麻薬がらみのトラブルの後始末のようだった。その地域は西南区クレンショー地区10thアベニューなのでなんでも音楽に関連づけるわたしの脳裏にベンチヤーズの「十番街の殺人」 (Slaughter On Tenth Avenue)が繰り返し鳴り響いた。しかし、幸いその後の米国生活で人が殺されるのを目にすることはなくこの国は危険という感覚はうすれていった。
 それよりもそのときのわたしの課題は如何に所持金を長持ちさせるかということだった。住むところはみんなで家賃食費を出し合う形で最低限で済むようになった。しかし、とにかく今の学校は私立校なので学費が問題だった。早晩貯金が尽きてしまう。そこで政府が援助して授業料がタダの学校があると聞いて転校することにした。それはアダルト・スクールで大人を対象にしてENGLISH AS A SECOND LANGUAGE (ESL) PROGRAM、すなわち英語を第二国語とする人を育成することが目的のプログラムを実行していた。それまで面識もなく住ませてもらう挨拶もしていなかった10thアベニューの家の日系人大家さんに訳を説明して保証人のサインを無理矢理のようにもらってそのアダルト・スクールを訪ねた。そこは学校とはいうもののそれらしくなく家具屋の二階だった。授業料はまったくのタダではなく半年に50セントだという。一応払っているという形をとっているのだ。それならわたしにぴったりだった。クラスメイトは前の学校とは大違いでイラン人が多かった。米国政府の対外政策は毎年変わりその年はイラン人留学生を大量に受け入れていたのだ。パーレビ政権下で苦しむイラン民衆をそんなふうに応援していたのだ。かれらは自国で王を批判すると危ないがここでは毎日政治の話題に熱中していた。授業中も休み時間も男子女子を問わずとにかくうるさかった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその10
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 わたしはアメリカのクリスマスに興味があった。盛大に祝うのだろうと期待していた。家庭では七面鳥を焼いて食べるのだろう。日本とどんなふうに違うのだろうと。12月に入ってしばらくすると学校でクリスマスパーテイがあった。アルコール類はなかったがダンスしたりパンチを飲んだり談笑していると先生たちがみんな若いことに気づいた。20代後半から30代の女性が主で校長と副校長ぐらいが50代だった。パーテイの最後あたりにしつらえられたにわかステージに登ってギターを抱えて、リクエストに応えて当時のヒット曲を歌った。一番受けたのはヒットチャート1位を走るロッド・スチュワートの「トゥナイツ・ザ・ナイト」 だった。若い先生達も一緒に手拍子して首をふりコーラスする。うれしかった。文化はすべての壁を破る。パーテイが終わると女の先生達が一斉にやってくる。「あなたレベルCクラスの生徒でしょ。どうしてレベルCなの。Aでしょ」ワイワイがやがやうるさく質問してくる。歌は発音をコピーして何度も稽古するのでほとんどそのまま歌える。その歌手が南部訛ならその発音のまま歌う。ビートルズも自分たちで喋るときは英国リヴァプール訛だったが歌うときは米国南部訛が多かった。先生達に答えようとすると言葉がうまく繋がらず、やっぱりレベルCであることが判明した。めでたしめでたし。
そろそろ世間の家庭でクリスマスツリーが飾られだしたことが報じられだした。みんな、この季節になるとマーケットの庭に並べられる樅の木を買って帰って居間に飾るらしい。もうすぐわたしのホームステイ家庭でも樅の木を買ってクリスマスツリーを飾るのかとアメリカの家庭で経験する初めてのクリスマスを楽しみにしていた。子供がふたりいるのでデコレーションに凝るだろうし手伝おうと思って待っていた。しかしいつになってもそれらしい気配はない。「うちはジューイッシュなので、クリスマスは祝わないの。」とある日奥さんが言う。それでユダヤ家庭にはクリスマスが無関係なことを知った。「そうかといって、わたしたちの世代はユダヤ教の儀式もしないの」そういえばこの家には宗教的なものがなにもないことに気づいた。人種としてはユダヤ人であっても無宗教で暮らしているらしかった。実際に一緒に生活すると映画や本でみるユダヤのイメージでは測れないものがあった。こうしてこの年のわたしの米国生活初のクリスマスは期待に反したものになった。
「でも、そのかわり、よく働いてくれるからプレゼントを買ってあげるわ」と車で丘を下りてZODYSと称する雑貨マーケットに連れて行ってくれた。そのとき白いコットンパンツとイーグルスのアルバム「ホテル・カリフォルニア」を買って帰った。コットンパンツの裾上げを自分でして縫っていると「ミシンがないからどうしようかと思ってたの、そうなの自分でできるの」と奥さんが驚く。日本で小学校の家庭科の時間に針と糸の使い方ぐらいは習ったから当たり前だった。アメリカではミシンがなければ裾も上げられないらしいことにこちらのほうが驚いた。このとき、手に入れた「ホテル・カリフォルニア」はこの日から計り知れない夢を与え続けてくれた。ドン・フェルダーがマリブの海に沈む夕陽を眺めながら紡ぎだした永久の回転を思わせるあのギター進行。理解できそうでできない歌詞、それらがわたしをとりこにした。わたしは文字通り「ホテル・カリフォルニア」の囚われ人となろうとしていたのだ。
アルバム「ホテル・カリフォルニア」からは先行シングルとしてまず「ニュー・キッド・イン・タウン」 がリリースされてヒットしていた。「ニュー・キッド・イン・タウン」はフミオのことね、とこの曲は奥さんのお気に入りだった。翌年にはヒットチャートのトップグループに入るほどになった。ところが第二弾シングルとして「ホテル・カリフォルニア」がラジオから流れ始めると奥さんの表情が曇るようになった。聴くのをいやがるのだ。なぜかわからなかった。「わたしは、こんなところ来たくなかった。ニュー・ヨークは良かった。窓から外を見てるだけでも毎日なにかがあって楽しかった。ここにはなにもない」と嘆き出す。こんなに素敵な所、という歌詞の内容に反発を感じているらしい。そういえば近所づき合いはないし、ゴミを外に出すときにも人に見られるのを嫌がる。「カリフォルニアは嫌いなの。ニュー・ヨークに帰りたい」と訴える。それを毎日ベッドルームで夫に言い続けているらしかった。「今度、ワシントンにハズバンドが仕事見つけに行くの。ここ以外で暮らしたいから頼んだの。あなたに壁を塗ってもらうのはこの家をきれいにして高く売るためなのよ。親に援助してもらって25万ドルで買ったの」。意外だった。カリフォルニアが嫌いとは…。そのうちに本当に夫は車でワシントンに仕事探しにでかけていった。病院巡りをしているらしくなかなか帰ってこない。この家には長くいられないらしいと感じた。
「昨夜、ワシントンから電話があったの。ハズバンドが働く病院がみつかったのよ。あなたも一緒に来てくれる」と奥さんが訊く。家族でもないのについて行くのはおかしい。学校で友達に相談する。すると一緒にホームスティ先探ししたひとり、エイブが日本人学生数人で一軒家をシェアしているので来い、という。なんだか一家に悪い気がしたがワシントンに行きたくないので医師が帰って来る前に慌ただしく奥さんに別れを告げた。壁はまだ全部は塗り終えてはいなかったがかなりきれいになっていた。すこしは値段が上がるかもしれなかった。
fumio


