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伊能忠敬ーーー歩いて健康

2019-01-03 08:00:18 | 知識
 足で偉大な業績を残した超有名人、伊能忠敬いのうただたか、車で20分ぐらいのところに記念館がある。幕府の専門家がやれなかったことを、隠居した人がやって世界が驚く地図を残した。ところが、本当に測定したいことは別にあったらしい。

ウィキペディアから抜粋。

伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。ーーーーー

寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
1883年(明治16年)、贈正四位。
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幼少期編集
延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現在の横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がいて、三治郎は末子だった[1]。
6歳の時、母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになった。そのため婿養子だった父貞恒は兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残った。
小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。当時の小関村は鰯漁がさかんで、三治郎は漁具がしまってある納屋の番人をしていたと伝えられている[2]。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書き算盤や、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている[3]。
10歳の時、三治郎は父の元に引き取られた。神保家は父の兄である宗載(むねのり)が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した[4]。
神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない[5]。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いの元を転々としたといわれている[6]。常陸の寺では半年間算盤を習い、優れた才能を見せた[7]。また17歳くらいのとき、佐忠太と名乗って、土浦の医者に医学を教わった記録がある[8]。ただしここで習った医学の内容は、あまり専門的なものではなく、余興のたぐいだったといわれている[6]。
三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある[9]。ーーーーー


そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した[10]。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。
宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男の子1人がいた[11]。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした[11]。ーーーーー

この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている[18]。ーーーーー

この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設けて、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された[24][25]。ーーーーーーー

運上は免除願いたい」と申し出た[25][26]。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった[25][26]。ーーーーーーー


色々言い訳をしたが、最終的に奉公所から、「前から問屋をしていたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた[25][28]。
これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いの上、2人で一貫五百文と決まったーーーーーーー

伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった[28]。景利は佐原村や伊能家に関わることや、さらに他にも多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた[31]。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた[32][33]。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居した後になってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、後の忠敬の隠居後の行動にもつながることになる[34]ーーーーーー

佐原村名主へ編集
河岸の一件が片付くと、忠敬は比較的安定した生活を送った。安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている[35]。
 酒造 163両3分
 田徳  95両
 倉敷・店賃 30両
 舟利 23両2分
 薪木 37両3分
 炭   1両1分
 合計 351両1分

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忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた[67]。
 酒造 370両3分
 田徳・店貸 142両1分
 倉敷 30両
 運送 39両3分
 利潤高 450両1分
 米利 231両1分
 合計 1264両2分
安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる[68]。ーーーーーーー

江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主達に先納金・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており[72]、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。更に伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗余りだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)84石1斗余り、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗余りと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである[73]。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じて、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れと解される。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、ーーーーーー

弟子入り編集
寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえた[77]。
ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。ーーーーーー

同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。ーーーーーー

暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた[102]。ーーーーーー

正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案されたーーーーーー

食べ物に関しては、測量中に毛利家徳山藩が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節といったものを好んだという[370]。本人が妙薫などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている[371]。また、「歯が時々痛み奈良漬も食べられない」と書かれた手紙も残っている[372][373]。
身体編集
忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている[374]。
若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった[375][376]。加えて四国測量のころからは「痰咳の病」にかかるようになっていった[377]。これは現代でいう慢性気管支炎のことであり、冬になるたびに痰に悩まされていた[377]。そのため、とりわけ食事に気をつけ咳痰の予防のため、食事療法として鶏卵を用いていた[378]。特に70歳を過ぎた頃から、卵湯療法を続けている。鶏肉も滋養食として食事療法の対象としていた[379]。咳死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている[380]。ーーーーーーー






 気管支炎と卵は関係があるかもしれない。なくなるまで歩いていた、という感じだ。ものすごいことを隠居してから実行された。動機は、地球の大きさを知りたい、というそれだけで測量までやってのけて、誰も書けなかった地図を作られた。
 商人で測量家でもあり天文学者で行政家でもあられた。

 玄米か分つき米かそれとも白米かどれを食べられたのだろう。体が弱かったらしい。それでも歩行距離は人の何倍にもなっているだろう。歩くことは健康になるという証明だ。


 貨幣経済の浸透でずいぶん収入が増えたらしいが、後継者は周辺農家の疲弊で縮小を余儀なくされた。農地を集積しても商人的な事業拡張はできないことがわかる。



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