精大明神例祭にて、こんな艶やかな小町踊りが奉納されました。(7月7日の七夕祭)
伝説の織姫と彦星の登場です。
起源は奈良時代とされ、元禄時代に七夕の風習としてははやったと伝わります。
白峯神社は今出川に面して堀川と烏丸の間にある小さな神社です。
この日ばかりは、蹴鞠奉納と七夕小町踊りで賑やかになります。
蹴鞠は、小町踊の前に行われました。
公式の奉納行事が終わったあと、一般の参加者を募って遊ばせてくれました。
現代的にはサッカーの守り神となっています。
※(小町踊りの写真は2009年撮影)
参考資料:(引用:白峯神社公式サイト)
白峯神宮では、毎年七月七日午後四時三〇分からの「七夕祭」に、地元の少女たちによって「小町をどり」
が奉納されます。
この踊りは、元来、奈良時代、宮中の行事として始まった陰暦七月七日夜の乞功奠(きこうでん・巧みにな
ることを乞祈る祭り)の際、供え物として公卿等が詠んだ「和 歌」を届ける時に、文使い(ふみづかい)のお供
をしていた娘たちが、その道中で歌い舞った踊りが起源とされています。
その後、これが民間で七夕の風習になり、特に女子が手芸と芸事の巧みなることを願う祭事として定着し、
元禄の頃になりますと西陣界隈の乙女たちを熱狂させまして、あでやかな西陣織の着物を着飾って町々を歌を
うたい、踊り歩いたのが始まりであるとされています。
衣装は、紫のハチマキに桔梗の銀かんざし、緋の襦袢を片袖ぬぎにして、金襴のたすきと帯、赤いしごき、
青を基調にした着物は、緋とのコントラストがひときわあでやかさをまします。その着つけも、元禄の優雅さ
がしのばれ、一層乙女たちの可憐さを強調します。
左手に小太鼓をもち、右手のバチをかざしてシナをつくり、広場中央の七夕飾りの大笹の元、牽牛・織女の
周りを回りながら、歌に合わせて打ち鳴らすトントンとかわいた小太鼓の音が、静かな境内に響きます。
明治の遷都以後、この行事は途絶えておりましたが、これを惜しんだ地元の人々が、時代風俗の考証を吉川
観方、作曲・振り付けを茂山千五郎氏の協力を得て、昭和三十七年の七夕祭に復活させたものです。以後、今
日まで、夏の風物詩として、当神宮ゆかりの「けまり(蹴鞠)」と共に広く親しまれています。
また、「七夕」に当神宮に奉納されるのは、神宮の境内に地主神として尊崇されている地主社の御祭神(精
大明神)が和歌・けまり上達の守護神、また七夕の神とも伝承されていることによります。
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伝説の織姫と彦星の登場です。
起源は奈良時代とされ、元禄時代に七夕の風習としてははやったと伝わります。
白峯神社は今出川に面して堀川と烏丸の間にある小さな神社です。
この日ばかりは、蹴鞠奉納と七夕小町踊りで賑やかになります。
蹴鞠は、小町踊の前に行われました。
公式の奉納行事が終わったあと、一般の参加者を募って遊ばせてくれました。
現代的にはサッカーの守り神となっています。
※(小町踊りの写真は2009年撮影)
参考資料:(引用:白峯神社公式サイト)
白峯神宮では、毎年七月七日午後四時三〇分からの「七夕祭」に、地元の少女たちによって「小町をどり」
が奉納されます。
この踊りは、元来、奈良時代、宮中の行事として始まった陰暦七月七日夜の乞功奠(きこうでん・巧みにな
ることを乞祈る祭り)の際、供え物として公卿等が詠んだ「和 歌」を届ける時に、文使い(ふみづかい)のお供
をしていた娘たちが、その道中で歌い舞った踊りが起源とされています。
その後、これが民間で七夕の風習になり、特に女子が手芸と芸事の巧みなることを願う祭事として定着し、
元禄の頃になりますと西陣界隈の乙女たちを熱狂させまして、あでやかな西陣織の着物を着飾って町々を歌を
うたい、踊り歩いたのが始まりであるとされています。
衣装は、紫のハチマキに桔梗の銀かんざし、緋の襦袢を片袖ぬぎにして、金襴のたすきと帯、赤いしごき、
青を基調にした着物は、緋とのコントラストがひときわあでやかさをまします。その着つけも、元禄の優雅さ
がしのばれ、一層乙女たちの可憐さを強調します。
左手に小太鼓をもち、右手のバチをかざしてシナをつくり、広場中央の七夕飾りの大笹の元、牽牛・織女の
周りを回りながら、歌に合わせて打ち鳴らすトントンとかわいた小太鼓の音が、静かな境内に響きます。
明治の遷都以後、この行事は途絶えておりましたが、これを惜しんだ地元の人々が、時代風俗の考証を吉川
観方、作曲・振り付けを茂山千五郎氏の協力を得て、昭和三十七年の七夕祭に復活させたものです。以後、今
日まで、夏の風物詩として、当神宮ゆかりの「けまり(蹴鞠)」と共に広く親しまれています。
また、「七夕」に当神宮に奉納されるのは、神宮の境内に地主神として尊崇されている地主社の御祭神(精
大明神)が和歌・けまり上達の守護神、また七夕の神とも伝承されていることによります。
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