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「カリフォルニアサンシャイン」その9
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授業で自己紹介の時自分の星座を言わなければならないのでアクエリアス と言った。蟹座はキャンサーと教わった。ホームステイの話題が出た時、ユダヤの家庭だけには入りたくないという人が多かった。ユダヤの家に入るとこき使われるぞ、という。ユダヤについての知識はそういえばシェークスピアの「ベニスの商人」の強欲な商人がユダヤ人だったな、とか「アンネの日記」に代表される第二次世界大戦中のホロコーストの被害者ということぐらいだった。入りたくないといってもだれがユダヤ人かという見分け方も知らないし、わたしは漠然とそんなものかと思っていた。

 毎朝、6時頃起きて、裏のハリウッドサインを見上げると、たまになにか飛行機のようでそうでないような飛行体が上昇していった。この裏あたりがUFOの基地になっているのかも…、と思ったりした。黒かった壁に白いペンキを塗っていると奥さんがハズバンドはキャンサーという。初めは授業で習った蟹座のことかと思った。しかしそれは癌のことだった。かかっているのではなくUCLAの癌科の医師だったのだ。大変な職業だと思った。
可愛い息子がふたりいて食事中、叫び声が絶えなかった。夜、わたしが疲れて椅子にもたれて眠っていると足に小便してゆく。それに気づいた奥さんが「オー・マイ・ロード」と嘆声をあげる。いつもなにかあると「オー・マイ・ロード」だった。テレビや街では「オー・マイ・ゴッド」を聞くことが多かったので不思議だった。訊いてみると「うちはジューイッシュなので、『オー・マイ・ロード』というのよ」という。それでこの家はユダヤ人家庭なのだ、と初めてわかった。医師夫婦は仲が良くて子供達との喧噪の夕食後、わたしにギターの弾き語りを所望する。最近の曲がいいか、と訊くと「ラヴ・ミー・テンダー」がいい、という。それでギターを抱えて歌い始めると、抱き合って踊りだした。西洋人の年はわかりにくいがまだ30代前半で恋人気分が残っているらしかった。そしてある日奥さんが日本の歌も聴かせてよ、という。それで日本のカラオケのレコードをバックにしてわたしが歌ったカセットテープをかけた。ふーん、これが日本の音楽、とやはりあまり反応はかんばしくなかったがカスバの女 に大きく反応した。「これはジューイッシュ・メロデイよ。聴いたことがあるわ、どうして日本にユダヤの歌があるの」と訊く。わたしは返事のしようがなかった。ただなぜか最後の「外人部隊の白い服」という歌詞で映像が浮かんできて胸が迫る思いがするので選んで歌ってみただけだったから。この曲のもつ切ないともエキゾチックともやるせないともなんとも表現のしにくい雰囲気はジューイッシュ・メロデイだからなのか、と思った。
fumio


