玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

昔の人の苦労の結果

2019-01-10 04:18:37 | 知識
 限界集落といわれるところがある。消滅が確定している集落かもしれない。相続など考えられないところだろう。
 
 鎌倉時代ごろから相続について取り決めができた。相続するものは家督であり資産以外のものも含まれていた。ウィキペディアから引用する。


家督
家父長制における家長権
ーーーーーーー
家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。
なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。
また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。
明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。ーーーーーー

 
 要約すると、
家督の相続は、嫡子の単独相続と遺産の分割相続から始まり、その後両方とも嫡子相続になったが内紛がたえないので、最終的に嫡子単独相続になったが、戦後廃止された。

 家長権は鎌倉時代にできたらしい。それ以前は遺産の分割相続だったのかもしれない。そうすると、現代は鎌倉時代以前の状態になっている。
 鎌倉時代以前には肉食禁止令が出ていて魚を食したようだが、現代は明治時代からの流れで何でも食べている。
 食べ物が元に戻っているので、複雑な制度も存在しない時代に戻る。農業と関係したものなら、なおさらだ。
 成立の目的が家長権を嫡子に集中させることだ。大多数は農民なので田畑の分散を防止するために。相続のたびに分割された農地はだんだん細切れになり使えなくなる。実際に一族が危険になる例が続出したのかもしれない。一人に集中させる方がかえって良い、ということになったのだろう。それを保証するために制度ができたのだろう。

 自給自足でやっていれば、何か災害が起きると終わりだ。万が一の場合、一族はたった一人のために駆けつけることになる。名目は嫡子の救済だ。ずいぶん単純な話になる。
 嫡子は現代の会社の社長と同じように見える。
 農業でも一族が存在しなければ、自分一人になるが、一人でやれるようになったのは現代の技術が登場してからのことなので、ちょっと無理だ。先の厳しさが予想できると嫌になるだろう。
 現代は自給自足経済ではないから何も先祖伝来の地にとどまる必要はない。しかしーーーーー

 ここに住むことが、どれほど恵まれているのかよくわかる。お金を使えばそれなりの効果が期待できる。何かあると、助けにきてくれる人がいる。

 好きなように田畑、農作業関係の設備を一人で使っている。相手は機械なので文句もいわない。文句をいうのは使っている方だ。
 
 

 






 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする