「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

心子の愛情飢餓

2006年02月13日 19時39分17秒 | 心子、もろもろ
 
 普通子供は、乳児期に親から全面的に抱かれ、何の心配もなく育っていくことができます。

 子供は両親から無条件で愛護されることによって、自分は大切にされているんだ,この世に生きていていいんだという、人間として生きる基本的な精神が無意識に養われていくわけです。

 ところがこの時期に相応の愛情が与えられず、身体的にも快適なアタッチメントがないと、子供は自分の存在を肯定できず、安心して愛情を信じることもできなくなってしまいます。

 それは成長してからでは取り返しが付きません。


 心子も右へ左へ浮き草のように漂い、愛情を欲しながら人の愛情を疑う、非常にアンバランスな心性を持つようになってしまいました。

 心子の摂食障害はこうした魂の渇きの現れでしょう。

 愛情を食べ物に置き換えてしゃにむに取り入れたり、その結果破綻して、反動で食べ物=愛情を拒絶することを繰り返すのです。


 『愛情飢餓』。

 それが心子の生きざまを縁取る根源的な苦悩でした。

 幼子が最も必須とするときに獲得できなかった親の愛情を、大人になってから死に物狂いで取り戻そうとする無意識の渇望です。

 しかし、それはどこまでも続く茨のような道なのでした。

(続く)
 
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心子の境界性人格障害の基

2006年02月12日 14時52分54秒 | 心子、もろもろ
 
ボーダーの原因は色々なことが考えられていますが、主に幼いとき親から適切な愛情が注がれなかったことだとされます。

 アメリカでの境界例の原因は児童虐待が多く、日本では過保護が多いと言われます。

 心子は出産時に足に障害を受けたため(成長してからは支障はありませんでした)、親は心子を抱き上げないようにと医者から言われました。

 心子は朝から晩までたった独りで部屋に寝かされ、仕事に忙しい両親に手をかけてもらえなかったそうです。

 心子は赤ん坊の頃から自我意識があり、胎児のときの記憶も残っていました。

 心子は寂しさを紛らわすため、枕代わりのタオルにほおずりしたり、天井の染みにひとつひとつ名前を付けて、お話して明かし暮らしたといいます。

 生まれてから最初の1年間、最も親の保護と愛情が不可欠なときにそれが得られなかったことは、心子の心に致命的なダメージを与えたことでしょう。


 ただし、最近分かったことですが、アメリカの現在の研究では、生物学的な原因が第一にあって、そこに生後の環境の要素が加わって、ボーダーは生じると言われています。

(ヤフーブログ・書庫「境界性人格障害」11月21日「ボーダーの原因」参照。↓TB)

(続く)
 
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心子と境界性人格障害診断基準

2006年02月11日 15時37分44秒 | 心子、もろもろ
 
 『過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く』というのは、まさしく僕が一番振り回されたものです。

 心子は自分自身に対しても、並外れた夢や気概と、無力感や絶望との両極を行き戻りする、『不安定な自己像』を擁していました。

 『目まぐるしい気分の変動,不安定な感情』『不適切で激しい怒り。それを制御できない』というのもその通りです。

 そして心子は『見捨てられることを異常に恐れ』、自分が見捨てられそうに感じ取ると、傷つく前に自分から相手を見捨ててしまうのです。


 また、心子の手には「吐きダコ」がありました。

 過食しては指を喉に突っ込んで嘔吐を重ねるため、指に歯が当たる部分にタコができるのです。

 これは『衝動的で自分を破綻させるような行為(過食)』に相当します。

 薬をまとめて大量に飲んだこと(物質乱用)もあったといいます。

(ただし浪費や不特定多数のセックスなどはありません。)

 それから心子は『自殺行為や自傷行為』もしたことがあると聞いていました。

 これは「行動化(アクティング・アウト)」と言われますが、心子は生きていても仕方ないという『空虚感』に捕われてしまうのです。

(続く)
 