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カリフォルニア・サンシャインその8

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 わたしはアパートを早く出よう、と思っていた。家賃が高いので貯金があまり長くもちそうもなかったのだ。
そんなとき、上のクラスの生徒がふたりやってきて一緒にホームステイ先求むの新聞広告を出そうか、と誘う。そのうちのひとりが 上田好久だった。
わたしたちはどんな文面が良いか考えながら ロサンジェルス・タイムス社に向かった。社に着いて広告部で説明すると文面を簡単に作成してくれる。費用は三人で出し合って翌日の紙面を待った。

連絡先を学校の電話番号にしておいたのでロサンジェルス・タイムスの広告に反応して翌日から学校の事務所に電話が入るようになった。そのたびに三人で面接にでかけた。ビバリーヒルズの大邸宅だったりダウンタウンの普通の家庭だったりいろいろだったがみんな断られた。なかなか決まらないものだと感じたが、そのうちにハリウッドヒルをかなり登ったハリウッドサインのそばあたりの大きな家に面接に行った。「この家のペンキを塗ってほしいの」と奥さんがいう。三人のうちだれがいいか、と訊くとわたしを選んだ。それでその家のペンキ塗りとしてホームステイすることになった。
とにかくこれで家賃から解放される、この国にすこしは長く滞在できそうになった、と思った。
fumio

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「カリフォルニアサンシャイン」その7
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 前日、筆記試験に受かった仲間で試験場にやってきた。
まず日本で運転免許を持っている生徒が実地試験を受けた。日本でも運転経験があるからきっと大丈夫と幸先良い報せを期待して待つ。試験場から街路に出て行くのをみんなで見守っていると途端に停まった。どうしたのかと思っていると、それでテストは終わりらしかった。みんなのところへ帰ってきて落ちた、という。反対車線に入ってしまったのだ。日本で運転に慣れていたのが徒(あだ)になった。車は右側通行なのに左に入ると対向車と正面衝突してしまう。その時点でテストはうち切られるのだ。どうなることかと思う。次の生徒は無事に進行していった。帰ってくるまでどきどきして待つ。しばらくして帰ってくると試験場の横に静かに停まった。採点表をもらって見せてくれた。手書きでfと書かれ落ちていた。安全確認でかなり減点されていた。わたし以外はそれぞれ運転経験がある男達だったのにと不安が大きくなる。もう一人がテストを受けているときわたしの番がきた。昨日稽古した車で待っていると横に試験官が乗り込んできた。東洋系のアメリカ人だった。タイかな、と思った。日本人に対して好感情をもっているようで態度が丁寧だった。とにかくこれから初めて街に出るのだ。おそるおそる進行して行くと当たり前だけど他の車が走っていた。なにも知らないということは強いもので試験官は平気でわたしに指図する。わたしはとにかく安全確認の動作をこれでもかと大きくアピールした。なににもぶつからず試験官のいうままに進んでいると大きな信号にやってきた。多くの車が停車している。汗が吹き出る。命知らずの試験官は「ターーン・レフト」と命ずる。ここを大きく廻って車の流れに入るのだ。わかっていてもあせった。小さく廻りすぎて後ろのトラックにあおられてびびったけれど試験官は「オーケー・オーケー、ゴー・ストレイト」とあまり気にしてないようで機嫌よさそうだった。縦列駐車もなんとかこなし試験場にたどり着くと試験官はその場で採点してくれる。「76点、あまりうまくないけれど、ぎりぎり合格。事故を起こさないように運転してね。わたし日本大好き、Have a nice day!」。
おかげで車に乗れることになった。たった数ドルの費用で運転免許証が手に入ったのだ。
待っていた先輩はわたしが受かったことに驚いて「半年ぐらい運転するなよ」と言った。
fumio




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