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境界性人格障害の診断基準

2006年02月10日 11時48分59秒 | 心子、もろもろ
 
 僕は何冊かの本を読み、インターネットでも調べました。

 境界性人格障害の特徴は、感情や対人関係,自己像(自分のイメージ)の不安定さだといいます。

 特に衝動,怒り,愛情飢餓が強いとありました。

 アメリカ精神医学会の精神科診断基準「DSM-Ⅳ」(1994年)を要約してみます。

(BPD関係の人たちはもう嫌というほどご覧になっているでしょうが。)

 
・見捨てられることを異常に恐れる。

・相手に対する過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く、激しい対人関係。
(俗にジェットコースターと言われる)

・不安定な自己像(同一性障害)。

・衝動的で自分を破綻させるような行為(過食,浪費,セックス,物質乱用など)。

・自殺行為や自傷行為を繰り返す。

・目まぐるしい気分の変動,不安定な感情。

・慢性的な空虚感。

・不適切で激しい怒り。それを制御できない。

・一過性の妄想観念,解離性障害。

以上のうち、最低五項目が該当すれば境界性人格障害と診断されます。

 大半が心子と合致していました。

(続く)
 
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友人の臨床心理士の一言

2006年02月09日 20時33分02秒 | 心子、もろもろ
 
 心子が境界性人格障害だと分かったのは、実は臨床心理士の友人に相談したときでした。

 心子と恋人として付き合いはじめてしばらくした頃、トラブルが重なって心子にどう接したらいいのか困惑し、僕はその友人に電話をしました。

 心子のことを話すと彼女は言いました。

「その人、ボーダー入ってるんじゃない?」

僕はその当時ボーダーについては、最近若い人の間で増えているらしいが、接するのが難しい問題のある人、という大雑把なことしか知りませんでした。

 心理士の友人は、ボーダーの人はピュアで人を魅了するものを持っている,でも関わっていくにはこちらも命を諸共にするくらいの決意がいる,巻き込まれたらお終い,自分の全人格でぶつかるしかない、などと教えてくれました。


僕はボーダーについて詳しく知ろうと、書店で「境界例」の本を物色しました。

(「境界例」という言葉は最近あまり言われなくなってきているようですが、「境界性人格障害」より広い領域を指す通りのいい用語として使えるのではないでしょうか? 

 ↓TB参照)

(続く)
 
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身障者用のエレベーターボタン

2006年02月08日 20時39分13秒 | Weblog
 
 エレベーターで身障者用のボタンを押すと、車椅子の方などが利用しやすいようにドアの空き時間が長くなるのは、今は皆さん知っているでしょう。

 バイト先のビルのエレベーターには、何とこんな注意書きが貼られています。

「一般の方は絶対に身障者用ボタンを押さないでください。

 全エレベーターの効率的運行の妨げになり、到着が遅れます。」

 ちょっとひどい書き方です。

 まるで身障者の方が運行の妨げをしているような……。

(何故かちょうど「妨げ」の部分のシールがはがれており、誰かの義憤なのかと?)

 “健常者”の側からだけ見るために、こういう無配慮な言葉になってしまうのでしょう。

 ハンディを持った人が暮らしやすい社会はなかなか実現しないようです。

 まして外見では分からない心の障害を持つ人への理解は、まだまだ時間がかかるのかもしれません。

 ましてや境界性人格障害は、その名前も知らない人のほうがずっと多いのが現状です。

 周囲からは非常に誤解されやすいですが、少しでも早く理解されていくことを願うばかりです。
 
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小早川伸木の恋

2006年02月07日 20時28分11秒 | ボーダーに関して
 
 フジテレビで木曜夜10時から、ドラマ「小早川伸木の恋」(原作・柴門ふみ)を放送しています。

 主人公・小早川伸木(唐沢寿明)の妻・妙子(片瀬那奈)は、作品の中ではそうは言っていないのですが、境界性人格障害〔*注:〕であるように思われます。

〔*注:↓TBの記事をクリックしてください。〕

 妙子は伸木を深く愛していますが、感情のアップダウンが激しくて嫉妬深く、伸木を困らせます。

 伸木に対して120%の愛情を求め、満足できないとキレて部屋中をメチャクチャに荒らしたりします。

 でも翌朝にはケロッとして、明るく笑って伸木にキスをし送り出すのです。

 幼いときに母親の愛情を得られず、トラウマを持っているという設定になっています。

 演じる片瀬那奈は妙子のことを、愛情が中学生くらいのときから変わっていない女性、と言っています。

 ロマンチックで純粋な気持ちを持っていて、伸木にもそれを要求するのです。

 優しい伸木は妙子を愛しているし、彼女の執拗な求めに応えようと努力するのですが、それが負担にもなってきて、今後どう展開していくのか……。


 妙子の伸木に対する愛情は本物で、かわいくて純真な心の持ち主なのです。

 でも普通にはなかなかそれは理解されず、わがままで常識外れの女だと見られてしまいます。

(片瀬那奈もそこを気を付けて演じると言っています。)

 僕も「境界に生きた心子」がマンガやドラマになるのが夢ですが、ラブストーリーとして美しい心情が伝わるようにするのは、非常に難しいと思います。

 でも境界性人格障害が人々にも知られて、その内面が理解されるようにしていきたいと願っています。
 
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のえる

2006年02月06日 20時43分29秒 | Weblog
 
 友達が飼っている“変猫”、「のえる」の話です。

 下のトラックバックの記事をクリックすると、のえるの写真が見られます。

 のえるが部屋に入ろうとするときに、意地悪をして入れないようふすまを半分閉めると、いつもこんな顔をするそうです。

 毎朝、風呂のふたの上で寝そべっていたり、おかしな猫らしいです。(^^;)

 のえるは人から「人面猫」、「あんなに不細工な猫みたことない」などと言われるそうです。

 女子高生に言わせると「ぶさカワイイ」(不細工すぎて可愛いらしい)ということになるとか。

 のえるは捕まえたネズミを家の中に放してしまうため、ネズミが天井裏に穴を開けて出入りするようになり、屋根裏で繁殖してしまったそうです。

 駆除の工事に何と100万以上もかかってしまったと。

 普通は猫がいればネズミは減るはずなのに、逆に増えてしまうとはひどいものだと、友達はお冠です。

 のえるは何を考えているのか分からない,こんなアホ猫は初めてだと文句を言っていますが、おばかな猫ほど可愛いみたいです。


 実はのえるは最初、友達の家の近くの動物病院の前で車に轢かれて鳴いていたところを、動物病院の人が保護して手術をしたのだそうです。

 それを友達がもらってきましたが、獣医さんが「この猫ちゃんはとても甘えん坊なので、一匹で飼ってあげた方が幸せだと思います」と言ってくれたとのこと。

 顔に似合わず (?) 本当に甘えん坊で、毎晩誰かの布団の中に入ってきて安眠を妨害するらしいです。(^^;)
 
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コミックの「貸与権」

2006年02月05日 17時56分39秒 | 心理
 
 昨日の記事に、拙著「生死命(いのち)」(小学館)のことを書きました。(カテゴリー「関連本の紹介」)

 その単行本について、過日小学館から「貸与権の管理委託に関する契約書」というものが届きました。

 昨年著作権法が改正され、レンタルブック店でコミックが貸し出された場合、著者にも使用料が払われることになったそうです。

 正式に運用され始めるに当たって、小学館に貸与権の管理を委託するという契約です。

 「貸与権」というのは、「著作物を、著者に無断でレンタル店が貸し出すことができない権利」とのことです。

 少しずつ色々な権利が認められ、法制化で守られるようになってきたことは喜ばしいし、文化の成熟を表わします。

 でも実際には、「生死命(いのち)」はもうほとんど出回っていないと思われるので、使用料が入ることは期待できないと思いますが。(^^;)
 
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「生死命(いのち)」

2006年02月04日 19時11分20秒 | 心理
 
 昨日の記事「病院で死ぬということ」(書庫「映画」)に書いた、拙著「生死命(いのち)」を紹介させていただきます。

 10年ほど前、小学館ビッグコミックに連載されたマンガで、僕は原作のシナリオを書きました。

 ホスピスケアをテーマとし、主人公・市丸大(いちまるだい)の成長記でもあります。

 タイトルの「生死命(いのち)」は、「生命」には「死」も含まれるという意味の僕の造語です。


 東京の大学病院で最先端の技術を身に付けた市丸大は、実家の医院を営む父親が末期がんになったので、治療のために帰省します。

 大は自分の腕で何とか父を救おうとしますが、抗がん剤の副作用など、治療のために父がかえって苦しい思いをすることに疑問を感じはじめます。

 そして、最期のときを安らかに迎えるサポートをするのも医者の役割ではないかと気付き、大学病院をやめて実家の医院でホスピスケアを始めるという話です。


 今ではホスピスの考え方は普及し、僕の父も知り合いのドクターのホスピスで息を引き取りましたが〔*注〕、当時は日本でのホスピスケアの走りでした。

〔*注:1月5日の記事「父の最期」参照。TB↓〕

 過度の延命治療の中止,モルヒネの使用,告知,患者の自己決定権,遺族の癒しなど、テーマごとに話を作りました。

 感動して涙が止まらなくて困ったという人たちも大勢いました。(^^;)

 人間らしい医療を求めようとする大と、クールで論理的な院長・江波が対立軸になります。

 そして、大の幼なじみ・美佐は天真爛漫、患者の心のケアをたくまずして身に付けているような看護師で、大にハッパをかけます。

 シリアスな内容の話ですが、当時の人気投票では「ゴルゴ13」などの後に続いて、結構いい線いっていたと思います。(^^;)


 単行本として1~2巻が出ましたが、今は絶版になっています。

 下記のページで古本が入手できるようです。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409184121X/qid=1139026177/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-8795889-9241126
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4091841228/qid=1132240358/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-8795889-9241126
 
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「病院で死ぬということ」

2006年02月03日 21時00分27秒 | 映画
 
 昨日の記事「あおげば尊し」(書庫「映画」)の中に書いた「病院で死ぬということ」は、個人的にとてもゆかりの深い作品です。

 原作の「病院で死ぬということ」(主婦の友社)は、日本にホスピスを広めるさきがけとなった本で、1991年の日本エッセイスト・クラブ賞も受賞しています。

 著者の山崎文郎先生は、当時TVや雑誌などにもしばしば登場し、学会では“ホスピス界のアイドル”などと言われたりもしました。

 実は僕はその前から、山崎先生と四谷の「生と死を考える会」という所での知り合いで、久しく懇意にさせていただき、今も年賀状のやり取りをしています。

 僕は「病院で死ぬということ」を参考にして、ビッグコミックに連載された「生死命(いのち)」という、ホスピスケアをテーマにしたマンガの原作を書きました。

 「病院で死ぬということ」が市川準監督によって映画化され、テアトル新宿で上映されたとき、ホスピスや命などに関わりのある人が講師として日替わりで招かれ、トークショーが開かれました。

 そのうちの一人として、僕も呼ばれたのでした。(^^;)

 上映前にステージに上がり、司会者のインタビューに答えるという形のトークショーでした。

 著名なドクターや大学教授などが名を連ねるなかで、σ(^^;)が一番しょぼい講師ではなかったでしょうか。

 友人や、当時健在だった僕の両親も会場に見にきてくれましたが、親父はパチパチと写真を撮りまくり、結局僕の話はちっとも耳に入らなかったと言っていました。(^^;)

 そのときの“お車代”は、上映後の友人との美味な食事になりました。
 
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「あおげば尊し」

2006年02月02日 16時56分45秒 | 映画
 
 昨日映画の日、「あおげば尊し」を観ました。

 テリー伊藤が主人公の教師・光一役をすることで話題になっています。

 光一の父親は厳格な元教師(加藤武)でしたが、がんで末期を迎え、最後のひとときを光一たちが自宅で介護することになります。

 監督は、10数年前「病院で死ぬということ」でホスピスケアの話を撮った市川準。

 例によってドキュメンタリー風の淡々とした演出で、静謐な画面を繰り広げていきます。

 辛口コメンテーターのテリー伊藤も、普段とは全く別の顔を見せ、物静かで実直な教師・夫・息子を演じていました。

 とても素朴で素人とは思えない好演、新たな才能を見せられた思いです。

 ほとんど寝たきりだった加藤武も、セリフもない非常に困難な役柄を見事に演じており、感服させられました。
 

 さて光一の学校では、死に興味を持つ生徒・康弘が、ネットで死体の写真を見たりしています。

 見るなという光一ですが、何故いけないのか康弘に問われると、答えることができません。

 やがて光一は、死というものを生徒に教えようと、子供たちを自宅に招いて病床の父の姿に触れさせます。

 ここから死を学んでいくのかと期待したところ、子供たちは「キモイ」などと言い、結局以後は来なくなってしまいます。

 それが現実的でリアルなのかもしれませんが、作品はそこを越えて行って欲しかったと思うのは無い物ねだりでしょうか。
 

 康弘は実は幼いときに父親を亡くしており、父の葬儀を覚えていないということがずっと心の痛みになっているのでした。

 しかし光一の父と過ごすことによって、その傷が癒えていくという、割と古典的な話になっていきました。

 現代の子供たちにとって死はリアリティを失い、死んだ人も生き返ると思っている子も多い時代において、彼らが現実の死をどのように捉えていくか、という展開もありではないかと考えましたが、それも無い物ねだりでしょうか。

 しかし市川準のカメラは、分からないものは分からないものとして、そのまま真っ直ぐに映し出したのかもしれません。

 繰り返し挿入される、梅の蕾が次第に開いていく映像は、生と死の対比……というよりも、この世は生も死も一体なのだということを感じさせました。

 ラストは市川監督らしからぬシーンで僕はいただけませんでしたが、感動した人も少なくなかったようです。

 いずれにしろ、真摯な市川準の眼差しには非常に共感を覚え、目の前に指し示されたものを考えさせられるのでした。
 
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「境界に生きた心子」の裏話

2006年02月01日 08時55分43秒 | 「境界に生きた心子」
 
 「境界に生きた心子」は初め、心理関係のドキュメントとして小さな出版になる予定でした。

 新風舎の人たちも当初は、「境界性人格障害」というものを知らないような時期でした。

 ところが編集の段階で、境界性人格障害のテーマが再評価され、企画が拡大されることになりました。

 特に営業の人が、ボーダーは重要なトピックスだということを、編集会議で強く推してくれたそうです。

 また、最初の担当編集者の人が産休のために交代したとき、新しい担当の人は拙著を 「ラブストーリー」として読んでくれ、若い女性読者もターゲットにという軌道修正もされました。

 発行部数も増やされることになり、文字組みなども漸次グレードアップされていきました。

 テレビでもおなじみの心療内科医・海原純子さんの推薦文をいただくこともできました。

 また表紙は最初、僕は以前絵を描いていたので自分で描こうと思っていたのですが、やはりうまくいかなかったこともあり、プロのデザイナーに依頼することにしました。

 それも企画の拡大に従って、ランクが上のデザイナーに何回か依頼しなおし、最終的には相当格の高いイラストレーターの方に頼むことができました。

 林真理子さんや唯川恵さんの本の表紙を描いている人で、この人にやってもらえたのは「奇蹟だ」と編集者が言ったほどでした。

 そして現在のこの表紙ができたわけで、僕はとても気に入っています。

 発行部数のほうも、結果的に当初の予定とひとけた異なる数字になりました。

 お陰で少しでも多くの読者の目に触れることができ、本当にありがたいことだと思っています。

 これからも皆さん、「境界に生きた心子」をどうぞよろしくお願いいたします。
 
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